第12話
「私の好きは、家族の好きじゃない」
唐突に告げられた告白に、立ったまま金縛りに遭ってしまう。
優以の、これまで俺に見せたこともない表情。
茶化しや嘘なんてありえない、本当に愛しい存在に注ぐ瞳に、俺は――。
「ほらね……これでもう元に戻れなくなった」
泣き笑いの頬を伝う二筋の涙が、夜の闇の中で輝く。
優以は指先でそれを拭うと、俺に向かって続けて言った。
「私、まだお兄に言ってなかったことがある。この公園ってさ、私の思い出の場所なんだ」
「思い出の……場所?」
たどたどしく鸚鵡返しする俺に、優以は頭上で「そう」と頷く。
「昔、パパとママとでよくきてた場所。家族三人でお弁当持ってさ、遊具使って遊んだり、ボールを投げ合いっこして遊んでたんだ。でもパパってば大人気ないからいっつも本気になって、逆にママと私の連合軍にやっつけられんの。それで、罰ゲームだって私のこと肩車して家まで歩いて帰ってた」
思い出の中には、しあわせだった昔の家族が保存されている。
俺も同じだ。父さんと母さんと過ごした日々は今も色褪せない。
過去の光景に思いを馳せる優以の顔に、ふと翳りが滲んだ。
「だから、気づいてくれるって思ってた。わからないわけがないって。心のどこかで期待してたんだと思う。パパが私を、迎えにきてくれるって……」
俯いた優以の視線の先にはもう、しあわせだった昔の家族はいない。
幻は雲散霧消し、別の時間軸――あの日のことを思い返している。
俺たちが決して忘れることのない、あの日の出来事を。
「いくら待っても、パパはこなかった」
淡々と事実のみを告げる口調が、流れた時間を思わせた。
「しかってくれるって思ってた。言い分を聞いてくれるって思ってた。ちゃんと話し合えるって思ってた。だけど……パパはこなかった」
その落胆を、言葉として聞くのは初めてだった。携帯ゲームとイヤホンで設えた結界では、優以の心を守り通せなかったのだ。だから――。
「ずっと、公園にひとりぼっち。私はひとりが嫌で、怖くて……そしたら眼の前にあいつが現れて、それで」
「ひとりでいるのか訊かれたんだな」
先取ると、身体全体を揺らして深々とした頷きが返ってくる。
優以はずっと震えている。あのときの恐怖が、甦る。
「私、自暴自棄になってた。もしパパが董さんより私のことが大事なら、きっとすぐに連れ戻しにきてくれるって信じてたから。でも、いつまで経ってもパパはきてくれなくて……だったら……私なんてもういらない子なんだって、そう思った」
優以の恐怖を、子ども染みた思い込みだなんて笑えない。そんなことあり得ないと断言できるのは、今の俺たちの情緒が年相応に育っているからだ。
当時の優以にとってそれは、自分の存在意義の否定だった。現実の広貴さんがどうしていたかなんて関係ない。
突然レストランを飛び出した優以の姿を探して、俺たち三人が当て外れの場所を必死に探し回っていたなんて事実も、まったく関係がない。
「君は素直にその問いかけに答えた。そしてあいつは――豹変した」
記憶のブランク部分を埋めようと、俺は自分の口でその事実を問い直す。
その光景ならば目撃していた。何故なら俺はそこに辿り着いた。
けれどそうなった経緯については知らなかった。
「ただ、必要とされたかった。そうしてくれるなら、誰だってよかった」
優以の罅割れた心は、見ず知らずの人間にすら助けを求めた。
それがどのような人間なのか、ちゃんと知ろうともせず。
「間違いだって気づいたのは、あいつに手を取られてから。私、知らなかった。あいつがどうしてあそこにいたのか。どうしてじっくり様子を窺ってから、私に話しかけてきたのか。私、わた――」
ガン、と音がして、力の抜けた優以の頭が滑り台の手摺りにぶつかる。
駆け寄ろうとするも、優以は片手を前に出し平気のジェスチャーをした。
「……思い出の、場所だったのに……」
歯噛みして残念がった意味ならわかる。
あの日、優以の心は手ひどく傷つけられた。あいつが刻んだ恐怖が、優以の身体に、公園のある通りを歩くだけで具合の悪くなる呪いを残したのだ。
