第11話
空振りが続く。焦りが募る。
最初にどれだけ確信があっても、自信が揺らぐ。
俺には直感があった。これはゲームの続きなのだと。
優以の行動はいつだって逆説的だ。いなくなるのは見つけてもらいたがっているから。それはきっと、すべてがぶち壊しになったあのときと同じで――。
目的地に辿り着いたとき、俺はまたしても空振りだった虚脱感に襲われた。
その回数は既に、数えたくない数字に達している。
優以の姿を乞い求めながら、俺は同時に自分の過去を探訪していた。
嫌な思い出。できるなら記憶から抹消してしまいたいそれが、目的地に到達する度に記憶の奥底から甦ってくる。
幼い頃、俺たちは大人の欺瞞に振り回された。彼らの欲望を満たす材料にされた。当時の俺たちに行為の正誤を判断する力はなく、あったところでそれを正す力なんて持ち合わせていない。だからそれは、どうしようもなかった。
もはや息を整えることも忘れ、俺は来た道を駆け戻る。
必死に足を動かしながら、脳裏では己の過去を遡る。
まだ家族なんて間柄じゃなかった俺たちが四人で会った場所。無知な自分が、母さんのためだと思って不条理を飲み込んでいた場所。そのどこかで優以は待っていると、そう信じて――。
「……どういう、ことだ……?」
だからこそ、落胆もひとしおだった。
記憶のすべてを浚った。脳裏に浮かび上がるすべての候補は潰した。
俺は全力疾走で優以の姿を追い求めて、決して見逃しはしなかった。
思い出す限りここが最後の場所だった。俺が母さんの思う都合で遊びに連れだされ、その先で偶然広貴さんと優以に出会い、いつも子どもたちを置いて親だけがどこかに消えてしまった場所は――。
一瞬、脳裏に臆病な発想が兆す。
ひょっとして優以は誰かに見つけてもらいたかったんじゃなくて、この世界そのものから消えてしまいたかったのか――?
「――違う」
俺は言う。声に出して否定する。
俺の発想は間違ってなんていない。そんなはずがない。
何故なら俺たちは短くない時間を共有してきた。
同じ立場で物事を見てきた。
歪んだ家の中で一緒に耐えてきた。
そして……お互いのことを、見つめてきた。
だからわかる。知っている。もしこれがあのときと同じなら、優以はきっと見つけてもらいたがっている。
誰かに、家族に、そしてきっと俺に――。
「だから、諦めるな」
自らを鼓舞する言葉が、俺を奮い立たせる。昨日や今日じゃない。あの日から俺は、優以のためだけの俺だったはずだ。
「しっかりしろ! 博覧強記なんだろ、俺はっ!!」
両手で頬を何度も叩く。痛みが意識を明瞭にする。前だけを見据える。
大丈夫だ。すべての情報は俺の手の中にある。
だから気づける。それはきっと俺だけしか到達し得ない正答。
ただいるだけで心を害してしまうその場所で、優以はきっと震えて待っている。
「…………」
優以ならきっと、そこにいる。
◇◇◇
上空をゆっくりと雲が流れ、真円の月の一部を覆った。
見慣れた道を走っていた。その意味は頭の中にある。優以がもし、俺が思う通りの場所にいるのなら――俺は一刻を惜しんで辿り着かないといけない。
先程にも増してスピードを上げる。息は乱れに乱れている。足の筋肉も引き攣れのような痛みを発している。それでも、肉体の苦痛なら我慢できる。
俺は角を曲がり、見慣れた看板を通りすぎる。既にシャッターの閉まった花丸甘味店が、物言わぬまま俺の背中を見送った。部活動で遅くなったとき、閉店間際に飛び込んだこともある。けれど今は、求めるものはプリンなんかじゃない。
花丸甘味店がある通りの端――全力走のままそこを曲がり、目的の場所へと到達した。
上空を、音を立てて風が吹き抜ける。
雲が倍する速度で動き、遮っていた分の月の光まで地上へと返す。
