第13話
――壁を、見ていた。
あの夜、家から飛びだした優以を追う直前に、広貴さんと母さんを黙らせるために俺が付けた壁の傷だ。
空手を始めて数年が経つ。試合で相手と立ち合うときの他には決して振るわないと思っていたそれを、俺はここで振るった。
破壊の痕に、そっと手を沿わす。ただし自信がない。
俺の壊したリビングの壁は本当にここだったのか。
今や無数に、しかも深く付けられた数多の傷痕の中に、それは半ば埋もれてしまっている。
「…………」
これは伝聞になるが、あのあと広貴さんと母さんはひどい夫婦ゲンカをやらかしたそうだ。
家を飛びだした優以に次いで、俺まで家を去った。俺たちという緩衝材を失った二人は、その責任がどちらにあるか激しく罵り合ったらしい。
剣呑な水掛け論が物理的な攻撃に転化するまでそう時間はかからなかった。ほどなくして、あれほど美しかった家の中は破壊の嵐に蹂躙された。
それを知ったのは公園からの帰宅途中、制服のポケットに入れていたスマホがメールの着信を知らせたときだ。
「……お兄、パパはなんて?」
「今日は家に帰ってこないでくれ、だとさ」
背中に負ぶった優以の質問に、俺は片手でスマホを掲げて画面を見せた。
んー? と不審がった様子で優以が問うてくる。
「それってさ、もしかして私ら勘当の刑とか?」
「違う。広貴さんと母さんが大ゲンカして家の中が無茶苦茶になってるらしい。画面をスクロールしたら、その旨が婉曲的に書いてある」
曰く、諸事情により云々、今夜は君たちは外で泊ってくれとのこと。
「はあ? 外で? まさか私らに野宿しろってこと!?」
家出した身でありながら、そんなことを戦々恐々として言う優以。
俺はさらにスマホの画面を下に送って、説明を続けた。
「いや、ビジネスホテルの手配は済ませてあるらしい。広貴さんの仕事のツテで一晩は宿泊できるとのことだ。地図は……えっと、ここから逆方向だな。悪いけどもう一度花丸甘味店の通りを通るぞ……優以?」
つい先程まで普通に会話していた優以がいきなり黙って、俺は思わず名前を呼んでしまった。
は~~~~~~~という、長い長い溜息が返ってくる。
ともあれ、反応があったことに安堵する。
俺も溜息を吐きたいのを我慢して言った。
「急に黙るのはやめてくれないか。俺も不安になるから」
「あーうん、まーそーだね……心配ばっかかけてごめんね、お兄」
「謝らなくていい。俺たちは今日から一緒にがんばっていくんだろ」
「うん……そーだよね……」
何故だろう、優以にしては随分と歯切れの悪い。
それになんとなく棒読みチックなのも気にかかる……。
「言いたいことがあるんなら言ってくれ。さっきも言ったけど、これから俺は君の力になる。絶対に逃げないって、そう心に誓ったんだ」
あんな事実を聞かされて、俺のことを信用しきれないのはわかる。
けれど互いに信を置かなければ、俺たちはあの家でやっていけない。
仮に二人の仲がダメになるようなことがあっても、大人になって正々堂々あの家を出るまでは――。
「なんかものすっごい決意って感じ」
対して、優以の返しはものすごく軽くて拍子抜けする。
ふふんっ、と鼻まで鳴らされる。
「お兄のこと、信用してないわけじゃないよ。ううん、むしろ最強に信じてる」
「そうか、なら――」
「じゃなくてさ」
発言の途中、優以が割り込んできた。そして続ける。
「私的な話で恐縮なんだけど、私まだ返事聞かせてもらってないなって」
返事? なんの返事だろうか?
とまあそこまで考えたところで思い至り――俺は思わず歩む足を止めた。
「お。そのリアクション、どうやらお兄も思い出してくれたみたいだね。えらいえらい」
などと茶化して言う優以ではあったのだが、俺の頭の中はぐるんぐるんしていた。思い至ったのだ。たしかに俺が、まだ大切な返事を優以に返していないということを――。
そんな俺の内心を見透かしたかのように、優以は背中でうんうんと頷く。
「あのね、いつかは言うつもりだったの。やっていいかどうかだって調べた。ホーリツ的に言うと別に構わないらしいよ? 義妹って、血の繋がらない兄と結婚できるんだって」
だらだら……と寒いのに背筋に冷や汗が伝う。
実は少し期待していた。
このまま上手いこと発言自体が流れてはくれないかと――。
「女の子の一世一代の告白、まさかなかったことにはしないよね?」
先んじて、俺の逃げ道までも塞いできた。
「い、いや、なにもそんなことはしないさ、優以くん……」
「あーっ、くん呼びに戻すとかこのタイミングでご法度でしょ! お兄ってば繊細な乙女ゴコロなにもわかってないなー」
「……す、すまない……」
ペコペコと誰もいない前に向かって頭を垂れる。
というか、なんで俺は謝っているんだろう……。
「だったら今度は逃げらんないようもう一度言わなきゃだよね……」
そして優以は、かしこまった声で。
「お兄……好きだよ」
「う」
「すきすきすき」
「うぅ」
「ちゅっちゅっ」
そんな音とともに首筋の辺りに発生した、生温く湿った感触。
なんとも言えない快感に、ぞわり、と全身が総毛立つ感覚がした。
ひょっとして今のは……。
「ゆ、優以! 今っ、なにをっ……!?」
「なにをって? ああ、ちょっとお兄の首筋にキスを落としてみただけだけど」
「そ、そんな破廉恥なことをされては困るっ!!」
風紀委員として! いや男として!!
だが俺の心底からの叫びは妹に届かない。兄の心は妹には……。
「そんな怒らないでって。お兄、知ってた? 恋って戦争なんだよ。意中の相手を落とすためならなにしたっていいの。憲法でも定められてるし」
「そんな憲法はないっ!!」
「お兄」
「え?」
「ぎゅ~~~~~~~!!」
などという声とともに上半身に圧迫感が生じ、俺の背中になにやら柔らかな感触が発生した。
クラスメイトに陰で朴念仁と言われている俺にだってわかる。この感触は……。
「どうどうっ! お兄、今の気持ち良くないかな?」
「い、今のって……?」
「ひょっとして女の子に言わせる? これでも一応、当ててるんですけど」
納得が先にくる。そうか、やはりか。
今背中に感じているのはアレの感触……。
「ねぇお兄、少しは気持ちよくなってくれた?」
はしゃいだ口調の優以だが、正直に言うのは気が咎めすぎる。
「……いやそれは……」
「ひょっとして気持ちよくない? ……ペチャパイでごめんね」
「そ、そういうこと言うな!!」
勢い込んで否定されたのがうれしいのか「えへへ」と声に出して優以が笑う。
「ねーお兄、私で興奮してくれたー? もしそうならいつだってビジホいくのやめて別の休憩所に寄ってくれていいんだよ?」
「さ、さっきから君はなにを言って……?」
「名前を書いて、それを見つけたら、それは食べてもいいってことなんだからさ」
「優以、いい加減に――!!」
さすがに怒ろうとしたところで、俺は、首筋が濡れていることに気づく。
さっきのキスのせいじゃない。
それはさらさらとした、粘度の低い液体で。
「……ごめん、今日だけ。あと少しだけでいいから甘えさせて」
すん、という鼻を啜る音がして、それが契機になった。
俺の背中に縋りつくと、優以は声を殺して泣き始めたのだった。