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最終話(後編)

「なんて、まだ夢物語だけれど」


 焼けた食パンを皿に盛って、次に冷蔵庫が眼に入る。


 毎朝の楽しみだった花丸プリンは、もうそこに納められていない。俺が直接、広貴さんに断りを入れたからだ。あの日のことは、もう終わったことにしたかった。だから、これ以上の補償は不要だった。


 優以は、まだ眠っている。夜遅くまで勉強して疲れているんだろう。本当によくがんばっていると思う。昨日も時間を延長して机に向かい続けていた。


 それと同時に申し訳なく思う。

 返事を、ずっと待たせ続けていることを――。


「お兄の好きな場所、都合のいいタイミングでいいから」


 いつかの勉強の小休止のとき、優以は俺にそう言ってくれた。自分はこれまでだってずっと待ってきたんだと。だから、いざ思いの丈を告白した今になって、焦る気持ちなんて持ち合わせていないと。


 皮肉な話だ。広貴さんの懸念は的中していた。彼の軽はずみな行為が、娘のトリガーを最後まで押し込んでしまったのだ。


 あの夜、優以は俺に思いを伝え、そして俺たちは――もう元に戻れない。


「……優以……」


 思わず名を呟く。俺は知らなかった。優以が俺に気持ちを寄せてくれていたことを。ひとりの男として、好意を持ってくれていたことを――。


 何故なら俺にとって、優以はずっと妹だった。


 同学年で、別のクラスにいて、顔も名前も知らなかった女の子。母さんが広貴さんと付き合うようにならなければ、きっと面識を持つこともなく、ここまで深く関わり合いになることもなかったはずだ。


 ……優以に、言っていなかったことがある。


 俺が砕けた腕のために病院での療養生活を余儀なくされていたとき、彼女が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。


 口数も多くなり、見舞いに来ては俺に自分や学校ことを語ったり、色んな表情を見せてくれるようにもなった。


 あのとき、不謹慎ながら俺はこう思った――怪我を負った甲斐があると。


 義理の妹が心を開いてくれた喜びが、自分の罪を少しだけ軽いものにしてくれたのだ。このどうしようもない俺の心の救いになってくれた。


 あのときからずっと、優以は俺にとって世界で一番大切な妹で――。


 だから彼女が、俺のことをそんな風に想ってくれていたなんて、露ほども思い至らなかった。


「…………」


 全部、わかったつもりになっていた。それは驕りだ。人の心とは、そんなに浅いものなんかじゃない。他人の眼を介してすらそうなのに、自分すら把握しきれない自己までも存在する。


 俺にとって、優以とはなんなのか。この世界で一番大切なもの。それは承知している。彼女のしあわせをなによりも願っていることだって、承知している。


 けれどこれは角度が違う、と思う。


 白状すれば、俺は優以の結婚式を夢想したことがある。優以は花嫁で、純白のウエディングドレスに身を包んでいて、俺は親族席からそれを見ている。やがて現れた新郎に手を引かれ、優以は世界で一番幸福な女性になる。


 隣に立つ新郎のキスを受ける優以の姿を見守って、きっと俺は泣くのだろうと思っていた。


 俺の傍を離れ、いつか他の誰かと優以はしあわせになるのだと。


 だから上手く想像することができない。

 その場所に、新郎の代わりに俺が立っているところなんて――。


 それでもなんとか頭の中に像を結ばせようとしながら、俺は焼けたばかりのパンを齧った。


 けれど……まったく味がしない。


 悩みの深さが、俺の舌から味覚まで奪っている。


「って、そんなわけがないだろ! 塗ってないんだよ、バターが!」


 そんなセルフ突っ込みをして、俺は思わず手に持った食パンを床に叩き付けそうになってしまった。寸でで気を取り直し、深く深い溜息を吐く。


 ……ああ、最近はいつもこうなのだ。やたらセンチメンタルというか、気が付いたら物思いに耽ってしまっている。そのせいで日常生活の細々とした部分に支障まできたしている。しかも堂々巡りしている。


 前なんて、朝稽古の途中にフリーズして、後輩の正拳突きをモロに顔面に食らってしまった。額に傷痕だってまだ残っている。一生の不覚というやつだった。


「くうぅ……修行が足りなさすぎる……!」


 俺は両手で頭を抱えた。だが無情にも時は過ぎる。


 今日はたしか朝練と風紀チェックの当番が両方当たっている日だ。遅刻なんて許されない。凹んでいる余裕だってない。


「だから、とりあえずバターだ!」


 今考えたってしょうがないことは今考えたってしょうがない――唐突に脳裏に浮かんだトートロジーが何故か妙な説得力を持ち、俺は再起動に成功する。


 広貴さんのことも母さんのことも、優以のことだって後回しだ。辛気臭いのももうやめ。今はとにかくいつもの日常のペースを取り戻すこと、それが肝要なのだ。


 悩みはいったん脇にどける。俺は日暮坂正斗を完遂する。

 だからそのための第一歩を踏み出す。とりあえず、バターだ!!