だから優以は、学校推奨の通学路を通って登校することができない。迂回して、遠回りしていつも学校に来る。校則違反の裏門登校は、そちらの方が距離が近いからだ。
大切な場所の意味は、悪意に上書きされてしまった。
「名前を、書いてほしかった。私は誰かの大切だって思いたかった。パパがそう思ってくれないなら、他の誰でもよかったんだ。あいつが私のことをどういう眼で見てたかなんて知ろうともしなかった。だから……万力みたいな力で腕を捩じ上げられたとき、私怖くて、なにもできなくなった」
ゲームをしていた右手首を掴まれ、無理矢理に立たされる。弾みで携帯ゲームの本体が地面に落ち、イヤホンケーブルも限界まで伸びて、片耳から外れる。
その姿を、俺が見ていた。当て外れな方面を捜索して、意固地になってそこにいると主張する広貴さんから離れ、ひとり優以を探していた俺が。
「……でも、お兄が助けてくれた」
どこか弾んだ優以の声が、俺の心に深く刺さる。
刺さったその破片が心を抉る。なのに優以はもっとうれしそうに――。
「あいつの前に、立ち塞がってくれた。私のこと連れ去ろうとするあいつと、必死に戦ってくれた。私の心に……名前を書いてくれた」
言いながら、手摺りに手を伸ばす。手を握り込んでしっかりと掴むと、アーチ状に作られた部分を潜って、滑り台から俺のいる方向へと身を乗りだした。
「あのときからずっと、私の本当の家族はお兄だけ」
手摺りを握った左手に力を込めて、下方に向かって右手を差しだす。
その手はきっと、ずっと前から俺のことを待ち望んでいて――。
優以は言った。
「ねえ……連れて、逃げてよ」
笑って、俺の顔を見て。
「ここじゃないどこか、あの人たちのいないところ。私さ、なんだってするよ? お兄のためならどんなことだってできる。お兄にだったら全部……捧げられる」
優以がどういうつもりなのかは理解していた。
絶対に叶わない、無謀な夢なんだってわかって言っている。
手を、取ってほしいのだ。ただ俺に。あのときみたいに。
優以を連れ去ろうとした不審者から必死になって逃げだしたときのように。
けど俺は――迷っている間に、優以が言葉を続ける。
「誘惑なんてしてないよ。そんなつもりじゃなかったの。昔、事故でお兄が私の下着姿を見たとき、真っ赤になってたよね? 私、うれしかったんだ。お兄がまだ、私のこと、ひとりの女の子として見てくれてるってわかったから」
優以は、年頃の少女がはしゃぐような口調に戻って。
「だからずっと、私あの恰好でゲームしてた。お兄の中で、妹じゃなくて女の子のままでいたかったから。私のこと見て、また赤くなってほしかったから」
優以が語る理屈はいじらしく、俺の心を揺らす。
優以が俺に寄せる気持ちはおいても、手を取るべきだった。俺が本当に優以のことを思っているなら。俺にとって優以が本当に大事な存在なら。
何故なら優以は、これが夢物語だってわかってる。
一夜の夢で、現実に結実しないことなんて重々承知で言っている。
だからこそ――。
「お願い、正斗――!!」
嗚咽交じりの懇願を受けてなお。
俺は、その場に釘付けにされたように動けない。
「……まさ、と……?」
優以の手が、空を掴もうとしてわななく。
信じていたのに裏切られた、そんな落胆を感じさせる声だった。
優以が俺を呼んでいて、俺のことを必要としていて、だのに俺はその場から一歩も動かない。
それは一緒にすごしてきた時間への、重ねてきた月日への、築いてきた信頼への、明確な裏切りに他ならなかった。
「…………」
優以が思う日暮坂正斗ならばきっと、その手だって取れる。
彼女をここではない場所へと逃がしてやれるはずなのに――。
「……正斗、だけなの」
優以が鼻を鳴らす。感極まって、心の奥が口からそのまま飛びだす。
「私にとって大切なのは正斗だけ。あの日からずっとそう。正斗があいつに立ち向かってくれたとき、私のことを妹だって言ってくれたとき、本当にうれしかった。トクンって、胸の中でなにかが高鳴ったの。だから私、あの日からずっとずっと正斗のことばかり考えてる。正斗以外なにもいらないの。正斗のためならなんだってできるの。だからお願い、この手を取ってよ――!!」
くっと腕を伸ばし、前のめりになって、優以は限界までこちらに手を伸ばす。
