第15話
――壁を、見ていた。
この壁を殴って広貴さんと母さんを黙らせたとき、きっと俺は今の家族に見切りをつけていた。すべて壊れてしまうだろうと考えていた。
だけど今見直すと、壁の傷は表層部に留まっている。広貴さんと母さんが暴れたと思しき他の破損箇所もそうだ。
広貴さんが都度言うだけあって、かなりの貯蓄を崩して建てられたこの新築の家は随分と頑丈にできているらしい。
浅はかだったのかもしれない、と今は思う。
この家は、言うなれば大人の世界だ。広貴さんと母さんが属する、俺たちを囲うための世界。それはきっと、俺が思っていた以上に強くできている。もしかしたら、彼らが築く家族というものも、案外壊れにくいものなのかもしれない。
少しくらい、希望を持ってみたっていいのかもしれない――。
それからしばらく月日が流れ――俺はスマホと格闘していた。
ポケットの中でバイブレーションするそれを、俺は発信者名を確認することなく即座に切断する。
異変に気づいた優以が首を巡らせる。手元のシャープペンシルの先はノートに付けたまま、不審げな様子で声をかけてきた。
「……ナニ今の。お兄、誰からか見ずに切ってなかった?」
こういうときの優以は非常に目聡い。俺は焦って声を出す。
「大丈夫、きっと変な業者からだろう」
「それ言い訳に無理あるでしょ。フツー名前くらい見るって」
なんか怪しい、といった感じの優以が疑いの眼差しを向けた。
「かわいい妹に見せらんない発信者なんだ。さては女の子からだな」
「そっ、それは断じて違う! 違うぞ優以くん!!」
「はーい、くん呼びいただきましたー……怪しさ10倍増なんですけど」
ジト眼の優以は気分まで害したらしく、唇を尖らせる。
俺が冷や汗を掻いてると、優以ははーっと溜息を吐いた。
「……別にさ、私お兄の自由恋愛を妨げたりしないよ? だからもし意中の女の子からの電話とかなら、ちゃんと出てあげてよ」
なんか可哀想だし、と左手を振る優以。
これはサインだった。どうでも良さそうに見えてしっかり悲しがってるものだから、兄として本気で困る。
「本当に違う。信じてくれ」
「……じゃ、誰よ」
ムスっと唇を尖らしたままか。
嘘は吐けそうにないなこれ……。
「クラスメイトだよ。ほら、中島和之って男子生徒のこと知らないか」
「んー、去年同じクラスだったような……」
眼を瞑って記憶の底から顔を思い浮かべようとする優以だったが、やはりそうだったか。中島もまともなインパクトを残せてない、と。
10秒粘って、優以は匙を投げた。
「ダメだ、思い出せん。で、その中島某が何用って?」
「一緒に遊ばないかってお誘いの電話だ」
「…………」
何故さらに眼を眇めるんだ優以……。
当然のこと理由を訊ねるわけにはいかない針の筵状態が続く。
ムスっとしたまま、優以は真実からかなり距離の離れた結論を出した。
「わかった。合コンのお誘いでしょ」
よもや遊びと聞いて出てくる解答がそっち方面なのか……。
そんな思いが顔に出ていたか、発言を待たずして優以は言った。
「だって妹の前で返答しにくい話題ってそれしかないじゃん」
「い、いや待ってくれ! 断じて違う! というかそもそも風紀委員の俺がそんな場所に顔を出すのは大問題だろう!!」
勢い込んで否定したのが、逆に優以の疑心に油を注いでしまった。
「オーバーリアクションで否定してくるの、余計に怪しいんですけど……てかさ、その風紀委員って肩書がいい感じの煙幕になるから誘われてるんじゃないの。自陣営に抱き込んだら生活指導の先生にチクったりされないだろうし」
それはそうかもしれんが、俺は妹にどういうキャラとして見られていたんだろうか……?