学校からほど近いここは、俺が努めて眼に入れないようにしてきた場所だった。この小さな公園に罪はない。問題は俺個人にある。記憶の残滓が、風景によって呼び覚まされ、あのときの無力感を痛感せずにはいれなくなる。
それでも今は、眼を凝らす必要があった。記憶の中の風景と寸分違わないこの公園を眼を皿のようにして検分して――俺は、ついにその姿を見つける。
ジャングルジムと滑り台が併設された遊具の上、そこに三角座りの姿勢でまんじりともしない優以がいた。
安堵してはいられなかった。
優以がここにいる意味を考えれば。
乱れた息を整える時間も惜しみ、俺は彼女へと足を向けた。
「――こないでよ」
中ほどまで距離を詰めたころで、制止の声が降りかかる。
背中に月を背負った優以が、自分の太腿の間に声を落とす。
「それ以上近づかれたら、私パンツ見られちゃうじゃん」
「それ、いつも見せてるようなものだったろ」
「違うよ。今日のは見られていいのじゃないんだよ……」
「……なんだよそれ……」
逃げる意思は見せていない。俺は深呼吸がてら溜息をこぼす。
滑り台の上の優以は、三角座りの体勢から微動だにしていない。
距離を詰めることは拒絶されている。だから俺は律儀に待った。
優以が、俺と話せるだけの心の準備を整えてくれるのを。
「……ラストステージ、開幕した覚えなんてないんだけどな」
ボソリと言い終えて、ふっと鼻先で笑う。自嘲の笑み。
「やっぱ、お兄なんだね。私のこと見つけてくれるの……ねえ、パパと董さんはどうしてんの? お兄と別の場所を当たってる感じなのかな?」
無言のままその場に立ち続けると、優以はすべてを悟った。
「だよね。あの二人が私のこと探すはずなんてない。あの人たちにとって、本当に大事なのは自分だけ……」
「迎えにくるのが遅くなって、すまなかった」
落胆する優以に、俺は深々と頭を下げた。
二人の間の空気が変わり、優以の雰囲気も変わる。
頭を上げて、滑り台の上から俺の顔を見る。
「なんでお兄が私に謝るの」
「気づけなかった。君がこの場所にいると思い至れなかった。俺の不覚だ」
「違うよ! 悪いの全部、勝手に家から飛びだした私の方じゃん!」
自分への怒りが震えとなって妹の肩を揺らした。
それは一過性で収まらない。肩を伝って上半身に伝播する震えを、優以は自分の腕で自分を抱きしめて無理に納めようとする。
「……く……うぅ……」
「無理に動かなくていい。君のことは俺が背負う。だからこっちに……」
「こないでって!!」
一際激しい制止の声に、俺は踏み出した足を慌てて止める。
優以の眼光は鋭く、その光は夜闇だというのに俺にもはっきり見えた。
「お兄はさ、なんでいつもそうなの」
眇められた眼も、低いトーンの声も。
それらは俺を責めるようでいて、自らを苛んでいる。
「…………」
しばしの逡巡のあと、優以はついにその一言を口にした。
「わかってるでしょ……あの二人、もうダメだよ」
昏い声。最初から俺の答えなんて要求していない。
何故なら絶対に肯定すると知っているから。
「兆しが出てるの。ママのときと同じ。ああなったパパは、人の言うことなんて聞かない。全部自分の思う通りじゃないと許せない。だから押しつける。相手に、私たちに、自分の思った通り振る舞わせようと躍起になる」
広貴さんの本性は徐々に現れた。一緒に暮らし始めた当初は穏やかな人に見えた。家族全員に平等に接し、連れ子の俺にもやさしくしてくれる。まさに絵に描いたような理想の父親。
きっかけは、母さんが広貴さんとの約束を反故にしたことだ。母さんはあれこれと理由をつけると、結婚前の約束のいくつかを仕方ないこととして破った。