手摺りを握る手から少しでも力が抜ければ落下しそうで気が気でない。けれど――。
俺は静かに、首を左右に振った。
「……できない」
「どうしてだよ! 正斗ぉっ!!」
「俺には君の手を取る資格がないんだ」
「え?」
素っ頓狂な声をだす優以は、きっと俺の懊悩に気づいてない。
だから俺はここで、ちゃんと妹に説明する義務がある。
「あのとき俺は……君のことを見捨てようとした」
ずっと言いだせなかった。怖くて、軽蔑されると思って。
結果を話すだけでは伝わらず、優以が怪訝な反応を示す。
「なに、言ってるのさ……だって正斗は、ちゃんと私のこと助けてくれて」
「違う」
「ううん、助けてくれたよ。あいつに立ち向かってくれた。私のこと自分の娘だって嘘吐いたあいつに、優以は俺の妹だって宣言してくれたじゃん!」
「違うんだ」
優以の記憶と俺の記憶の間には齟齬がある。
優以に見えていなかった現実が、全体の実像を歪めている。
「……君が俺の妹になるって、あの日よりずっと前から知っていた」
俺は言うと、驚いた様子を見せた優以へと告白を始める。
「広貴さんと、会うときだけだったんだ。いつもパンツルックだった母さんがスカートを穿くのは。だから俺は、この人が母さんに特別に思われてるって知っていた。連れだされたレストランで、広貴さんが母さんの指に指輪を嵌めたあのときよりも、ずっと前から気づいてたんだ」
それを優以に言わなかったのは、願望だけで確証が持てなかったから。
ひょっとしたら俺はこの女の子ときょうだいになるのかもしれない――そう思うと、不思議と優以と一緒に放置された時間も楽しみに思えた。
俺は自主的にいろいろと調べた。優以と同じクラスの子に話を聞いて、誕生日だって把握した。俺の方が2カ月早かった。ということは俺の方が少しだけお兄ちゃんということになる。俺は、優以の兄になるのかもしれない。
広貴さんが母さんに指輪を嵌めたとき、俺は自分の予測が正しかったのだと知った。いつもお世話になってるお礼、なんてお題目は最初から信じていなかった。代わりに俺の胸に決意が芽生えた。
でもそれはすぐに後悔に取って変わる。母親でない女性の指に指輪を嵌めた広貴さんにショックを受けて、優以がレストランを飛びだしたからだ。
「……それ、本当に?」
「言わなくてすまない。そうなる確信が持てなかった。父さんにも悪いと思った。けど俺は、君と家族になりたかった」
無表情で、無口で、ずっと携帯ゲームばかりやっている。
そんな女の子の姿を、横目でずっと追っていた。
いつか心を開いてくれると思った。もし母さんが広貴さんと再婚したら。家族になれたなら。俺が兄貴になったなら。そうすればきっと、この女の子も、優以も俺に知らない一面を見せてくれるかもしれない。
楽しみだった。このなにも話さない女の子とわかり合える日が。彼女はどんな性格で、どんな風に俺と接してくれるんだろう。そしてどんな風に同じ家で育っていくんだろう。俺は――どんな、兄貴になるんだろう。
だから俺はあのとき――。
「君の名前を書いた」
胸に手を当てる。
それはまだ――刻まれているはずだ。
「妹になるかもしれない君の名前を、家族になるかもしれない君の名前を、この胸の奥底にしっかりと刻んだんだ。君がレストランから飛びだしたとき、俺は広貴さんに一緒に探したいと直訴した。妹がいなくなったら、探すのは兄の役割だと思っていたから」
俺のわがままに、広貴さんが困った顔をしたことを覚えている。
もっとも、自説に拘泥するあまり優以を見つけられずにいた広貴さんと別れて、俺は単独行動することになったのだが――。
「三人で手分けして探すうち、俺はここで君を見つけた」
角を曲がったところで姿を見て、声をかけようとして止まった。
ベンチに座っている優以が、誰かと向き合っていた。
大人の、俺が知らない中年の男だった。
「花壇の影に隠れたのは、咄嗟の行動だった」
男は優以に二三質問して返答を受けると、唐突に手首を掴んだ。容赦なく力尽くで引き上げられて、優以が立ち上がる。
状況が読めなかった。あの男は不審者なのだろうか?
ならさっき優以と話していたのはなんだ?
