第14話
結局その日はビジネスホテルに泊まって、翌日――。
俺たちは片付けのために我が家へと召還された。
室内は、まるで嵐が吹き荒れたあとのようだった。
家具やら調度品やらは壁に投げつけられ、軒並み壊れ、あるいは壁に突き立ったままその激しさを表現する物言わぬ語り部となっていた。
問題とすべきは家じゃない。壊れた物なら買い戻せる。
けれど壊れた人間関係を修復するのには時間がかかる、そのはずだった――。
「……やあ、君たちか。悪いんだけど片づけ手伝ってよ」
晴れやかな顔の出迎え人は、広貴さんその人だった。
ただしその見た目が、別れたときとは随分と違う。
具体的に描写すれば、片眼が隠れるよう頭には包帯を巻き、左頬は分厚く腫れ、顎の辺りには真新しい青痣、右腕には搔き毟られたと思しきミミズ腫れ、とどめに右足を床に引きずってこちらに歩いてきた。
室内の惨状にも増して、その姿は吹き荒れた暴力の激しさを物語っている。
彼がなにをしてしまったのかは薄々とわかる。
広貴さんはきっと、母さんにやり返してしまったのだ。
つまるところ、決して起こしてはならない虎の尾を踏んでしまった。
「え……パパ? その怪我どうしたの!?」
事情に完全には通じてない優以が、ドン引きして口を両手で覆う。
最悪のケースまで予想していたのはきっと、三人の中で俺だけだろう。
広貴さんははにかんだ笑顔で顎を掻いて、娘に告げた。
「いやぁ、ちょっとね。それより優以の方こそ大丈夫だったかい? 一応、僕から正斗くんにホテルに泊まるようメールは送っといたはずだけど」
「そりゃまぁこっちは大丈夫だけどさ……パパ、その傷ってもしかして」
「ああ、違う違う。やりあってる最中に階段から落ちただけ。全然平気」
「それで平気って……ええぇ……?」
ドン引きしたように広貴さんの足元から頭の天辺までもう一度眺めやった優以が、説明を求める眼になって俺の顔を見てくる。
俺はプイと顔を逸らして素知らぬ風を決め込んだ。
一応、母さんからはきつく緘口令を敷かれていたので……。
伝説的覆面女子レスラー、ヴァイオレットタイガーの遺した逸話は多い。
中でも名高いものはブック破りを犯したヒールレスラーを血祭りに上げた『BBB』と呼ばれる試合だろう。
完全なる不意討ちで一撃必倒の技を受けたはずのヴァイオレットタイガーが勝ちポーズを決めるヒールレスラーの背後から不死鳥の如く立ち上がり、怒り任せの一方的蹂躙ののちに逆転勝利をもぎ取ったシーンは、プロレスファンの瞼に焼き付いて今も離れることはないという。
しかし彗星のようにリングに現れたヴァイオレットタイガーは、これまた彗星のように引退してしまった。
マスコミはBBBで負った怪我の影響だとまことしやかに噂した。だが引退会見で彼女自身の語った内容は肩透かしにも程があった。なんと好きな人と結婚するから引退したいのだという。
「あのぅ、これからはリングで相手を倒すのではなく、おうちで家庭を守っていこうと思いますので……」
マイク越しに初めて聴くことになったヴァイオレットタイガーの声は、記者が語るところによると随分とアニメチックで可愛らしかったそうな……。
そんなわけで覆面を脱いだ母さんは父さんと籍を入れ、程なくして俺という息子を授かった。
そして父さんとの仲が拗れて、最終的に離婚することとなる――。
今さらだが、俺は父さんの肩を持ちきれない。母さんは、素性を隠して父さんと結婚していた。良き妻であろうした母さんに先に暴力を振るおうとしたのは、実のところ父さんの方だったのだ。
