第3話
かくして、俺の花丸プリンを懸けた壮絶なる戦いが火蓋を切った。
人の慣れというものはおそろしい。
妹に強制されたこの謎ゲームに、俺の心体はあっという間に適応した。
1回だけなら特別な出来事でも、100回やれば身についた習慣だ。それは空手道を往く俺にとって身近な教訓と言える。
毎日欠かさず鍛錬をこなせば、それをしないことに違和感を覚えるようになる。身体が、鍛錬を欲するようになる。
「これで俺の7連勝だな。そろそろ白旗を上げたらどうだ、優以くん」
「ぐぬぬ」
今日も今日とて戦利品のクーラーボックスを玄関先に置くと、俺は妹に勝利を宣言した。
最初こそ面倒臭さが勝った。けれど、実際のところ夜のひんやりとした外気はクールダウンに最適だった。部活動で熱せられた肉体がジョギングの軽い運動負荷により適温に戻り、この後に控える勉強時間にもよい影響を与える。
さて、今日も歯ぎしりする妹の負け惜しみが始まる頃合いかな。
「まさかヒントすら一度も使わないとか思わなかった……お兄ってば、ずっと昔から日記でもつけてんの?」
「別にそういう習慣はないな。家族ごとだから記憶に残ってるだけだろう」
「ガクランヒョウキおそるべし……」
博覧強記ね。言わんけど。
「それより優以くんの方こそ、よく覚えてるな。二人に連れられて俺たちはよく会ってたけど、まさかその回数と場所と理由まで事細かに覚えてるなんて思っていなかったぞ」
クラスは違うが、妹はあまり成績がよくなかったはずだ。
廊下に掲示される成績優秀者の欄にも名前が載ったことはない。
特に暗記科目が壊滅的なのだと広貴さんが嘆いていたのを聞いたことがある。正斗くんが教えてやってくれ、とも。
過去のことが記憶に昇ったか、妹は深い溜息を吐いた。
「……あれね、ムカついてたから保存してんの。当時持ってたスマホに打ち込んでたんだ。電池まだ生きてるから、都度見直して確認してる」
「そうだったのか」
昏い表情だ。されたことを思えば、無理もないけどな。
「お兄はムカつかないの? 私がこんだけ腹立ててるんだから、お兄だって同じ気持ちだと思うんだけど」
「俺か……どうだろうな。水に流してあげたいとは思うけど」
思わず腕を組んで唸ってしまった。
心の中に割り切れない気持ちが吹き溜まる。
「へー、殊勝。私マネできない。お兄はさすがのゆーとーせーだね」
「……優以くん……」
俺の顔になにを見たのか、妹は伏し目がちになった。
「ごめん、今のすごい意地悪だった。忘れて」
「あ……ああ」
すぐに矛を収めてくれたことに安堵する。
「変な空気になっちゃったの私のせいだね。お詫びに、今日はいつものクイズはなし」
「これで花丸プリンの所有権は俺に戻ったってことだな。ならいったん冷蔵庫に……」
クーラーボックスの取っ手に手をかけたとき、違和感を覚えた。
それは両腕に抱えて走っていたときには気づけなかったものだ。
顔を上げると、妹が猫のようにいたずらっぽい笑顔を浮かべているのを見た。
「ネクストステージ」
「ねく……優以くん、これはどういうことだ? クーラーボックスの中身が随分と軽いみたいなんだが?」
揺らすとカラカラと音が鳴る。おそらく空の容器だけが入っている。
「連日連続正解してるお兄に妹からの朗報だよ。なんと今日から問題の難易度が上がります」
「な、なに言ってるんだ? 正解したんだから俺のプリンを返してくれ!」
「ふっふっふー、悪いけどここにはないぞよ? 確保したければそこなクーラーボックスを開けてみ?」
人質、ならぬプリン質を取られている状況では是非もない。素直にクーラーボックスの蓋を開けると、空のプリン容器に丸めた紙が挟んであった。