 俺は立ち上がると、ツカツカと大股で冷蔵庫まで歩み、観音開きの扉を両方とも全開して――そこで、固まった。


「……な、んで……!?」


 後ずさり、咽喉の奥をせり上がった言葉もそこで止まる。

 そのくらい、俺は信じられないものを見た。


 ――何故なら、その光景はあり得ないはずだった。


 広貴さんは、俺の意思を尊重してくれた。だから、俺ももうそれを自分の手では買ってこないし、そのつもりだってない。


 あるとすれば母さんだが、職場はその場所とは駅を中心に反対方面に位置している。仕事の前にわざわざ出歩くのも考えにくい。


 順当に可能性を搾れば、候補はただひとりしか残らない。

 だけど、そんなことは不可能なはずだ。


 優以の心には深い傷がある。幼い頃に負ったその傷が呪いを残している。

 あの通りを歩くだけで、具合が悪くなって動けなくなってしまう、呪いを――。


 生唾を飲み込み、俺は冷蔵庫の中のそれに手を伸ばす。


 緊張しているのが震えでわかる。

 右手でそれを掴み、手前に引き戻す。


 隠れた容器の裏側を眼に入れ、俺は――逆の手で口元を覆った。


「……う、あ……」


 切れ切れの言葉。自動的に吊り上がってゆく両の口角。

 隠すように広げた掌の下で、意思に反して勝手に象られていく笑み。


 だって、こんなのは卑怯だ。


 あまりにも……あまりにもうれしすぎる!


「食べられるわけ、ないだろ……こんなの……!!」


 じわり、と滲むように胸の奥になにかが生まれる。それはあっという間に全体を覆い尽くし、胸の中をそれだけでいっぱいにしてしまう。


 温かな気持ちが波のように絶え間なく押し寄せて、これまで感じたこともないような幸福な気持ちに誘われる。


 容器に書かれた見慣れた文字を凝視し、そこからわずかばかりも眼を逸らせない。もしもこれが幻なら、消えてくれるなとすら思う。


 体温が上昇して頬が熱い。さっきから心臓が激しく脈動し、熱い血潮を全身に送り出している気がする。


 俺の脳裏に思い浮かぶのは――。


「……違う」


 大切な妹のことを、そんな眼で見たことはない。


 だからこの感情だって気の迷いのはずだ。時が経てば小康状態となり、やがて痕跡すら残さず消えてしまう、その程度の一過性の気の迷い。でも――。


 だったらなんで、さっきから俺は優以の笑顔を思い浮かべているんだろう。

 それが全然、消えてくれないんだろう。


 泡のように、何度も何度も浮かんでくるんだろう。


「違う……こんなのは……」


 理性的になれ。落ち着いてよく考えろ。


 一時の感情に振り回されてどうするつもりだ。お前は、そんな気持ちをずっと抱えているつもりか? 一日中? 本気で思っているのか。


 だいたい今日は部活を途中で切り上げて、念の入った勉強会を開く予定だっただろ。そしたら優以の部屋で数時間はずっと二人きりだぞ。こんな気持ちのまま、本当にそこにいていいと思っているのか。


 なあ、本当にわかっているのか、日暮坂正斗――。


「お、俺は……俺はっ!!」


 手に持ったプリンを冷蔵庫の中に戻す。

 視界に入らないよう弾けたように両手で扉を閉める。


 ……ああ、もう全然バターなんて言ってる場合じゃなくなった。


 俺はその場から踵を返すと、ひと齧りしただけの食パンをテーブルの上に放置し、学校鞄を手に取る。


 そして家の中だというのに全力で廊下を駆け抜け、踵を踏み潰しながら靴に履き替え、玄関を出て勢いそのままに外へ走りだした。


 熱を持った頬を、朝のまだ冷たい外気が冷やしていく。

 それでも俺の心の中から、優以の笑顔はどうにも消えてくれなくて。



 ――トクンと、胸の中でなにかが高鳴った。



◇◇◇



 慌ただしく去っていった正斗を見送って、【それ】はまたしても冷蔵庫の中で時を待つ。


 【それ】の存在としての本懐は、誰かに中身を食べられることだった。ビニールの包装を解き、押し込み型の蓋を外し、内容物を口に運んで舌鼓を打つ。


 甘味は、人にとって最高級の嗜好品となる。正斗にとってもそうだ。蕩けるような甘みを持つ花丸プリンは彼の大好物であり、長らく毎朝の楽しみだった。


 だからもし、【それ】に意思があったとしたなら、怪訝に思ったことだろう。一番の大好物でありながら、どうして正斗は自分を食べようとしなかったのか。


 ……その答えが、まさか自分の背中にあっただなんて、きっと思いもよらない。


 かわいらしい丸文字で、その背にはこう書いてあった。



『お兄の!』



 そして、【それ】はまだ気づいていない。

 自分の他にもうひとつ、同じものが冷蔵庫に納められていることに。


 閉じられた扉、暗闇の中。

 先に納められていたものと【それ】は今、並んで鎮座していた。


 正斗が乱暴に冷蔵庫に戻したせいで、当初あった位置よりも奥に押し込まれ、死角にあったもうひとつの、ちょうど真横に置かれることになったのだ。


 もうひとつの【それ】の背にも、同じ筆跡で文字が書かれていて――。



『こっちも!!』



 今は、二つ仲良く、寄り添うようにして並んでいた。

完結までお付き合いくださり、どうもありがとうございました

もしよろしければ、全体としての評価、感想などつけていただければ、今後の励みとさせていただきます

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