それはちょっとした諍いの際に起こった。口論になった父さんは威嚇のために右腕を振り上げた。拳は軽く握っていたから本気じゃない。けれど母さんの身体はそれに反応した。次の瞬間、父さんの顎にラリアットが炸裂していた。
のちに父さんは悔やむように俺に語った――あれは儚げ詐欺だったと。
実年齢より15は若く見え、瘦せ型で、しかし女性らしいスタイルを保持していた母さんは、黙っていると清純派女優のような美貌を持つ。だが内実は違う。獣ひしめく女子プロレスで慣らした日々が血肉となっている。
論破されたら暴力に訴える癖が出始めたのはそのあとからだった。
結局のところ、母さんにとっては口よりも拳の方が何倍も語るということなんだろう。物騒この上ないことだが……。
そんな風に母さんの過去を回想していると、当の本人が二階から声をかけてきた。
「正斗、優以ちゃんもお帰りなさい。帰ってきて早々悪いんだけど、こっちを先に手伝ってもらえないかしら?」
「董さん? ……お兄、私先に行ってるから!」
語尾が強めだったのは、あとでちゃんと説明しなさいよということだろう。
まさかこの場面で俺が母さんと妹に板挟みになるとは思わなかったが……。
戸惑いと気疲れを起こしていると、広貴さんが近寄ってくる。
「正斗くん、今さらだけど……昨日は済まなかったね」
どういう風の吹き回しだ? と問いたくはなる。
ただその口調が随分と穏やかなものだったので毒気を抜かれた。
「出ていった娘を君ひとりに任せてしまってさ」
「……そう思うなら、謝るべきは俺ではないと思いますが」
露骨な煽りに容赦はない。この上優以を害する気なら俺も敵になる。
だが広貴さんは空笑いして、少し気弱な様子を見せた。
「性急だったよ。君たちの関係を勝手に想像して、邪推した」
「そうですか」
「アハハ、まったく人間っていうのは、ぶつかり合ってみないとわからないものだね。見えてるものだけがすべてじゃないって昨日でやっとわかったよ。董さん、まさかあんなだったなんてさ……」
とまあ、ここで広貴さんが遠い眼をしたので、思わず俺も頷いてしまいそうになった。
なんとか耐えていると、広貴さんはまだ話し足りないようで独白する。
「黙ってるなんて君も性格が悪い。けどまあ……今回ばかりは僕も悪い」
意外にも落ち度を認めて、首を左右に振ってから。
「きっと癖になっていたんだな。董さんと出会ったときにはもう君がいて、僕には優以がいた。僕たち親には、君たち子どもを間に挟んで物事を決定する権利があると思いこんでいた」
「……広貴さん……」
らしくない物言いが続き、俺は思わずその名前を呼んでしまった。
「少し考えてみよう。これから先のことも、君たち家族のことも。なにせ僕は、君たちからの信用を完全に失ってしまったらしいから」
それは自虐を含んだ発言で、俺は少し戸惑う。
広貴さんもまた、本意ではなかったのかもしれない。すべて俺たちに背負わせるやり方しか思いつけなかった。それは彼のプライドがそうさせたのか、母さんと面と向かって衝突するのを避けたかったのかはわからない。
けれどきっと、これは怪我の功名だ。昨日の激しい夫婦ゲンカが、広貴さんの価値観になんらかの変化をもたらしているのは明白だった。
願わくばその変化がこれからも続くよう、祈るような気持ちで広貴さんの横顔を眺めていると――階上から母さんが降りてきて俺に声をかけた。
「……正斗も早くこっちにきてくれない? 割れて散ったガラス片を掃きだすのに、箪笥の位置を少しズラしたいのよ」
顔を見せた母さんの額に、×印にテーピングされたガーゼがくっ付いている。
驚いて広貴さんを見ると、無事な方の眼で俺にウインクを飛ばしてきた。
どうやら一発やり返していたらしい――やるじゃないか、エリートサラリーマン。