第6話
プリンを懸けたゲームが、できなくなった。
妹の姿が、リビングから消えた。俺が帰宅するとそこは無人、もしくは広貴さんが居座っていて、無言で仕事の書類を眺めている。
「……今、帰りました」
リビングの扉を開けて一声放つと、広貴さんがテーブルの上の書類の山からこちらへと注意を転換する。
「おかえり。今日は花丸甘味店に寄ってきたのかい」
「いえ、寄り道はなしです。花丸プリン、まだ冷蔵庫の中に残ってますから」
実際にこなした鍛錬以上の疲れをどっと感じて、俺は返答する。
そして扉越しにある、二階へと続く階段を見やった。
あの夜以降、妹は部屋にこもるようになった。
聞けば広貴さんと一悶着あったらしい。
今は、床を震わせるほどの轟音は鳴りを潜めている。さりとて完全に静かなわけでもなく、二階の妹の部屋からは音楽が鳴り続けている。
「不貞腐れてるのさ。ああやって音楽鳴らして、親の気でも引こうって魂胆なのかな。まったく子供すぎて本当に恥ずかしくなるよ」
独り言のような談話だ。おそらくは俺の同意が欲しいんだろう。
今の気持ちで乗りたくない。だから俺はここで、露骨なお為ごかしを使う。
「冷蔵庫のプリンですけど、よければ広貴さんが食べてもらえませんか?」
「プリンを僕が? そりゃまたどうして?」
「優以くんが食べなくなったんです。自分の分は食べるよう、廊下で擦れ違ったときに俺から言ったんですが……」
数日前、風呂上がりの妹に廊下で出くわしたとき、俺は冷蔵庫に残っているプリンについて直談判した。
妹は、お気にのパジャマに袖を通していた。見た目からはなんらかのショックや、落ち込みがあったように思えない。
纏う雰囲気は変わらずダウナーでフラットなのに、頑なに冷蔵庫の中にプリンだけは残し続けている。それを処理するよう、俺は言い伝えたのだ。
妹は、ずっと昔に興味を失った遊びを持ち出されたような顔をして返答した。
「……私の分、お兄が食べてくれていいよ。今ダイエット中なんだ」
後半部で眼を逸らす、明らかに嘘の混じった物言い。
けれど、これ以上突っ込むのは藪蛇というものだった。
少なくない時間をともに過ごし、俺は家族の言外のサインをある程度読めるようになっている。
それが言っていた――今は独りにしてほしい。
「そうか」
「んじゃ、おやすみ。お兄」
「ああ……おやすみ」
互いに就寝の挨拶をして、その日はそれで終わり。
プリンを懸けたゲームについては有耶無耶のまま、俺たちは宙ぶらりんの日常を過ごしている……。
眼の前で、くっと伸びをして広貴さんが口を開いた。
「ひとつくらいなら食べていい気分なんだけどね。会社の健康診断が近いんだ。君たち家族を抱えて一家の大黒柱が倒れるわけにもいかないし、次は色々数値を改善しようとも思ってる……だから正斗くん、君に食べさせてあげるよ」
語調に恩着せがましさを感じたのは、きっと気のせいなんかじゃない。
「……ありがとうございます」
「素直にお礼を言ってくれるのは君だけだよ。もう知ってると思うけど、安くないんだよそのプリン。それを捨て置くなんて、ホント、親の心子知らずって昔の人はよく言ったもんだよね」
それから癖になっている不快な笑い声が続き、子の心だって親は知らないのだと俺は心底から痛感した。
……翌日の朝に食べた花丸プリンは、これまで食べたものの中で一番味が薄く苦く、とてもまずいもののように俺には感じられた。
◇◇◇
妹が音の防壁の内側に隠れるようになって数日。
面と向かった再会は家の中でなく、意外な場所で果たされた。
「おはようございま……優以くん? どうしたんだ、いったい?」
朝練を終え、朝の服装チェックのために校門前に立つ俺の正面に、見知った顔が見慣れない状態で現れた。
表情はいつものポーカーフェイス。全身に漂うアンニュイでダウナーな雰囲気もそのままだ。ただ、その服装だけが違う。
妹は、校則を遵守した制服の着こなしで早朝登校を果たしていた。
「……そんなにビックリされるのは少し心外かも」
「あ、いや、すまない」
突然すぎる変節を見せつけられて、頭の中が白くなっていた。いかん。
そんな俺のリアクションをどう思ったか、妹は薄く笑みを浮かべて。
「今の地、出てた。外なのに優以くん呼び。事前に言ってなかった私も不親切だけどさ、お兄ってばちょっと驚きすぎでしょ」