それを機に、広貴さんの母さんに対する態度が豹変したのだ。
「ママがノイローゼになってしまったのはパパのせい。それで、私の親権はパパに渡ることになった……」
半ば予想してはいたが、優以の告白は苛烈なものだった。
でも、鋭い爪を隠していたのはなにも広貴さんだけじゃない。
「……俺の母さんも、そうだ」
一言漏らすと、言葉は止まらなくなった。
「母さんはいつも、子ども思いでやさしい振る舞いを心がけている。けれどその博愛精神はなにがあっても揺るがないわけじゃない。圧がかかれば、守る範囲を限定する。論理で打ち負かされると、相手を敵だと見なす。そして、一度敵と見なした相手には容赦をしない――」
父さんが母さんの被害に遭っていたことを知ったのは、正式に離婚して数年後に会ったときだ。
俺の精神の成長を確認して、父さんは当時の話をしてくれた。父さんは言った。あの頃顔や頭、首、そして見えない部分に負っていた生傷は、全部母さんが付けたものだったと。
拒否していたのだ。母さんは、対話を。仲が拗れた父さんを敵性因子と判断した。俺のために夫婦仲を繕おうとした父さんを突っぱね、自分の主張が通るまで物理的に苛んだ。
肉体的苦痛に屈して離婚届に判を押してしまったことを、父さんは最後まで俺に頭を垂れて謝っていた。
「広貴さんの額にあったのは、たぶん母さんが付けた傷だ。母さんの暴力は、二人の夫婦生活が続く限り、決してなくなることはないと思う」
確信を持って言い終えると、すん、と優以が鼻を啜った。
「なにさ、お兄だってちゃんとわかってるじゃん」
「俺と君は、同じ立場だから」
「同じ立場……けど、だったらなおさらわからなくなるよ」
首を振って、優以はまた自分の世界へと意識を飛ばす。
空を見上げると、夜空に浮かぶ月に向かって告発する。
「――あの人たちは、ルールを破ってる」
ふうっ、と優以の口から白い息が出る。
外はもう寒くて、優以の恰好は薄着で、俺はそちらに意識を引かれそうになる。
「私さ、バカだけど覚えてることがあんの」
「……なにを」
「偉い人の言葉。その人はこう言ってたんだ。しあわせな家族はみんな似ているんだって」
聞いたことがある。たしか、トルストイの言葉だ。
「だったらさ、私たちにはそんなの最初からなかったってことじゃん。うちじゃ両親が喧嘩してて、仲が悪くてさ。週末になるとおべっか使われて外に連れだされるの。知らない女の人と会って、その人の知らない子どもと会って、初対面なのに仲良しなんだから遊びなさいって言われる……普通の家族は、そんなことしない」
優以の言葉に、異論を差し挟む余地はない。
誰が見てもあの状況は異常だった。
記憶の中の優以は、俺に対してもずっと壁を作っていた――。
「家にはまだママがいた。なのにパパは、私を利用して、言い訳にして、ずっと董さんと会ってたの。ずっと、私とママのこと裏切っていた……」
ぐしぐしと、優以は制服の袖で溢れでた涙を拭う。
けれどそれは止まらない。いや、止めようがない。
何故ならこれまでずっと我慢していた、その分が流れでているのだから。
……何年間も。
「……知りたくなんて、なかったよ。いつも私たちをおいていなくなる二人が、どこでなにをしていたかなんて」
大人の欲望は、子どもの世界からは巧妙に隠されている。初めてその事実を知ったとき、俺も優以と同じ感想を覚えた。
自分がなんのためにあんな茶番を演じさせられていたのか、全部理解したときはショックだった。彼らにとって俺たちは手段で、方便だった。自らの欲求を満たすための、世間から身を隠すための、体のいい盾。
「……お兄も、理解してるんだよね?」
優以は言って、俺を直視する。
