第4話
「……なあ正斗くん、君はどうしてそんなに部活熱心なんだ?」
不機嫌なのはわかっていた。広げた新聞紙で顔を隠すサイン。数年の間に何度も遭遇して経験で知った。広貴さんは、俺に構ってくれるなと暗に言っている。
だからその行動は矛盾だった。関わるまいとして遠回りにテーブルを迂回して冷蔵庫に達した俺の背に、何故そんなことを訊いてくるのか。
「そんなに、と言いますと?」
棚から昨日確保した花丸プリンを降ろしながら、逆に問う。
ザッという神経に触る音を立て、広貴さんが新聞のページを捲った。
「毎朝、早いよね。僕ほどじゃないけどさ。疲れないかと思ってね」
「お気遣いありがとうございます。ですが、習慣になっているので特に疲れは感じません」
「ふうん? ならいいけど……優以はまだ寝ているんだろう? 最近は夜中にコソコソ出歩いて、いったいなにしてんだろうな」
心臓の鼓動が、少し撥ねる。
アレのことを問題にしたいんだろうか。
ただし次の一言で、それは過ぎた杞憂と知った。
「まあ、どうでもいいね……すぐに帰ってきてるみたいだし。それに最近、正斗くんとも随分仲がいいらしいじゃないか」
チクリとした感覚は気のせいじゃない。
皮肉だろうか? でも、なんの?
「あの、広貴さん、俺たちは別に……」
咄嗟に口にしようとした言葉も、なんのための弁明かわからなくなっている。
広貴さんは言葉のトーンを変えず、淡々と返答した。
「ん? いや、深い意味なんてないよ。仲良きことは美しき哉ってね。僕は喜ばしいことだと思ってる。同校同学年で兄と妹って関係性は複雑だろう。君たちにそれを強要してしまってる現状を、父親として申し訳なく思うよ」
本音だとしたら俺の胸を打つ。けれどさざめきは訪れない。
上っ面だけの言葉だと知っているし、それを覆すような口調ではない。
だからその後に、本当に言いたいことが控えているのだと俺は思ったし、その予想はほどなく証明された。
「それより、どうして君が空手の道を選んだのか僕は聞いときたいな。親子なんだし、隠しごとは抜きにしてさ」
広げた新聞紙は相変わらず顔の前。
けれどその奥にはこちらを穿つような鋭い目線が予想された。
もはや意図は判明した。俺は直球をぶつけるだけだ。
「広貴さんは、さっきからなにをおっしゃりたいんですか?」
「なにをって、言葉通りの意味だけど? 含みとかはないよ。君が空手の選手として、一端以上にやれているか知っときたいんだ」
ああ、やはりそういう意味か。ならば答えなんて決まり切っている――。
「空手部主将という立場は、人望もありますが、俺が実力で掴みとったものです。空手というルールの上で戦う以上、俺は部員の誰より強いでしょう」
新聞紙が下がると、満足げな笑みを浮かべた広貴さんの顔があった。
やはりこれが正答だった。これが聞きたかったんだな。
「アハハ、元気にやれているならそれが一番だね……でもさ、正斗くんにはその先の目標とかはないのかい? インターハイとか、全国で何番に入るとか、部活熱心な学生なら狙うところあるでしょ?」
打って変わって気さくな感じ。答えを求められるシーンから移り変わったのだ。
心の中だけで溜息を吐いて、俺も平常心に心を落ち着ける。
「対外的な目標は特にありません。だけど内面的なものならひとつ」
「と言うと?」
「対戦相手が誰であろうと、臆することなく前に出ることです」
「前に出るって……えっと、それだけ?」
虚を突かれたような広貴さんだが、実際に立ち合いをしてみないことにはピンとこないだろう。
「勝負ごとは、始まる前に雌雄が決しています。戦いの間に実力差が埋まることはほぼない。けれど勝敗を覆す方法がひとつだけあります」
「あ、わかった。それが臆することなく前に出るってことなんだ」
新聞を傍らのテーブルに置き、パン、と手を叩いて広貴さんは言った。