だって本来はこれがフツーなんでしょ? と妹はどこ吹く風といった様子だ。
「優以くんこそ、学校でお兄呼びはご法度だって……もし誰かに聞かれたら」
「いるの? その誰かが、どこに?」
言われて首を巡らせる。制服姿の人の群れどころか人っ子ひとりいない。
思い返すと今はまだ、予鈴にだって早すぎる時間帯だ。
「服装規定は遵守。予鈴よりも早く正門からの堂々登校……どう? 今日の私って、お兄ほどじゃないけど結構ゆーとーせーじゃない?」
からかうように言って、妹は規定の長さに戻したスカートの両端を指先で摘まみ、まるで映画のお嬢さまの挨拶のように軽く膝を曲げてみせる。
その所作をまじまじと眺めてみれば、兄の欲目を差っ引くとしても、なるほどたしかにサマになっていた。
「……で、どうなの? お兄としての感想は」
「正直に言っていいのか」
「当然、嘘吐いたら針千本の刑だよ」
針千本は嫌だな。冗談じゃなくて近いことされる。これも経験上……。
「見違えた。とてもよく似合っていると思う。可能なら是非維持してくれ」
「んー? それはできない相談かな~?」
だろうな。俺もダメ元で言ってみただけだ。
それでも貴重な機会、努力くらいはしてみるか。
「髪色さえ戻せば……そうだな、清楚可憐って感じがするな」
「待って、ちょっとそれ褒めすぎじゃない? 一気に噓臭さが増したんですけど」
「いや、嘘じゃない」
――そう、嘘じゃない。
ギャル的な着崩しをやめた妹からは、だらしなさと周囲に与える威圧感が消えていた。それらの要素は、言わば素材の良さを台無しにする原色だ。オミットされれば自然、素材が持つ良さが前面に浮き出てくる。
「真面目な提案なんだが、今の服装を本気で続けてみる気はないか? 純粋に似合っているし、先生に与える印象も段違いによくなるぞ」
たとえ勉強が不得手な生徒であっても、真面目に見えればそれだけで得をする。先生たちの間で評判も上がるし、なにかと目もかけてもらえる。お目こぼしだってしてもらえるかもしれない。
けれどそんな兄の老婆心は、予想通り妹には届かず。
「別に、先生の聞こえよくするためにしてるんじゃないし……」
「クラスメイトの見る目だって変わるぞ。モテ始めたりするかもしれない」
「あーそういうのはちょっとー、マジでどーでもいいっていうかー」
本当に心底どうでもよさそうだったので、なんなら割と不快そうですらあったので、俺は話を戻すことにした。
「なら優以くんは、どんな心境の変化でそんなことしようって思ったんだ」
切り込むと、妹は右手の指先で髪の先端を捩りながら話し始める。
「一度、見てみたかったんだよね。この風景っていうかさ……」
「風景?」
「そ。いつもお兄がいる、ルールを守った世界に立つ自分、みたいなの」
えらく曖昧で抽象的な返答だ。俺は眉根を曲げる。
てっきりクラスメイトや友人かに唆されて服装を改めたのだと思ったのだが。
「……実際にやってみた感想は?」
「一口に言って私向きじゃない。ていうか、全然似合わないね。たぶんさ、ルールを遵守してカッコイイのは、お兄みたいなデキた人だけなんだよ」
褒め殺しや皮肉じゃない。妹は本気でそう言っている。
「堅苦しくて息が詰まる。こんな場所にずっとはいられない。本当にお兄はすごいって思うよ」
「そんなことはないさ。これも習慣だ。慣れれば優以くんだって……」
そこまで言ったところで、きょとんとした表情にぶつかった。
「違うよ? 他の誰かじゃなくて、お兄だからすごいって私は思うわけ」
「俺、だから? なあ、それはどういう意味で……」
問いただそうとしたとき、視線の先に登校してくる学生の一団が見えた。
死角にいる妹も、俺の言葉が途切れたことでそれを気取ったのだろう。
いったん口を噤んで、それから――。
「時間切れ。それじゃ、私行くね」
「お、おい、優以くん」
「その呼び名は封印でしょ……それじゃあね、正斗くん」
ひらひらと手を振って校門の内側に歩んでいく妹を追おうにも、前方からは既に制服姿の集団がやってきている。俺が対応しなければならない。
結局その日、俺が妹の口から行動の真意を聞くことはなかった。
学校でのお互いの呼び名は
正斗…妹(名前を呼ばないといけない場合「優以さん」)
優以…正斗くん
となっています