第三章 それぞれの想い1
彼女と出会ったのは高校一年の5月のことだった。
「何じゃ? わらわの顔がそんなに珍しいのか?」
自己紹介を済ませ、教壇から降りてきた転校生が僕を睨んでいた。
「い、いや、べ、別に……珍しくなんかないよ」
黒髪の美しい転校生相手に見惚れた瞬間、目眩と共に頭の奥で何が軋む音がし、なぜか転校生の平手が僕の頬に炸裂していた。
「汚らわしい目で、わらわを見るでない」
いわれのない転校生の言動と共に、教室内がザワつき始めた。周囲からの批難の視線。僕はそんな風に彼女を見た覚えもないし、そんなやましい気持ちなど抱いてないはずなのに、どうして?
「ご、ごめん……」
気づけば、クラスメートたちの冷たい視線に晒されながら、転校生に謝っている自分がいた。
その日を境に、僕の高校生活は一転した。
交通事故により、一時的に義体を装着されたことを知らされた翌日のこと。
「おはようございます。トオルくんを迎えに来ました」
インターフォン越しで挨拶する転校生。その予告なしの出迎えに、僕は慌てて残りの朝食を口に放り込み、母親の興味を振り切るように家を飛び出した。昨日の住居侵入に引き続き、朝の電撃来訪。駅に向かう道中、訪問の理由を転校生に訊ねた瞬間、また頭の中で軋む音がした。
「わらわからの電話を無視したじゃろ」
上目遣いで睨む眼差し。その威圧感に、なぜか僕は嫌な予感を覚えた。
「そ、そんなことないよ……」
川で溺れるクレアを救出したのは昨日のこと。それにより水没して壊れたスマートフォン。着信はおろか発信すらできるはずもないのだ。
「それでも、どうにかするのが紳士の務めじゃろ!」
そう言って転校生は怒り任せにスクールバッグを振り回し、僕の後頭部を殴りつけ、何度も足蹴にしてきた。
「服が汚れるから、や、やめてよ……」
宇宙人とは言え、相手は女の子だ。加えて自身の気弱な性格も手伝い、僕は転校生に逆らえないまま、お尻についた彼女の靴跡を叩き落としていた。
「今回は大目にみてやる。じゃが、今後は何があってもわらわの呼び出しを無視するでないぞ」
有無を言わせない転校生の脅しに、僕はなぜか頷くことしかできなかった。
「深月よ、この男は、いつもこんな風にウジウジしておるのか?」
突然、電車の中でウジ虫呼ばわりする転校生に肝が縮み上がった。好きな人の前で批判されるのは流石に男として辛いし、正直、勘弁してほしい。だが「良く分からない」と言うだけで、一里塚さんの口から異性としての評価を述べられることはなかった。
それにしても過去の記憶を思い出す度に、頭が軋むように痛くなるのはなぜなのだろうか。しかも、それに合わせて彼女の性格も攻撃的に変わるのだ。
――単にムラのある性格なのだろうか?