だから随分と機嫌が回復していることに俺も気づく。
俺はこっくりと頷いて話を進めた。
「弱者は全力を出す以上のことはできませんから。そしてそれは、逃げ腰や及び腰ではできない。誰が相手でも必ず全力を尽くせること――俺はこれを、武道の真髄だと勝手に思っています」
目を見開いて驚く広貴さんには、きっと伝わってなんていないだろう。
これが俺自身に対する痛烈な皮肉なんだということは――。
「ごめんね、朝の忙しい時間に色々話させちゃってさ」
「いえ、特に。最近は広貴さんとも落ち着いて話せていませんでしたから」
「……落ち着いて話、か……」
瞬間、俺はまたしても広貴さんの纏うトーンが一変したことに気づく。
地雷は、踏んではいないはずだった。たしかに気を抜いている部分はあった。けれど義理の息子に久しぶりに話ができて嬉しいと言われて、機嫌を悪くする義理の父親なんてきっといないはずだ。
その所感は、広貴さんの先の一言で誤っていないと裏打ちされる。
「そんな顔しないでくれよ。君のことじゃない。董さんとちょっとあってね」
「……母さんがなにかしましたか」
「いや、なにかしたと言うよりは……なにもしなくなった、と言った方が適切かな」
チラ、と誰もいないリビングの入り口に一瞥を入れて。
「君も思うだろ? 一家の妻たる者がこれから仕事に出る夫の朝食を作らないどころか、顔を見に降りてもこない。昔はこうじゃなかったのにって」
同意を求められて、記憶を浚う。
母さんと広貴さんが籍を入れたのが3年前。正式に家族になった俺たちがここに越してきてから2年半になる。新婚当初はたしかに、朝に母さんの顔を見る機会が多かったように思う。だけど。
「それは、仕事の都合ですよ。ここに越してから母さんのシフトが遅い時間になってしまったから、やむなくそうなっているだけです」
言ってしまってから、しまったと思う。
蛇のようにねちっこい視線が、俺の顔全体に絡みついていた。
「なあ正斗くん。僕は思うんだけど――そういう些末なことは置くとしてさ、歩み寄りの姿勢は見せるべきなんじゃないかな」
脳裏に浮かぶ10:0の法則。それは経験則に基づいている。
一緒に住み始めてわかった事実がある。広貴さんは、自分の主張をすべて相手に飲ませようとする人格の持ち主だ。
「なにも僕は、毎日朝食を作れって言ってるんじゃない。だってそんなの無理筋だし、董さんにも悪いからね。けどこの家は誰のお金で買ったのか、その事実を思い返せば、きっと無理なことは言ってないはずなんだ。仕事が遅いなら、睡眠時間はとっていい。けどその間に一度、僕の顔を見にくるのが妻の勤めってもんじゃないか。他ならぬ一家の大黒柱の顔を、ね」
――そんな義務はない。
出かかった否定の言葉を、俺は喉元で飲み込んだ。
朝の時間は貴重だ。俺は朝練のために武道館を開ける義務があるし、今日は風紀チェックの当番も当たっている。遅刻なんて許されない。
対して、広貴さんは自分の主張を俺にすべて飲ませるためなら、電車を何本か遅らせるくらいどうでもいいと思っている。
それが許されるポストにいるし、なによりそうしなければ自分のメンツを保てないと信じ込んでいる。
苦々しい唾を喉の奥に追いやって、心にもないことを言った。
「……母さんには、俺の方からよく言って聞かせます」
「頼むよ。僕の言葉はどうも董さんには届かないみたいでね。感情的な様子であなたのわがままだと切って捨てられたよ。正論なのにさ」
その先に続くいつもの空笑いが耳障りだ。
俺は一息に花丸プリンを平らげた。
「すみません。今日は先に出ます。戸締りはお任せします」
「聞き分けのいい息子で助かるよ。本当、董さんにも見習ってもらいたいね」
上っ面の褒め言葉は、俺ではない誰かを貶めるために、よく使われた。