「パパが買ってくる花丸プリンはあのときの補償。今もって続いてる口封じ料。お兄の空手のことをしきりに聞きたがるのは、負った傷がちゃんと癒えたのか知りたいから」
水を向けられて、俺はしっかりと頷きを返した。
「……ああ、知ってる」
「ホント、卑怯だよね。ねえお兄、どうして許すの?」
確定事項のように訊かれたが、俺にそんなつもりはなかった。
ただ――全部忘れたかったのだ。家族のために。
「今度こそ上手くいってほしかった。母さんと広貴さんと俺と君で、今度こそしあわせな家族になりたかった」
壊れかけたあの光景を目撃してもなお。
俺はまだ、そんな絵空事に恋い焦がれている――。
可能ならば、いや不可能だったとしても、この手に取り戻したい。
「無理だよ。もう、おしまい」
優以の言葉が、そんな想像にすら幕を降ろした。
「あの人たち、また同じことを繰り返してる。全然成長なんてしてない。だから平気で、また同じことができる。仲違いしたのは自分たちの努力が不足していたせい。相手の立場に立った対話を拒んだせい。なのに、離れる理由を全部こっちに押しつけようとしてる……」
両腕で大きくなる震えを抑えながら、優以は涙声で言った。
「……信じてたのに」
落胆の声に、孤独が滲む。
四人で家族だった。そのつもりだった。
けれど優以は、ずっと孤独を感じていたのだ。だだっ広いあの家で。
「ねえ、私たちってなんなの? あの人たちの都合で一緒に生活させられて、今度は引き離されようとしてる。こっちは一言も、頼んでなんていないのに」
はあっと、心の底から溢れたものを溜息とともに吐き出して、優以は俺を見た。
「みんな、ルールを破ってる。私だってそう。服装とか髪色とか。けど、私は誰かを裏切ったりなんてしてない。利用したりなんかしてない」
「……優以……」
日暮坂優以は、ゲーム好きの少女だった。
学校から帰宅するといつも、ひとりでずっとゲームをしている。だけどそれは家族との対話を拒んでいるからじゃない。純粋で好きでそうしているだけだ。
母さんとの仲だって悪くはなかった。最初に不信感はあったかもしれない。でも優以なりの努力で埋め合わせようとしていた。訊かれたことには答えるし、会話を弾ませる努力もする。俺はずっとそれを見てきた。
そんな優以の努力を二人は裏切った。その存在を、また利用した。
「あの家で、ルールを守っているのはお兄だけ……ねえ、教えてよ。どうしてそんなことができるの? あんな場所で、真っ直ぐ立っていられるの?」
普段の俺なら、きっと当たり障りのない正論で口を濁す。
でも今は真実を告げる必要がある。拳を握り、腹と足に力を込める。
「それは――」
「待って! 言わないで!!」
悲鳴のような声に、瞬間的に口の動きが止まる。
「ごめん、お願いだからそれ以上言わないで……だってお兄の口からそれを聞いたらさ、きっと私、すごい惨めな気持ちになる」
「違う。そんなことは……」
「あるんだよ。ちゃんとそのくらいことわかってるん、だから……」
消え入るように言って、優以は一際強く自分の身体を掻き抱く。
びゅうと音を立てて吹き去った風が、髪を疎らに散らして揺らす。
夜気に冷やされて、体温が奪われて、寒そうに凍えて見える。
「……もう、いいよね」
ぼそりと告げたその言葉の真意を俺は知らない。
胸が苦しいのは、嫌な予感を覚えたからなのか。
だというのに、滑り台の上の優以は、晴れやかな笑顔を見せた。
「もう全部終わりなら、あの人たちが終わらせるっていうんなら、もういい……私だって、家族のルールを破る」
決意を秘めた瞳、そう見えたのは一瞬だけ。
優以は俺を見て、俺に向かってとびきりの笑顔を形作った。そして――。
「――お兄、好きだよ」
生身の心臓を鷲掴みにするような声を、俺は聞いた。