第7話
それは限界まで膨張した風船に似ていた。
容量以上の空気を噴き込まれ、伸張しきったゴム製の風船だ。
結束部から垂れた糸が手掛かりに結び付けられ、静かに風にそよいでいる。
傍目には静穏な光景だが、見た目ほどに平和なわけじゃない。
薄くなったゴムの皮膜は、いつなんどき破れるかしれない。
小さくささやかな針の一突きですら爆ぜ割れる準備が整っている。
些細なきっかけさえあれば、体表面に開いた小さな孔から空気が噴き出し、その圧力によって一瞬で自壊し、二度と元のかたちに戻ることはないだろう。
――その機会は、俺が思っていたよりずっと早く訪れた。
◇◇◇
直感めいたものが働いたのは、ドアノブを捻った瞬間だ。
いつも軽く開くはずのそれが、その日は微妙に重く感じられた。
無論、実際に重たくなっているわけじゃない。体感覚の微妙な差異は、得てして己の精神状態に起因するものと俺は知っている。
空手の試合に臨んだときの、あの独特のプレッシャー。それと似たものを敏感に感じ取ったと考えるのが自然だろう。
同時に、それは俺たちの家に本来あるべきものではないことも、俺はまた頭のどこかで理解していた。
「……ただいま」
言って、ドアを押す。廊下全体を一瞥で把握する。
リビングに続く扉が大きく開いている。これまであり得なかったことだ。小さな差異に兆しが見える。
眼を細めていると、母さんが中から出てきた。
慎重な所作で扉を閉めてこちらに顔を向ける。
鋭くした観察眼がそれを捉える。
ここに来てから伸ばし始めた母さんの髪も、もう随分と長くなった……。
「ああ、おかえり正斗。ねえ、悪いんだけどお夕飯はちょっと待っててくれる?」
「構わないけど……いったいどうしたんだ」
異変が起きた。そう断言して俺は告げる。
疲れの滲んだ表情が強張り、さらに暗い雰囲気が加味される。
「別に、大したことじゃないの。さっき優以ちゃんが広貴さんとお話したいって言ってきてね」
「優以くんが……それじゃあ、母さんは?」
「父と娘、二人水入らずの方がいいと思って出てきたのよ」
頭の中で警鐘が鳴る。予測しえた事態だった。
遅かれ早かれいつかは持ち上がる、そんな問題を鼻先に突きつけられている。
俺が深刻に考える様子に思うところがあったんだろう、母さんは少し早口になって被せるように言ってきた。
「部活で疲れたでしょう、今日はもうお部屋に帰って休んだら? 母さん、あとで正斗の部屋までお夕飯持っていくから」
如実にわかる。母さんは今、この扉の向こうから俺を遠ざけようとしている。
その先にあるものを隠そうしている。
だから、静かに首を振った。
「二人のことが心配だから、もう少しだけここで待つよ。話し合いが終わって、どちらかが出てくるまで」
「な、なに言ってるの! 正斗が心配するようなことはなにも起こっていないわ!」
逆説的な反応だった。本当に心配するような事態でないなら、そんなに焦りを見せる必然性がない。
「……そうかもしれない。だからこれは、俺の個人的な自己満足だ」
怯えた風の母さんの顔を見据えて、続けた。
「母さんこそ、自分の書斎に戻っていてくれ。夕食は二人の話し合いが終わったあとで食べるし、自分で片づける。早退続きで、仕事だって溜まってるだろ」
「そう、だけど……」
歯噛みして、しかし母さんはここで退かず。
「大事な、とても大事な話があったのよ。お夕飯を持っていくときにあなたと二人きりで話し合いたくて、だから私……」
「話ならちゃんと聞くよ。約束する。だから俺をここにいさせてくれ」
断固として突っぱねると、母さんが悔しそうに唇を噛んだ。
「お、親のいうことが聞けないっていうのっ!!」
「っ!! ……ちょっと、母さん!?」
右腕が両手で掴まれている。遠慮容赦なく締め上げられる。
まるで自分の手元からどこにも行かせないと言わんばかりに――。
「正斗! あなたは他ならぬ私がお腹を痛めて産んだ子です! 私、あなたをそんな風に育てた覚えなんてないっ!!」
「母さん、ちょっと落ち着いて! ……なに?」
音がした。いや、声か?
袖の上から爪を立てられる痛みに顔を顰めながらも、耳を澄ませた矢先に決定的瞬間は訪れた。
「――ふざけないでよっ!!」
悲鳴のような妹の声には、涙を我慢するしわがれがたしかにあった。
◇◇◇
それは反射的な行動だった。リビングの扉のノブを握り、開く――。
その手になにかが添えられている。いや、爪を立てて食い込んでくる。
ギリ、と力の限り握り込んで、まるで我が子を折檻するように。
「――正斗、ダメよ」
その人は言った。恵まれた美貌を歪ませて、俺の横に回って。
「だって私たちと関係ないもの。あれはあの二人の問題じゃないの」
正論のように嘯く言葉に、かつて正しさを見たこともあった。
未熟で幼かった頃の俺は――でも今は、違う。
親を諭す言葉を使うのはまだ早い、たぶん俺はそんな年齢なのに。
「違うよ母さん、俺たちは四人家族だろ」
「…………」
沈黙は言い返せないからで、正しさで俺が勝ったことを知った。
「……行くから」
ドアノブを握り直すと、俺は血が滲む右手で扉を開いた。