第一、優以は無表情のまま嫌がる素振りを見せていなかったじゃないか。
「観察が必要だと思った。もしかしたら男のとった態度は優以の側に原因があって、彼の逆鱗に触れてしまったのかもしれない。だったら怒りにも妥当性がある。悪いのは優以の方だ……なんてな、全部、自分に言い聞かせてた」
言い聞かせなくてはいけない時点でそれは嘘だ。
男が優以を掴む腕に力がこもる。優以の無表情に苦痛の色が浮かぶ。不可視の暴力が行使され、やがてプレイ中の携帯ゲームが地面に落ちる。
俺は気づいていた。優以は不審者に誘拐されかけているのだと。
この場から連れ去られ、二度と会えなくなるかもしれないと。
事態は一刻を争っていた。決断するための猶予は残されていない。
だのに俺は――。
「怖かった」
花壇の影に身を隠して、怯えて震えていた。
男の身体は俺の身体より何回りも大きい。不審者に言葉を使った説得が通用するとは思えなかった。出ていけば、俺は大怪我を負うことになるだろう。それは疑うまでもなく到来する確実な未来だった。だから――。
「俺は、ルールを破った。助けを呼びに行こうとした」
怯えた子どもが第三者に助力を乞おうとするのは、本当は正しい判断だったのかもしれない。
でもその論理は俺の中で破綻する。妹になるかもしれない大事な女の子をおいてでもあの怖い人から逃げたい――それが偽らざる本音だったからだ。
助けを呼びにいく間にもしも優以がいなくなっていたら、取り返しのつかないことになる。
「前に、出られなかった。俺の後ろに道があった。いなくなればもう二度とは戻ってこないと知りながら、俺は君を見殺しにしようとした」
「で、でも! 正斗は私を助けようとしてくれて……」
混乱する優以に、俺は彼女に見えなかった現実を語る。
「……見られたんだ、先に」
「えっ?」
「逃げようとした俺を、あいつの眼が発見した。だから立ち向かうしかなかった」
結果論から言うなら、それは俺にとって僥倖だった。
見られたからには、逃げ道を潰されたからにはもう肚を決めるしかない。
俺は花壇の影から出てあいつに近づき、優以との関係性を訊ねた。あいつは嫌悪感を隠そうともせず自分の娘だと言い、手で邪魔者を追っ払うような素振りを見せる。墓穴を掘ったのだ。
『違うよ、おじさん。その子は――日暮坂優以は、俺の妹なんだ!!』
不意討ちで掴みかかったのが功を奏した。俺はあいつから優以を奪還することに成功した。だが不測の事態も起きる。怒りに任せたあいつの蹴りが、背後から俺の右腕に直撃したのだ。
尋常でない痛み――それでも、繋いだ手だけは絶対に離さない。
俺は優以の手を引いて、全力で広貴さんと母さんのもとへと駆けた。
言葉を失う優以に、俺は穏やかに告げる。
「……ずっと心残りだったんだ。どうして俺はあのとき、君のことを助けようとしなかったんだろうって。ルールを破ってしまったんだろうって。雌雄なら、決していた。勝負なら付いていた。けれど全力を尽くすことならできたはずなんだ」
走って逃げている最中、優以の手はずっと震えていた。相変わらずの無表情ながら顔色は白く、呼吸は乱れて、尋常じゃない様子を見せる。
様相が一変したのは広貴さんと母さんと合流したときだ。優以は俺の手を離すと一目散に広貴さんへと駆け、その腰に抱き着いて声を上げて泣き始めたのだ。
俺は知った。優以は平気だったんじゃない。
あの男に腕を捻り上げられたときから、ずっと恐怖と戦っていたんだと。
「今、君の心に消えない傷があるのは俺のせいだ。もっと早く割って入れば、ひょっとしてあいつも暴力に訴えなかったかもしれない。機を逸したと感じて、君のことをすんなりと諦めたかもしれない。君に怖い思いを――させずに済んだかもしれない」
あと数十秒でも早く、俺が前に出られていれば。
優以は心に余計な傷を負わずに済んでいた。
しあわせな思い出の場所はしあわせな思い出の場所のまま、心の中に大事にしまっておけたはずなのに。
「……カッコ悪い兄貴でごめんな」
頭を垂れて謝罪し、足を動かして優以へと近づく。
滑り台の上に体勢を戻した優以が、じっと俺を見ている。
半ばまで距離を詰めたところで、ハッと気づいたように声を出した。
「違うよっ! 絶対にそんなことないっ!!」
