第10話
「聞いたよ? 正斗って、7組の日暮坂優以ちゃんと仲がいいんだってね?」
寝耳に水の話だった。母さんは上機嫌そうにニコニコしている。なにかいいことがあったのだと思った。けれど言ってる意味がわからない。日暮坂優以なんて女の子とは話したこともない。
「ねえ、一緒に遊びたいでしょ? 今度の日曜日、母さんと一緒に優以ちゃんに会いにいこっか?」
だけど俺は頷いた。こんな笑顔の母さんは久しぶりだった。父さんといるときの母さんはしかめっ面で、いつも不機嫌そうで、でももし俺が優以ちゃんと遊ぶことで喜んでくれるなら、それに越したことはないと思ったんだ。
遊びの約束は、俺が優以ちゃんと直接話をして決めるのだと思っていた。けれど違った。遊びの約束は母さんがしてくれた。俺はただその週の日曜日に、母さんと一緒に決まった場所に行けばいいとのことだった。
「初めまして正斗くん、優以のパパです」
約束の場所には、カッコイイおじさんがいた。おじさんは自分のことを優以ちゃんのパパだと言って、広貴っていう名前も教えてくれた。
「……優以ちゃんのパパ、じゃダメなの?」
「それだと距離があるだろ? 正斗くんは優以の大事なお友だちだから、おじさんはもっと親しくなりたいんだよ。ほら、優以、出ておいで」
呼ばれて、広貴さんの背中側から、優以ちゃんが前に回り出てきた。
「…………」
優以ちゃんは俯いて、無言で携帯ゲームの画面を見ていた。
本体からはイヤホンケーブルが伸びて、優以ちゃんの両耳を塞いでいる。
「あのぅ、優以ちゃん? 俺、正斗っていうんだけど……」
「…………」
無反応だ。困った。
優以ちゃんはかわいい女の子だけど、やはり俺とは親しくない。絶対に初対面だし、きっと母さんの勘違いだったのだろう。説明しなければ――。
「あのね、お母さん――」
母さんと広貴さん、二人の満面の笑顔にぶつかって俺の言葉が止まった。
「ほらやっぱり! 二人ともすっごい仲良しさん!」
「アハハ、董さんに同感だね。この二人はすごく相性がいい!」
違う現実を見ているのだと思った。母さんも、広貴さんも。
だってゲームで眼と耳を塞いでいる優以ちゃんは、俺と話す気なんて一欠片も持ち合わせてない。
「ちょっと待って二人とも! 俺、全然優以ちゃんと話せてなんて……」
説明しようと必死になったところで、笑顔の母さんが俺の頭を撫でた。
「ねえ正斗、これから母さんと広貴さんで大事な話があるんだけど、少しの間、優以ちゃんと遊んでてもらえないかしら」
「え? 母さん……それどういうこと?」
なにも聞かされてない。これから四人で一緒に遊ぶんじゃなかったのか。
呆然とする俺の上に、広貴さんの長い影が伸びた。
「とても大事な話なんだ。二人きりで話したい。君だって優以と一緒に遊びたかったんだし、ちょうどいいじゃないか」
膝を曲げてなお、頭上からのしかかるような重圧を放つ広貴さんの言葉には、有無を言わさない迫力があった。
言い返したら怒られる――脳裏によぎったそんな確信に怯えて口を噤んでいると、広貴さんの隣に母さんが寄り添った。
「良い子にしているのよ? 優以ちゃんと仲良くね」
肩を並べていずこかへと去ってゆく二人を見送って、俺は途方に暮れた。
「…………」
結局その日、二人きりになったその場所で、何度話しかけても優以ちゃんは一言も反応してくれなかった。
◇◇◇
息せき切って辿り着いたその場所に、探し求める人影はなかった。
これでもう何度目の空振りだろうか。二桁なんて優に超えている。
膝に手を当て、乱れた呼吸を整える。
ここまでずっと全力疾走してきた。身体は熱を持ち、額から汗が伝い落ちる。
それでも確信がある。妹との間に築いた絆がたしかに伝えている。
これは問題文すら存在しない設問なのだと。
妹は、優以は、俺の思い描く場所のどこかで必ず俺を待っている。
弱気になるのは昔の記憶のせいだ。かつて無力だった自分が不安の影を投射している。存在しないはずの影に怯えて、焦っている。
「クソっ、修行が足りん……!!」
記憶の層を掘り進み、自分自身に檄を入れると、次の目的地へと駆けだした。
◇◇◇
――フリをしていた。それは義務だった。
母さんは言った。正斗はカブトムシを捕まえたいのよねって。前みたいに上機嫌でニコニコしていた。だから俺は頷いたんだ。その笑顔が曇るところを見たくなんてなかったから。
次の日曜に外出した。カブトムシを捕るために。目的の場所には広貴さんと優以ちゃんがいた。二人は、散歩がてらにここを通りがかったのだと言った。
「いやあ、奇遇ですね。こんなところでまた出会うなんて!」
「本当にそうですね! ……ほら正斗、広貴さんにご挨拶は?」
「広貴さん、こんにちは」
広貴さんは、優以ちゃんを連れていた。相変わらず広貴さんの背中側に隠れて、無言で携帯ゲームの画面と睨めっこをしている。
虫取り網を手に持ち、虫かごを腰に下げる。神社の麓は木々が生い茂って、カブトムシもたくさんいそうな感じだった。携帯ゲームに熱中している優以ちゃんは置くとしても、三人で協力すればたくさん捕まえられる気がした。
