第17話
「おかえり。電話長かったね……ってなにその顔?」
俺を見て優以がギョッとした。やはり顔に出ていたか。
苦笑して、事情をボカしながら説明することにした。
「話が途中で悩み相談になってな。激励してたら遅くなった」
「へー。お兄ってば頼りにされてるんだねー」
「そんないいもんじゃないけどな……マジで……」
心底からの本音に、思わず溜息もくっ付いてくる。
古来より伝わる諺がある。
将を射んと欲すればまず馬を射よ。
そのものずばりというわけではないが、今俺の周囲に巻き起こっている事態はこれにかなり近い。
それは勉強を教える交換条件として、優以に突きつけたもののひとつに端を発している。
校則遵守――髪色を戻し、制服を正しく着こなすこと。
身だしなみを整えることが、翻って生活習慣を改める第一歩になるという考えから出たものだったが、これがとんだ副産物を生んでいた。
簡潔に言ってしまおう。優以が異様なレベルでモテ始めた。
兄の欲目を差っ引くとしても、いい線はいくものと思っていた。以前校門で正しく制服を着こなす姿を見たとき、髪色さえ戻せばと悔やんだこともある。
顔立ちは元々、広貴さんに似て端正極まりないのだ。明るい髪色から戻して黒髪セミロングになれば、どこに出しても恥ずかしくない清楚可憐な美少女ができあがる。
だだしその認識は甘かった。俺の条件を実行した優以の人気は、火山が噴火するかのように一気に爆発した。
そして事態は急変する――。
「もしもし、これ日暮坂正斗のスマホで合ってる? 俺、〇組の〇〇っていうんだけど――」
俺のスマホに、知らないアドレスから電話が殺到し始めた。
聞けば、優以を紹介してほしいという男子生徒の仲介願いだった。
はっきり言って、そんなものは本人に直接言えよと思う。よって俺は、片っ端から断って着拒に突っ込んでいったのだが、それすら貫通して話すことになる相手がいる。ついさっき失恋の痛手を負った中島もその手合いだ。
……自分でも不思議に思うんだが、腹が立った。
それは連中が妹に好意を寄せたからじゃない。
何故表面的な部分しか見ないのかということだ。
たしかに優以の外見は変わった。
でもその心根までは変わっていない。
だというのに、俺を介して優以に言い寄ろうとする連中は、どいつもこいつも見た目のことばかり褒めそやす。
俺から好感を持つに至った理由を訊ねてみれば、やれ黒髪に戻してかわいいと思い始めただの、服装が整っていい感じのイメージになっただの、マイスイートエンジェルゆいたんだのと、外見の変化ばかりに気を取られている。
……はっきり言わせてもらうが、問題外だ。
たしかに今の優以はとてもかわいい。それは認める。だが、いやしくも義兄である俺に口利きをしてもらいたいと考えるなら、もっと他に語るべきことがあるはずだ。
例えばそう、数週間前のあの出来事とかな。
優以のしでかした大遅刻。なぜアレを引き合いに出してこない。
当初は、ダウナーギャルが嫌いな授業をサボっただけという見方が優勢だった。でも本当に優以を好きになったのなら気づけるはずだ。翌週月曜の全校集会で校長先生が話題に出していたこと。優以に市からの感謝状が届いていたことを思い出せるはずだ。
遅刻の理由は横断歩道を渡る途中で苦しみ始めたおばあさんを助けて、介抱していたから。かかりつけの病院まで一緒に付き添ってあげていたから。
元々、優以はとても心のやさしい子なんだ。なのに何故それを思い出せない? 兄である俺にアピールしてこない? 熱く語って聞かせないんだ。
俺の協力を得たいなら、俺から好感を引き出す努力くらいすべきだろう。
それをどうしてあいつらは揃いも揃って――。
「……お兄、ちょっと、お兄!」
呼ばれて、正気に返る。
知らぬ間に、深く考え込んでいたらしい。
「あ……すまん。少しぼうっとしていた」
椅子に座り直すと、勉強机から向き直った優以が心配そうに告げる。
「なんか悩みごととかあるの」
「え? いや……なんでそんな発想に?」
「だって、顔とか超怖いよ?」
指摘されて、思わず自分の顔を手で触る。
俺は本当にそんな表情をしていたのか……?
「うん、してた。なんかヤシャーとかシュラーって感じの顔」
「さすがにそれは大袈裟なんじゃないか」
「それはノウだね。私がお兄のプリン盗み食いしたときの1000倍怖かったよ」
「……ええ……?」
自分ごとながら、ドン引きしてしまう。
ひょっとして俺はそんなに深刻に悩んでいたんだろうか?
