最終話(前編)
目覚まし時計のアラームを待たず、定刻通りに眼が覚める。
この日も身体に刷り込まれた習慣が、睡眠時間すら統御した。
俺はベッドから出て、制服に着替え、諸々の支度を終えて部屋を出る。
静かな朝。カーテンを貫通して差す朝日に眼を細める。
今朝もダイニングには俺ひとりだけ。広貴さんの姿はない。
「今日も仕事か……」
寂しくもないのにそんな言葉が出るのは、あの人の姿もまた、俺の日常を構成する一部だったからなのかもしれない。
あの夜、広貴さんは、精神状態がヴァイオレットタイガー時代に戻った母さんの研ぎ澄まされた絶技のほぼすべてを自分の肉体で味わうことになった。
辛くも病院直行即入院レベルの怪我を負わなかったのは、エリートサラリーマンらしく常日頃から身体を鍛える習慣があった賜物だそうだ。
自宅療養していた広貴さんが再び会社に出勤し始めて2週間が経つ。
その間、彼は一度もこの場所に姿を見せることがなかった。
仲の拗れた義理の息子と顔を合わせるのが気まずくなったから――当初、俺はそのような理由から広貴さんが姿を見せなくなったと思っていたのだが、その憶測は間違っていた。
広貴さんは、本来俺より早く家を出なければならない立場にあったのだ。それも、ずっと以前から。
これは母さんから伝え聞いた話になるが、広貴さんは俺と一緒に朝食を摂る時間を作るために、いつも夜遅くまで書斎にこもって仕事をしていたらしい。
彼は彼なりの方法で、義理の息子と距離を縮める努力をしていたと――。
「そんなの、おくびにも出さなかった癖に……」
呆れたような声になる。大切なものはいつだって眼には見えない。そう断言してしまうわけではないが、当の本人が隠してしまうこともある。
必死だと思われたくなかったのだろうか。執着はカッコ悪いと感じていたか。努力なんて土臭いと思っていたのか――何事もスマートにこなすのがモットーの広貴さん的には、そのすべてが理由であっておかしくない気がする。
けれど俺にとっては、そんな隠れた努力こそ、彼が今までしてくれた何事にも増して一番うれしい出来事だった。
だから今は、前よりも少しだけ広貴さんのことがわかる。
今、俺たちの心情を汲んで距離を取ってくれていることも。
「…………」
キッチンでコーヒーを淹れながら、ふと母さんの様子が気にかかる。
あの夫婦喧嘩以降、母さんは職場のカムフラージュを解禁した。広貴さんに正体がバレてしまった以上、今さら隠し立てしてもしょうがないと思ったのだろう。
母さんが、血沸き肉躍る女子プロレス業界に呼び戻されて数年が経つ。かつての所属団体から、半ば泣きつかれるようにして復帰を乞われた母さんは、最初悩みに悩んだそうだ。
俺がいる以上、今さらレスラーとして復帰はできない。さりとて、自分を見つけ育ててくれた団体を黙って見捨てられるほど冷血にはなれない。
コーチとして後進育成に当たるという結論は、そんな板挟みの状況の妥協点に位置したものだった。
承諾はしたものの、母さんには不安があった。当時まだ広貴さんと付き合い始めて日の浅かった母さんは、仕事先を通じて自分の過去が露見することを恐れた。広貴さんは、淑やかでかわいらしい母さんの姿しか知らない。本当の自分を知られて嫌われたらどうしよう。
職場のカムフラージュは苦肉の策だった。母さんはかつて籍を置いたプロレス団体に条件を突きつけ、家や家族から連絡があった際は別の企業名を名乗るよう手配した。
その試みは上手くいったと言えるだろう。広貴さんも、優以も、今の今まで母さんの仕事をコールセンターのスタッフだと思い込んでいた。よもやリングの上で竹刀を握り、後輩レスラーに檄を飛とばしていたなんて、思いもよらない。
昨夜も夜遅くまで指導に当たっていた母さんは、今はまだ眠っている。母さんにとって後輩レスラーは、かつて同じ釜の飯を食べた大事な仲間たちだ。だから広貴さんが再婚の条件として仕事を辞めることを要求しても、飲み込むことができなかった。
いや、一度は飲み込んだのだが、職場で仲間たちに告げたら大泣きされた。母さんは結局、彼女たちを捨てることができなかった。
人には事情がある。それは眼に見えるものだけじゃない。隠されている事情だって絶対に存在する。
だからって、利用された側が利用した側を許すことなんて、おいそれとはできないだろうけれど――。
戸棚から食パンを取り出す。トースターにかけると、俺は皿を準備してしばらく待つ。テレビを点けて、ニュースキャスターの声を静かな朝のBGMにする。
ぶつかり合いを避けてきた。不満があっても、それをただ抱えて。だから無理が生じた。膨張し続けた風船は限界に達し、どこかに空気の噴き出し口を求める。まるで示し合わせたかのように、二人は同じ一点に狙いを定めた。
それは繰り返しだ。かつて彼らが俺たちを逢引の口実にしたように、今度は別離の口実にしようとした。息子と娘をなによりも大切に想う、理想の両親のポーズを取りながら、生贄の羊に優以を選んだ。
あれからずっと考えている。優以は、二人を許せるだろうか。手前勝手な行動を取り、その責任を俺たちに押しつけてきた二人のことを――。
「許せるわけない、よな」
思わず出た呟きは、それが自然だと思わせる説得力がある。もしあの二人の行動の被害者がいるとすれば、優以こそが最大の被害者だ。
だけど俺は、そんな家に優以を連れ帰った。
もう一度、最後まで一緒に戦うために。
だから――絶対に最後まで諦めてはならない義務が、俺には存在する。
なし崩しにぶつかり合ったことで、二人は少しわかり合えた気がする。あれから目立った諍いは起こっていない。さりとて今後そうならない保証はない。雨が降り、固まったかのように見える地面の下、そこにある深い亀裂が地割れとなって家族をバラバラに引き裂こうとする可能性は依然として存在する。
そうなれば、俺は優以の側に付くだろう。たとえ二人と袂を別つことになったとしても、今度こそ優以の前に出て盾になる。
「…………」
少し、悲観的な想像に浸りすぎていると自覚して、俺は頭を振った。
心配してもしなくても、これから先どうなるかなんて誰にもわかったりしないのだ。積み重ねた今の結果として、明日がやってくる。だとするなら、今日を全力で生きることが、求める明日へときっと繋がってくるはずだ。
あの夜、優以が俺に言ったことがあった。
しあわせな家族はみんな似ているのだと。
そのときはそういうものだと思った。けれど今は少しだけ考え方が違う。
この世界に、本当にしあわせなだけの家族なんて存在するんだろうか?
水鳥が水面下で必死に足を動かすように、それは誰かが努力した成果なのではないか。
もしそうなら、見た目だけでも俺たちはそうなりたいと思う――しあわせな家庭で、しあわせな家族だと。
そのための努力なら惜しむつもりはない。
何故なら昔も、今だってずっと思っている。
……俺の胸に、あの人たちの名前も書ければいいのにって。