第5話
部活を終えて家に帰ると、とある異変に気づいた。
妹はゲームをするとき必ずリビングの扉を閉める。集中を乱されたくないという理由からだ。だというのにその日の扉は半開きになっており、中からテレビのものではない話し声がしていた。
「……優以くん? いるのか?」
靴を履き替えて呼びかけると、一瞬の静寂のあと、足音がした。
「正斗、おかえり」
リビングから顔を覗かせたのは母さんだった。どうしたのだろうか? いつもなら、広貴さんともども仕事のために自分の書斎に引きこもっているのに。
「珍しいな。ひょっとして夕食の時間でも遅れた?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど……ちょっと大事な話があって」
大事な話? 中に客人でも招いているんだろうか?
俺が首を傾げたのを目聡く見咎めて、母さんが説明役を買ってでた。
「誰か呼んでるってわけじゃないの。でもね、正斗にならわかると思うけど、母さんと父さん、最近仕事の都合で擦れ違いばかりだったでしょう? だから一度落ち着いて話をしようって、父さんから職場に電話があって……」
頭によぎるのは、今朝方広貴さんが見せた不機嫌な様子だ。
俺からの伝言を待たず、母さんに仕事を早退させて直々に伝えたのか。
「朝食を作るよう言われたんだな」
「そう、そうなのよ。けど私、持ち帰りの仕事もあるから眠るのは夜遅くになるの。途中で起き出すのは、正直とてもつらいのよ」
「つらいのなら……母さんが折れる必要なんてないだろ、そんなの」
扉の先に広貴さんがいる、それはわかっている。
わかっていてなお言った言葉に、母さんは頷きを返してきた。
あまりににこやかな笑顔。その裏側にあるものを予感したとき、時は遅かった。
母さんは扉を全開して、大きく声を張っていた。
「ふふ、正斗ならそう言ってくれるって信じてたわ……ほらあなた! やっぱり息子もこう言ってるじゃないっ!!」
瞬間、顔に血が昇る感覚がした。
盾にされた。言わされたのだ、俺は……。
ドンドンドン、と不機嫌さを隠そうともしない足音を響かせて、中にいた広貴さんが廊下に現れた。
「なに言ってるんだ董さん、正斗くんは今朝僕に約束してくれたんだよ。ちゃんと君のこと説得するって。今のは同情を求めて縋られたから、つい口が滑っただけだろう? ……なあ、正斗くん? そうだよな?」
片手を扉に置いたまま、同意を求める広貴さんは笑顔だ。
けどその眼は笑っていない。滲むのは、裏切りに対する怒りか。
「いえ。俺は、二人にちゃんと話し合ってもらいたくて」
「だからこうして話し合っている! 今さら正斗くんに指摘されるまでもない! ……ちゃんとわかってるよなぁ? それとも、そんなこともわからないのか、君は?」
語勢が厳しくなる。自制が解けかかっている。
よき父親としての、少なくとも広貴さんだけはそう信じている仮面が――。
勢いに吞まれて頷きかけた俺の肩を、母さんが掴んだ。
「ちょっと、息子に当たらないでください! みっともないっ!!」
「アハハァ……みっともないだって? でたねお得意のが。僕だけ一方的に悪人にして、デキた母親を気どってさ。そうやって、いつも自分を正義の側に置く!」
でも僕は忘れてないからな――広貴さんは続けて言った。
「約束を違えているのは君の方だ。仕事を辞めて専業主婦として二人の子どもを育てる――これが結婚の条件だった。僕はそれを信じた。家族で暮らす家だって買ってやった。だが君のやることはなんだ? 仕事は辞めない、子ども二人は放置する、夕食だって3日に2日は古い総菜の買い置きだ。僕はちゃんと稼いで大黒柱の役をやっているのに、君は母親の役をやろうともしない。失格だ、詐欺だろ、こんなものはっ!!」
ぶおんっ、と振り抜いた広貴さんの腕が空を切る。
「…………」
広貴さんの言葉の切れ味は鋭い。それは履行されるべき約束だった。結婚前に母さんは仕事を辞める手筈になっていた。よき母親をやれなかった、そう広貴さんが信じた、前妻の二の轍を踏ませないために。
今の広貴さんには、家族四人がなに不自由なく暮らすだけの十分な稼ぎがある。それは間違いない。だから、母さんが約束を反故にして仕事を続けるのは、母さん自身のエゴの問題だ。
家庭よりも仕事を優先した、その結果でしかない。
広貴さんにそのカードを切られたら、母さんは言い返せない。
俺だってそのくらいのことは理解している。けれど――。
「……ひどいわ」
じわ、と目尻に涙を滲ませた。同時にゆるりと手が振り上がる。
昔の悪癖が出かかっている。どうする? 力で止めるか?
俺が、頭上に伸び上がった母さんの腕を掴もうとした瞬間だった。
二階へ続く階段の先から、ぐおおおんっ、というとんでもない爆音が轟く。
「ぐううっ……な、なんだこのクソデカい音楽は! おい優以っ!! 二階でなにやってるんだ!! 近所迷惑になるから今すぐボリュームを下げなさいっ!!」
そう叫び、爆音を止めようと二階に駆けあがる広貴さんは、おそらく自分の身に降りかかろうとした災難に気づいていなかっただろう。
「うっ、うっ……ううぅ……」
口元を手で覆い、スイッチが切れたようにその場にへたり込む母さん。
泣いてか弱く震えるその背に、俺はそっと自分の右掌を添わせた。
介抱でも、慰めでも、同情でもない――それはひとえに、警戒の所作。