やりたい遊びじゃなかった。
だけど成果を出せばきっと母さんだって喜ぶ。
やる気を漲らせて振り返ると、談笑していた母さんたちの視線とぶつかった。
「俺、がんばるよ! お母さんと広貴さんが手伝ってくれたら、きっと大きなカブトムシだって捕まえられるね! そしたらおうちに連れて帰って一緒に飼おうね!」
母さんと広貴さんは顔を見合わせた。
それからもう一度笑顔を浮かべて俺に歩み寄ってきた。
「正斗くんは元気だなぁ。僕たちも、そうしたいのは山々なんだけど……」
語尾を濁して、麦わら帽子の上から広貴さんが頭を撫でてくる。
そのせいでズレた麦わら帽子の位置を、横から母さんが直してくれた。
「ごめんね、母さんたちこれから大事なお話があるの。悪いんだけど、虫捕りは正斗と優以ちゃんでやっててくれないかしら」
母さんはなにを言ってるんだろう? ――当時の俺は不思議がった。
優以ちゃんならひとりで遊んでる。だから俺を手伝えないのに。
「で、でも、優以ちゃんはさっきからゲームをしてるし……」
チラリとそちらを見て、俺はもっともな理屈を口にした。
そのせいでなにが起こるかなんて、毛ほども理解せず――。
動いたのは広貴さんだった。その行動は、迅速だった。
「まったく正斗くんの言う通りだな。こんなにいい天気なのにゲームばかりしているなんてもったいない……」
それは、見るからに乱暴な所作だった。広貴さんはまだ接近に気づいていない優以ちゃんの手から携帯ゲーム機を取り上げて電源を落とすと、耳に嵌まったイヤホンをケーブルを引きちぎるようにして取り去った。
それから俺の顔を見て、ニヤリと口元に笑みを湛える。
「ほら、これでゲーム終了だ。優以、正斗くんと遊びなさい」
「…………」
優以ちゃんが広貴さんを見上げる視線は無機質で、なんの感情の動きも感じさせない。
その色付けと解釈は、広貴さん自身が勝手に行った。
「それでいい。正斗くんを手伝って、たくさんカブトムシを捕るんだぞ。結果が大事なんじゃない。こういうのはやってみる気持ちが大切なんだ……それじゃあ董さん、行きましょうか」
二人の背を見送り、またしても俺たちは二人きりで取り残された。
「…………」
優以ちゃんには何度も話しかけた。一緒に虫捕りしようって。ちゃんと聞こえていたはずだ。だって携帯ゲームとイヤホンは広貴さんが持っていってしまっている。眼も耳も、完全に自由なのだから俺の声が届かないなんてことはない。
けれど優以ちゃんは無反応を貫いた。だから渋々、俺は虫取り網を手に取る。ひとりでカブトムシ捕りに精を出すことにしたのだ。
「……えいっ……えいっ……」
そしてフリをした。
カブトムシを捕まえようとしているフリを。楽しそうに遊んでいるフリを――。
「ねえ優以ちゃん、カブトムシ好き?」
「…………」
「俺はそんな好きじゃないかな。クワガタの方が好き」
「…………」
「ひょっとして虫自体が好きじゃないのかな。女の子だもんね」
「…………」
「ゲームは、好きだよね? 俺も家でやるよ。俺の好きなゲームは……」
適当に虫取り網を振り回しながら、話しかける。
俺の言葉に、優以ちゃんは一向に無反応のままだ。
切り株の上に座り、携帯ゲームをしていたときと同様、なんの反応も示さない。
ふと、俺の適当に振り回していた虫取り網が、木に留まっていたカブトムシの背に当たってしまった。
カブトムシはその衝撃に驚き、羽を開いて羽ばたくと、優以ちゃんが座っている切り株に向かって一直線に飛んでいく。
「危ないっ!!」
頭にぶつかる――そう思って声を出した次の瞬間、パシンと音がした。
見ると、切り株に座っていた優以ちゃんが立ち上がっている。
手元から視線を上げ、呆然と立つ俺に向かって歩み寄ってきた。
それから、両手で包み込んで捕らえたそれを、俺の手の中に押し込むようにして渡してくる。
素直に受け取った俺に、優以ちゃんは冷たい視線をぶつけてこう言った。
「……私に、話しかけないで」
それだけ言い終えると、くるりと背を向けて切り株のところまで帰り、優以ちゃんはもう一度その上へと座った。
俺は、押しつけられたカブトムシが掌の上から飛んで逃げてしまうまで、そいつを虫かごの中に入れるという発想を思い出すことができなかった。
◇◇◇
記憶の中の優以は、無表情で無反応な女の子だ。
携帯ゲームの画面で眼を、イヤホンで耳を塞ぎ、無言でいつも面白くなさそうに広貴さんに付き従っている。
初めて出会ったとき、ゲームが好きなのだと思った。それが表層だという発想を持てなかった。眼に見えるものをすべてと捉えていた。だがその思考は間違いだった。
優以の中にあったのは好きではなく嫌いの感情。携帯ゲームとイヤホンは彼女の心を守る防具。よこしまな現実からの逃避先で、周囲の情報を弾くためのバリア。親の独善を生理的に気取って、できる手段で自衛しようとしていた。無知で鈍感だった俺なんかより、ずっと先を走っていた。
だけど、これだけは断言できる。
彼らが思い描く未来を読み取ったのは、きっと俺の方が先だった――。