半陰陽について
LGBTとは、誕生時の生物学的、外観的な性とは異なる性であることを自認している、もしくは同性者に対して性愛的価値観を見出している人物、あるいはそれらの集団であると定義される。
ここでは、これらの集団の内部には、所謂“半陰陽”やその他様々な性的違和を感じている人物或いは集団も内在するものとして考えることにしたい。
ところで読者諸賢は、先に挙げた“半陰陽”という言葉をご存知だろうか。ここで挙げられたことや名前の中に陰陽と表記されることからも容易に推測できる通り、この言葉は陰陽思想から生まれたLGBTの一形態、その名称である。
これは俗に二形や半月、両性具有、インターセックス(英:intersex / 略称:IS )などと呼ばれる性的形態の一種で、医学的には性分化疾患(DSD)と呼称され、つまり、陰と陽、女と男のように二分化した性を半分ずつその身に宿していることから生まれた言葉である。
名前の由来の概念にある陰陽思想とは、簡単に説明すれば、“世界のあらゆる全てのものは、暗く重く受動的な陰の性質と、明るく軽く能動的な陽の二つの性質によって構築され、しかもこれら陰と陽の中にも更に小さな陽(小陽)と小さな陰(小陰)が内包されており、それらの小さな陰陽の性質によって、それを含んでいた陰(太陰)と陽(太陽)は互いに循環し合っている”というものだ。
東洋では、陰と陽、女と男といった対立的、補完的なものの調和を重視する陰陽思想に基づき、“半陰陽”を理想的な性別のあり方とする考え方もあった。
同じくして、西洋にもこれと似たような思想が、紀元前四百年頃には既に存在していた。
その根拠としてあげられるのが、プラトン哲学で度々登場する『饗宴』であり、話中のアリストファネスがエロス(愛)について語る神話『アンドロギュノスの失くした半身』である。
それではこれより、『饗宴』より『アンドロギュノスの失くした半身』から、“半陰陽”とは象徴的、哲学的にどのような存在として認知されているかを説明していこうと思う。
『アンドロギュノスの失くした半身』
アンドロギュノスとは、古代ギリシャ人哲学者プラトンの『饗宴』の話中にて、アリストファネスがエロス(愛)について語っている神話の最中に参上する現在の人間の原型である。
アリストファネス曰く、『太古の昔には人間は現在とは違う存在であり、男と女、そしてその双方を兼ね備えた種族(=アンドロギュノス)の三通りの種族』が居た。
アリストファネスによればアンドロギュノスは、要約すれば以下のような容姿をしている。
一つ、その形は全体的に結合性二卵性双生児の男女のようである。
一つ、手足は二対あり、又生殖器も男性器と女性器の二種類を一つずつ保有している。
一つ、その頭は別々の方を向いており、その顔の造形は大変似通った造りをしている。
↓アンドロギュノス↓
アリストファネスは『これ故、一つの個体にて各々で充足した一つの全体をなしていた』と話し、『一つの個体が天上の国と地上の国の相関関係を照応した造形である』とした。
アンドロギュノスは『饗宴』内の話では、力が強く傲慢であり、尚且つ神に叛逆を企てる種であった。
これに対して神ゼウスは、どうにかしてこの叛逆を辞めさせたいと考えていた。
ゼウスはまず次のような案を想起した。
それはつまり、人類の掃討である。
しかしそうなると人々からの捧げ物や供物を失ってしまうことになり、それを惜しんだ彼は、次に別の案を想起した。
──そうだ!全ての人間を真っ二つに両断しちゃえばいいんだ!
なんとも安易な考えであろうか、と常人ならば思うだろう。
全ての人間を真っ二つに両断することと掃討することの違いについて、諸賢は的確に述べることができようか。
しかしここは流石全知全能と謳われた神ゼウス。
全ての人間を真っ二つにした後、彼は太陽神アポロンに命じて、半分になった『人間の傷を癒し、頭の向きを変え、臍や胸を造り、現在の人間の姿に仕立て』直させたのである。
これにより彼のゼウスも一件落着かと思いきや、予想外の事件が起きてしまう。
それをアリストファネスは次のように語った。
『いずれの半身も、もう一方の半身に憧れ、これを追い求め、一緒になろうとした。
そして腕を絡め合い、互いに抱擁したまま何もできなくなってしまった。
半身のままでは、働くことも生きていくこともできなかったのである』
そこで再び頭を悩ませた神ゼウスは、彼らの性器を身体の脇から前に移動させることにした。
これにより、半分に別れたアンドロギュノスの男性部と女性部は、抱擁のうちに二つの者から一つの者をつくることができるようにしたのである。
結果、人間達は欲を鎮め、再び仕事をして人生の営みを続けることができるようになった。
以来、『人間は己の失われた半身を焦がれ求めるのであり、これこそが恋心』なのである。
さて、ここまでアンドロギュノスの神話を語ってきたわけであるが、諸賢らは果たして、これと“半陰陽”の関連性に気がついたであろうか。
プラトン哲学において、恋心とは先の神話の通り、分離した互いの半身である異性分体を求める精神活動である。
異性分体と表現した通り、プラトン哲学においては男と女が一体になった姿こそが、生物として完成した究極の状態であるとされる。
陰陽思想も同様に、陰と陽、双方の調和した状態である半陰陽、雌雄同位体、インターセックスなどと呼ばれる存在は、その身体に調和した特質を内在させる点で完璧な存在として描かれているのである。
この通り、インターセックス、半陰陽、ISなどと呼ばれる性的形態は決して蔑視したり、又は手術によってどちらか片方の性別に限定しようなどとする必要性はなく、むしろ洋の東西を問わず神聖的な存在として古来より描かれてきた。
つまり、その身に二種の性別を宿す“半陰陽”は、それを神聖的な一性的形態として誇りを持ってその存在を主張したとして、何らおかしいと感じる必要は無いのである。
以上、客観的な観点を用いてこれまで“半陰陽”について語ってきたわけだが、これを読んだ諸賢はどのように感じただろうか。
感じ方は人それぞれであるゆえ、私個人からは何も意見するつもりはない。
しかし覚えておいて欲しいことが一つだけある。
私がこれを先ず書こうと思った理由は、人間の本質と見た目は関連しないという事を伝えたかったからである。
先に挙げた神話の印象から、アンドロギュノスに対して暴力的なイメージを持った方々も、もしかするといるかもしれない。
しかしあの神話にて表現されたアンドロギュノスらは、あくまで神ゼウスの視点によるものである。
そういった視点で今の我々を見てみれば、科学によって世界の謎を暴き出し、かつ自然を破壊する様は神に対する叛逆ともとれる行いである。
そういった行いが、今の我々とかつてのアンドロギュノスらの行いとに、一体何の違いがあろうか。
依然として、我々人類による文明の進歩とは、言ってみれば神に対する叛逆である。
その事実を直視すれば、一体どのような種族の人間が、その罪から逃れられていると言うのか。
私の思いつく限りでは、キリスト教の某宗派の一つがそれに類するが、多くの人類はその利便性にかどわかされ、叛逆することを是としていることだろう。
そう、かつてのアンドロギュノスも我々現代人も、さほど変わらないのである。
ただ“半陰陽”は、そんな神々の反撃によって奪われた異性分体を取り戻し、一つになっただけに過ぎない。
謂わば、神への反撃に成功した功労者と言っても過言ではないわけだ。
故に、私からはこの次の言葉で締めくくらせてもらうことにしようと思う。
──“半陰陽”者諸君、おめでとう。君たちの成果に、私はこの全霊を以って褒め称えよう。