「君のことを、見捨てようとした。君を置いて、逃げようとした」
「腕の骨が折れて痛かったのに、それでも私のこと連れて逃げてくれたじゃんっ!!」
頭を振って否定しても、どれだけ俺のために声を上げても。
過去は覆らない。一番大事な場面で、俺はルールを破った。
滑り台の上で、優以が立ち上がる。身体の震えは大きく、膝を揺らす。
けれど、それ以上の激情が彼女にそうさせていた。
そんな彼女に――俺は、下方から右手を伸ばす。
「……帰ろう、優以」
ぽつりと一言、真に言うべきことを告げる。
「俺は、思うよ。もし俺が君の思うようなカッコ良い兄貴だったなら、きっとその手を取れたのにって」
それは切なる願い。
もしもあの日、あのときに帰れるなら――俺はきっと、今度こそ優以を守る。
でも。
「でも違うんだ。俺は弱くて、臆病で、前に出られなかった。妹が必要としたその瞬間に、逃げようとしたんだって」
俺はずっと考えていた。
どうすればあのとき前に出られたのか。
身体を鍛えるのはひとつの解答だった。他者を圧倒する力を身に着ければ、恐怖を克服することができる。安直な発想だが、効果はあった。空手の修練を積むことによって、暴力に対する恐怖は減少した。
正しくあろうとした。もう二度とルールを破ることがないように。勉学に励み、風紀委員として率先して規律を守ろうとした。人に規律を強制する立場になることには抵抗があったが、あるとき俺は気づいた。ルールとは、人を守るためにこそあるのだと。
法が、別所で児童誘拐未遂事件を起こしたあいつを裁いたとき、俺はその答えに行き当たった。
滑り台の手前に到着し、俺は優以に向かって手を伸ばす。
その手を掴むところまではいかない。俺は、中途で手を止める。
「……俺は、ここまでだ」
そして言った。
「もしここで君の手をとれば、一緒に逃げようとすれば、俺はきっと自分が一番なりたくないものになる。今度こそ、本当に卑怯者になってしまう」
そうすれば、俺は俺を見限ってしまうだろう。
だから――。
「優以、頼む。俺の手をとってくれ」
涙に濡れる妹の顔を直視して、懇願する。
「もう一度俺にチャンスをくれないか。一緒に帰ろう。あそこが褒められた場所じゃなくとも。俺たちのあの家に」
全部わかっている。彼らは俺たちを利用した。また利用しようとしている。
このまま帰れば、この先また利用されない保証はない。
けれど家族だった。俺は母さんと、優以は広貴さんと血が繋がっている。
そして今は四人で家族だった。
きっと繋がりは完全に回復しない。破綻だって眼に見えている。
だけど努力ならできる。それが別たれてしまう最後の瞬間まで――。
そんな俺の心を、きっと彼女も理解したはずだ。
優以は、ぶんぶんと首を振って否定した。
「……無理だよ、私戦えない」
「できる。俺が君の力になる」
優以を、見てきた。ずっと見てきた。
だから俺は知っている。この子が、本当は強い子なんだって知ってる。
「きっとまた利用される……みんな私たちのせいにされる」
「そんなことさせない。俺が絶対に止めてみせる」
「家族が壊れてしまったら、私またひとりぼっちになる……」
「今度は絶対に見捨てたりなんてしない。約束する」
涙を流し続ける優以に、俺はそう断言した。
今だって強さが十分だとは言えない。
心だって強靭だと言い切れない。
けれど俺は誓ったんだ。優以のために今度こそ逃げないって。
胸の奥に書いたその名前が、なによりのその証拠だった。
手を宙に伸べたまま、俺は優以を待つ。そして信じる。
彼女が俺の手をとってくれることを。
もう一度、俺と一緒にあの家族の輪に戻ってくれることを。
「…………」
優以の手は、迷っていた。
立ったままの姿勢で顔の前で両手を開き、どうするべきか思案する。
おずおずとその場にしゃがみ、そして優以の手が俺の手に触れたとき、その顔にはいつも家で見せる笑みが浮かんでいた。
「なんだよ……お兄ってば、やっぱすっごいカッコイイじゃん……」
泣き笑いの優以の手を二度と離さないよう、俺は強く強く握り返した。
ここまでお読みいただきありがとうございます
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