「これは……『設問②、4年前の10月7日に家族で会った場所』……?」
「そ。クイズ代わりの第2問。今度は徒歩30分圏内にあるよ」
「事前に2カ所も巡って置いてきたのか? 平日に?」
「優雅なゲームライフを送っても、なお時間が余るのが帰宅部のアドバンテージってヤツなのさ……」
ドヤってる妹の顔から目線を切り、俺は再び夜の住宅地へと走りだす。
明日は小癪な数学の小テストがある。全速力で目的物を見つけて帰ってくると、俺はシャワーもそこそこに明日の予習へと取り掛かることになった……。
◇◇◇
……段々と、勝率が下がってきた。
当然の話だ。古いスマホにデータを保存している妹に対し、俺は自らの記憶力のみが頼り。思い出になるくらい印象深い場所ならともかく、今の家族で会っていたのは近所のなんでもない場所が9割方だ。
近い記憶との混濁や、そのものが抜け落ちたりするのは仕方ない。
「ひ、ヒントをくれ」
「いいの? 使ったら花丸プリンが4分の1個なくなるよ」
私が食べちゃうんだけど? と首を傾げる妹に言って聞かせる。
「朝の楽しみを失うよりはマシだ。それに、俺が見つけらなかったら優以くんが回収して全部食べてしまうんだろう」
「ふふ。お兄もやっとゲームのルールがわかってきたね。良い子良い子。それじゃヒントだけど――」
このとき入手したヒントを頼りに見つけた花丸プリンは、妹の手により4分の1どころか5分の2くらい食べられてしまった……。
思えば、一口で4分の1いっちゃうね、といった妹の物言いからして怪しかったのだ。
俺のプリンにスプーンで十字傷を入れた妹は、そのうちの1個を掬い取ろうと奥深くまでスプーンを差し込み、一気に引き抜いて口元に運んだ。
「あ、ああ……ちょっと待ってくれっ!」
「いただきまーあむっ!」
うーん~美味しい~と頬に手を当て満面笑顔で舌鼓を打つ妹。
容器の中には、十字傷を大きく脱線して抉り取られた花丸プリンが残る。
目を覆うばかりの惨状に、俺は容器を両手持ちして震えて言った。
「くおおぉ……こ、これのどこが4分の1なのかね優以くん……!?」
「あ、ホントだ。食べすぎちゃったね。誤チェストでごわす」
覗き込んで、てへぺろ、と可愛らしく舌を出す妹。
まったく悪ぶらない妹よりも、自分への不甲斐なさが勝った。
「そうやって笑っていればいいさ……明日は、俺が必ず勝つからな」
「ひょっとしてやる気に火が入った? いいよ、私だって負けないんだから」
むふー、と鼻息荒くこちらの挑戦を買って出る妹だった。
◇◇◇
血の繋がらない妹との水入らずの勝負は、ややもすると新しい家族が辿るべき道筋に沿っていたのかもしれない。
俺のプリンを懸けたレクリエーションは、互いに仲違いすることなくその後もしばらく続いた。
花丸プリンは日持ちする。俺は、新たに買ってきたそれを妹が風呂に入った隙に冷蔵庫に入れ、俺が自室で着替えている間に失う。夜中に、保冷剤を詰めたクーラーボックスに入れて妹がこっそりと隠し場所へと移送するためだ。隠されたそれは、宝探しの財宝となる。
本気で防ごうとすれば、きっと防げただろう。少し工夫を凝らしたなら。
けれど俺はそれをしなかった。二人の間には暗黙の了解があった。
俺のプリンを懸けたこの勝負は、俺たちでなくては成立しない。世間様に大手を振って説明できない、二人だけの密やかな楽しみ――それは、改めてたしかめ合うまでもなく、二人の脳裏にあった共通認識だった。
そんな後ろ暗い悦楽に馴染んだ頃、ひとつの変化が家族に起こる。