ちょっとショックを受けていると、優以はぷっと吹きだして笑った。
「うっそー。冗談だからそんな真に受けないでよ。ごめんて」
「……信じてくれるのか?」
おそるおそるといった感じで訊いてしまう。
優以は薬が効きすぎたと思ったのか、少し真顔に戻って答えた。
「信じるよ。だいたいさ、お兄ならそんなトコ行く必要なんて最初から全然ないでしょ」
必要がない? どういう意味か心当たりがない。
「その感じじゃどうも自覚とかないみたいだけど……お兄って、結構女の子に人気あるんだよ」
「え?」
なんで気づいてないワケ? とでも言いたげな呆れ顔をされたが、なんだろう、これは優以一流のタチの悪い冗談だったりするんだろうか。
「俺は女子生徒に嫌われこそすれ、好かれたりはしてないはずだ。校門前の服装チェックも校則準拠で厳しくやっているし」
その際によく女子生徒に睨まれたりしているしな。
俺はそんな事実も付け加えて持論を強化したのだが。
「それ睨まれてるんじゃなくて、見られてるんだよ。眼福ってやつ」
「……眼福……?」
「お兄ってばタッパあるじゃん。バレないように上目遣いで顔を盗み見したら、そっちからは睨んでるように見える」
座る回転椅子を回して向き直り、優以は小首を傾げて実演してみせた。
おお……たしかにこれは、睨んでいるようにも見える、か?
「俺はてっきり、嫌われているものとばかり……昨日だって、服装破りの女子生徒を注意したら悲鳴を上げられたぞ」
「それ、黄色い声援の親戚みたいなもんでしょ。直々に指摘されて嬉しかったんじゃないの。構ってもらえてさ」
ポロポロと眼から鱗が落ちる思いがした。そういうものなのか……。
ちょっとした感動を覚える俺を見て、優以が少しムスっとする。
「やっぱお兄って女の子に対して完全ノーガードだよね。いかんよーそれは。彼女ら、お兄の思ってる100倍はあざとい生き物だから」
「さすがに優以の杞憂だ。俺は節度はちゃんと守る男だぞ」
心外なことを言われ、俺は風紀委員として威風堂々と反論した。
「節度ねえ……じゃ質問だけど、お兄は女の子に泣かれたりしたらキョドったりしない?」
「泣かれる? いや待て、ちょっと注意するくらいでなんで泣く?」
「前提崩すな。ともかく答えて」
優以のペースに押し切られ、俺は腕を組んでしばし考える。
「困る。けど主張の正しさがこちらにあるなら譲らないな」
「そっか。じゃあ次だけど、泣きながら抱き着いてきたらどう?」
「抱き着く? 何故そんなことをする必要が?」
「前提崩すな。こーたーえーろー」
なんか子供染みたやり取りになってきたなあ、と思いつつ。
「もっと困るな。無理に引き離そうとしたら怪我される心配もあるし」
「そっか。ならあと一押しだね。キスしようとしてきたらどうする?」
「どうするって、それは」
「それ以上は? お兄の手をとって胸に押しつけたりとかは」
「あのな優以、いくらなんでもそんなことするわけ……」
言いかけて止まったのは、優以の眼が真剣そのものだったから。
この質問は冗談やあり得ない仮定の話ではなかったのか――。
とそこで、自分の様子に気が回ったのか優以はこほんと空咳を挟んだ。
「とまあね。女の子には女の子の手練手管があるわけさ。お兄の場合、やさしいから断り切れないで流されちゃう可能性高いし」
うんうん、と自分で納得するように頷いてから。
「つまりは、妹だけどローバーシンからの忠告ってことで」
「それを言うなら老婆心だろう……現代文はまだまだみたいだな」
急に本題に舵を切られて、優以が苦虫を嚙み潰した顔になる。
「うげ。これでも結構がんばったと思うんだけど……でもホラ、昨日の数学とかはどう? 前に比べて倍くらい点数を取ったし!」
「それは同じ問題集の同じページをもう一度やり直したからだな」
「くぅ……でも世界史なら、国の名前は覚えたよ! 10個くらい!」
「一応、今の世界には196か国あることになってるんだが……」
俺の指摘にショックを受ける優以の姿は割愛するとして――。
現況を説明すると、俺たちは優以の部屋で勉強に励んでいた。
厳密に言うなら、俺が優以の家庭教師をしているということになる。