もう一度の約束を。
兄が死んで四十八日目の朝が来た。
二段ベッドの上から寝息が聞こえない日々には慣れてきた。ご飯の時、ついうっかり兄のお茶碗まで出してしまうこともなくなった。
遺骨の隣で笑う兄を見るたびにチクンと胸が痛むのには慣れなかった。
もう二度と会えなくなるのだ、と。
「楓子、遅刻するわよ」
「はーい!」
リビングから母が呼んでいる。急いで制服に袖を通す。こういう時に限ってボタンがスムーズに引っかかってくれない。
「ご飯は?」
「もう時間ないよー」
顔の前で手を合わせてごめんなさいのポーズをする。仕方ないわね、そう言って母はお弁当を渡して来た。
「行ってきます!」
「お兄ちゃんに挨拶しなさいよ」
玄関に向かおうとしていた体の向きを変えて、私は床に置かれたぺたんこの座布団の上に座った。兄の笑った写真と家族の写真が花に囲まれて並んでいる。その隣には大きな白い箱。
「行ってきます」
手を合わせて、目を閉じて。ここに居る兄に挨拶をする。
そして、目を開けたのと同時に走り出した。
「行ってらっしゃい」
玄関のドアを開け、腕に巻いた時計を見る。電車が発車するまであと五分。家から駅までは走ればギリギリ五分くらいの距離。
『どうせ間に合わないからゆっくり行けよー』
頭上からそんな暢気な声が聞こえてくる。
「誰のせいで遅刻ギリギリになったと思ってるのよ!」
私は暢気な声の主を睨みつける。
『兄ちゃんが死んだから……?』
そうだ、兄ちゃんが死ななければ。手を合わせる時間が駅に向かう時間になっていただろう。
「違うよ! 兄ちゃんが怖い話するからじゃん!」
私は早く眠りにつきたかったのに、幽霊のお友達に聞いたとかいう恐怖体験を聞かされて寝坊したのだ。
「こうして毎日話してるから写真に行ってきますっていう必要もないのにー」
赤信号に止められて私は手を膝についた。少しだけ早くなった呼吸を整える。
「兄ちゃんが思ってるより、私、ちゃんと生きていけるよ」
そう言って兄ちゃんを見ると、悲しそうな顔をしていた。
引っ込み思案でいつも兄の後ろについていた私。そんな私が心配で、私にだけ見えるようになった兄。
そんな兄が死んで明日で四十九日が経つ。
『それでも兄ちゃんは心配だ』
四十九日が来たら、兄ちゃんは天国に行ってしまう。未練があれば地縛霊になる。このままだと、兄ちゃんは私のせいで天国に行けなくなってしまうかもしれない。
『今日は遅刻確定だしな』
「だからそれは兄ちゃんのせいだってば!」
私が大きな声で言ったせいで、同じように信号を待っていたおばあさんが不審そうにこちらを見た。
『あともうちょっと時間をくれたら生き返れそうな気がしたんだけどなぁ』
交通事故に遭った兄は生死の境を数日間彷徨った。その後、脳死判定が出て、私たちは兄の生命維持装置を外す決断をした。
もう十分頑張ったから。ゆっくり休んでほしい。生きようと頑張ってくれてありがとう。
そう言いながら兄を抱きしめる母の姿はきっと永遠に忘れられないだろう。包帯に巻かれ、色んな管に繋がれていた兄。
お葬式の日に再会したとき、ただ眠っているようにしか見えない兄がいて、それが嬉しくて、でもやっぱり悲しくて。私はぽろぽろと涙を流していた。
『あー寒かった』
なんて暢気なことを言いながら閉まった棺をすり抜けてきた兄と目が合った。肩を縮めて腕をさすりながら話す幽霊を目の当たりにして、私と兄のお別れは保留にされてしまったのだ。
『学校、行かないのか?』
信号が青になっても動かない私を見て兄ちゃんが言った。
「……兄ちゃんはちゃんと天国行ってね?」
一歩、私は駅とは反対側に歩き出した。
「私も兄ちゃんが心配!」
急に行き先を変えたことに兄ちゃんは戸惑っている。ハの字の眉、困惑した表情。どんな顔も、もう二度と見られないと思っていたものだ。
「兄ちゃんは馬鹿だ」
『なんだよ、急に悪口かよ』
細い路地を抜けて、よく二人で遊んだ砂浜が見えてきた。
「兄ちゃんがそんな風に私の側にいても嬉しくもなんともない!」
むしろ外で話していると、危ない子扱いをされてしまうから困る。
『だから俺は楓子が心配で……』
心配、心配ってそればかり。私にだけ見えるのもそのせいだ。
私は靴を脱いで、裸足で砂浜に降りた。そして、大きく息を吸う。
「心配なら、死なないでよ!」
海に向かってありったけの声で叫んだ。ずっと言いたかったけれど、言えなかったこと。
「生きて側にいて欲しかった……」
私の頬を涙が伝う。
兄ちゃんとの残された時間はあと少ししかない。お葬式の日、お別れが先延ばしになったと言っても、いつか必ずその日は来てしまうのだ。
「私が落ち込んでたらぎゅーって抱きしめて欲しかった。そんなこともできない兄ちゃんに側にいて欲しくない」
『楓子……』
振り返って兄ちゃんを見る。砂浜に映る影は一つだけ。
「兄ちゃんに心配かけないように頑張るから」
兄ちゃんは腕で目を覆っていた。
「だから、天国でまた会ったときに、思いっきり抱きしめてよ」
生き返ってくれたら、どれほどいいか。そんな叶わない夢を何度も願った。
兄ちゃんが死んで、悲しむ私を懸命に笑わせようと、元気づけようとしてくれたのは兄ちゃんだった。夜になると一人で泣く母のことをずっと見守っていたのも知っている。
「兄ちゃん……」
『バカ、そんな泣くなよ。目腫れてもっとひどい顔になるぞ』
震える声で兄ちゃんは失礼なことを言う。
『母さんのこと頼んだぞ』
「うん、任せて」
兄ちゃんの手が、私の頬に触れる。ほんの少しだけ、温かいような気がした。
「兄ちゃん……」
『元気でな』
これは永遠のお別れなんかじゃない。何十年も経って、次に会う時にはたくさん褒めてもらうんだ。
「「またね」」
兄の姿はもう見えないし、声ももう聞こえない。それでも胸に手を当てれば兄の存在を感じることができた。
家に帰っても遺骨はもういない。
「また来るね」
私はそう言い残して車に乗り込んだ。
桜の花が咲いている。花びらは楽しそうに車の周りを駆け抜けた。
「今日、何食べようか?」
「てんぷら食べたい!」
私はわざと大きな声で言った。サクサクの衣を纏った熱々のてんぷらは兄の大好物だ。もう天国に行っちゃったから、遠くから眺めることしかできないだろう。
「お母さん」
「ん?」
黒い服に身を包んだ母。
「兄ちゃん今頃、食べたかったのにーって嘆いてるね!」
「間違いないね」
私たちはそう言って笑った。笑ったから少しだけ涙が出た。
これからもずっと、こうやって生きていく。
過去にも幽霊ものの作品を書いたのできっと幽霊が好きなんだと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。