「そ、それは悪かった。怖がらせてしまったか?」
「ううん、そんなことない。私お兄の顔好きだし。そんな表情も素敵」
「……いや、あの……」
「んもーそこで困んないでって。妹ジョークじゃん、こんなの!」
そう言って、手を口の前にきゃらきゃらと笑う優以だった。
そっか、ジョークか。ならいいんだけどな……。
タジタジになった俺が周囲を見渡すと、時計の文字盤に眼が行った。
知らぬ間に、かなりの時間が経過している。
「っと、もう約束の勉強時間をかなりオーバーしていたな。今日は疲れただろう。明日また、同じ時間から一緒に勉強をがんばろう」
苦労をねぎらうと、優以はなんとも微妙そうな顔をした。
「どうした? 根の詰めすぎもよくないし、あとは自由時間でいいんだぞ?」
「んー、自由ねー……」
「今日の分のノルマはこなしたんだし、もうゲームをしにリビングに戻ったって」
「あのー、それなんだけどさ」
優以は椅子を回して完全に俺に向き直ると、自分でも不思議そうな顔で告白した。
「私、もうやめようと思うんだ」
「やめるって? まさか、ゲームをか……?」
「そ。なんていうかさ、最近あんまりやりたいとか思わなくて」
俺が優以に勉強を教える上で課した二つ目の条件――それは、毎日既定の勉強時間をこなしたあとでしかゲームをしてはならない、というものだった。
これは優以にとって家で過ごす時間の第一候補をゲームから勉強にシフトさせ、それをこなさないと落ち着かない心境に変化させる目的があった。
正直、個人的にはあまり気が進まない。だが曲がりなりにも国立を目指すつもりなら、是が非でも乗り越えなければならない試練でもある。
現在の優以の成績はお世辞にもいいとは言えず、俺が志望する大学の合格ラインからは程遠い。いや、滑り止め候補にすらすべて落ちるだろう。
この条件は、ある種、校則遵守よりも大きな覚悟を優以に強いたはずだ。
本来ならば自分の自由に使える時間を削って、好きを我慢する――これまでろくに勉強をしてこなかった優以にとって、これは血を吐くほどのつらさを味わわせるものと思っていたのだが。
……どうも、俺が思っていたのとは違うらしい。
今日のノルマをこなした優以は涼し気な顔をして、勉強に際し前髪を留めていた赤いピンを指でいじりながら言った。
「一応、もう買ってはいるんだよね。ずっと楽しみにしてた新作」
「だったら、なんで……」
優以の顔に苦痛の色は見えない。
痩せ我慢でも、嘘を吐こうとしているわけでもない。
問われて心中を探ったか、優以は自分の中の答えらしきものを話し始めた。
「さあ、なんでだろ? ここ最近、自分でもよくわかんなくてさ。ずっと考えてて……たぶんだけど、もう必要ないってことなんじゃないかと思うようになった」
「必要が、ない?」
繰り返すと、優以はコクンと頷いて。
「私にとってゲームとはなんなのか。深堀りするとさ。結局のところ現実の代わりだったんじゃないかって、今はそんな気がしてる」
言われて、思い返す。思い出の中の優以はいつだってゲームをしていた。だがその顔は笑顔だっただろうか。ゲームの世界が供与する快感を、果たして100%享受しようとしていただろうか。
違う。少なくとも、広貴さんに連れだされた優以と会っていたとき、彼女はいつもつまらなそうにゲームの画面と相対していたように思う。
「だから、もっと時間延ばしてほしい。私がゲームに費やしてた時間、もっと勉強することに充てたい。早く、お兄の背中が見えるところまで追いつきたいから」
「……優以……」
ダウナーながらにわかにやる気を漲らせる優以は、ここでなにか気づいたようにパチパチと眼をしばたたかせた。
「あー……なるほど、そういうわけか」
そして一転して瞼を閉じ、うんうんと頷く。
「えっと、どうしたんだ?」
「いや、今の一瞬でなんとなく全部わかってさ」
「全部って」
「つまるところ、これってゲームなんだよ」
優以は疑問に対する答えを一語に集約してみせた。わからん……。
「お兄は変な顔してるけど、簡単な話だよ? 人の一生もまたゲームなんだって、私自身が思い始めてるってこと。ほら、RPGとかでよくあるじゃん。レベリングとか、レア掘りとか。魔王を倒して世界を救うとか。それと同じことを私、今初めて現実でやろうとしてるんだよ、きっと」
そう言われても感覚的には掴みづらいが、つまるところ優以は現実の世界に目的を見出したと、そういうことなのかもしれない。
「……良い傾向と、俺も捉えていいんだろうか?」
「そりゃあもちろん。私ちょっと今、なんだか楽しいよ」
ふふっと、優以は思わずこちらが見蕩れてしまいそうな笑顔で笑う。
「あ、今なんか赤くなったでしょ。ひょっとして私に見蕩れた?」
「い、いやそんなことは……」
「ふふ。わかってるよ。難攻不落だもんね、お兄は」
珍しく俺の誤魔化しを真に受けた優以は、少し真面目に。
「外見は、パパとママからの譲りもの。だからお兄には、もっと私の心の内側を見てほしいって思う。私のがんばる姿も見ててほしい。そしたらお兄の答えがどうだって、私は絶対に納得できると思うから」
首を傾げて、柔らかく笑んで。そして――。
「これは受験に受かるゲーム、お兄を落とすゲーム」
優以は、あまりにも爽やかに俺へと宣戦布告する。
「私、まだ負けるつもりなんてないからね」
「……それはまた、随分と頼もしい」
「当然。いつまでも手のかかる妹のままではいられませんから」
それから、いつかのように優以が笑って、俺も釣られて笑った。