と思っていたのだが、日を追うごとに彼女の言動は酷くなっていった。
そう言えば、治療中の体を見に宇宙船に行った時も
「もし嫌じゃなければ、その猫耳……触っても良いかな?」
可愛らしい彼女の猫耳。左耳と異なる灰色に掠れ萎れた右耳。それがとても気になり、本人の承諾を経て猫耳に触れるていると、彼女が肩を震わせた。
「…………おぬしと爺ぃだけじゃ」
聞けば、自身の歪な猫耳にコンプレックスを抱いていたらしく、それを打ち明けた途端、泣き出してしまった。その小さな頭を撫でて慰めていると、唐突に彼女がキスを求めてきた。その雰囲気に流されて彼女の唇に自分の唇を寄せた途端……また頭の中が軋み、同時に頬を引っ叩かれた。
「たわけっ! 何で、おぬしごときに慰められなければならんのじゃ!」
決して悪い雰囲気ではなかったはず。……なのに、数秒前とは違う真逆の態度に、僕は驚きを隠すことができなかった。
起伏の激しい彼女の言動は、その後も度々続いた。
再生体に捕らわれた猫耳彼女。殺されたと勘違いをした僕は怒り任せに化け物となった自身の分身と戦い……死闘の末、地球へと生還したのだが
「嘘だよね……嘘だと言ってよ、保子莉さん!」
勇気を振り絞り、一里塚さんに打ち明けた愛の告白。その結果、相思相愛となったのだが……彼女の早とちりによって、それら一切の記憶が消し飛ばされてしまったのだ。
「何で、そんなことしたのさっ! 僕が告白したはずの記憶が消えたなんて信じられないよ!」
すると彼女は自慢の黒髪を断髪し、頭だけとなった僕に土下座した。
「……取り返しのつかぬことばかりして、本当に申し訳ないと思うておる。こんなことでトオルの腹が癒えると思うてはおらんが、今はこのような戒めしかできん。…………これでどうか怒りを収めてはくれまいか?」
「髪を切ったくらいで、ぼ、僕の告白が元に戻るわけがないだろっ!」
切り落とした黒髪を握りしめて猛省する彼女に、僕はありったけの怒りをブチまけた。好意を抱いていた一里塚さんに告白を受け入れられた矢先、誤ってその記憶を消去されたのだから当然だ。が、親友長二郎に悟らされ、彼女の罪を許すことにしたのだ。すると
「頭だけとは、何とも気持ちの悪いヤツじゃのぉ」
頭の中で軋みをあげた途端、彼女が言い放った心無い言葉に、気持ちが圧迫された。行動と伴わない彼女の真意が理解できず、頭ん中が絡む糸のようにごちゃごちゃになっていた。不可解な彼女の言動。
それでも僕の心は、なぜか彼女から離れようとしなかった。
翌日。あらためて屋上で一里塚さんに告白したのだが……残念ながらフラれてしまった。そして失恋したその日の帰り道。自ら『代理彼女』を名乗り出た彼女に、僕の心は高揚した。が……
「なぜ、わらわがおぬしのカノジョなどにならねばならんのじゃ」
ブレる彼女の発言。矛盾する相手の態度に、僕の脳は理解が追いつかず、悲鳴のような軋みをあげていた。
そんなことを繰り返し、6月になった頃。
身体能力がガタ落ちした僕の体を案じた彼女が、リハビリ外惑星旅行を提案してきたのだが……そこでも、やはりと言うべきか、彼女のおかしな言動は落ち着くことはなかった。
そして海賊に妹智花を誘拐された時のこと。
制御不能に陥った宇宙船から、妹と僕を逃す彼女。そのおかげで僕たち兄妹は命拾いすることができたのだが……肝心の彼女は未だ墜落船の中。僕は宇宙船に残った彼女を救おうと、ライドマシンで浮遊島から飛び降りた。命を落としかねない無謀なスカイダイビング。……が、彼女の段取りにより、取り越し苦労に終わった。
地上へと降下するライドマシンの上で、彼女は助けにきてくれたお礼とばかりに、僕の頬にキスをしてきた。
「これは心配をかけさせてしまった、お詫びじゃ」
柔らかい彼女の唇。悪い気はしなかった。
――もしかして保子莉さんは、僕のことが好きなのだろうか?
背中を向けてライドマシンのハンドルを握り直す彼女に、恋愛感情のようなものを抱いていると……また頭が軋んだ。
「ひとりで落ちて、死んでしまえば良かったのに」
背中越しに呟いた彼女言葉。吹き荒れる強風の中だ。きっと聞き違えたに違いない。と、自身を納得させる僕がいた。
7月末の夏休み。
一里塚さんの親戚が管理するキャンプ場へ行った時のことだった。
僕が一里塚さんに対する想いを引きずって一喜一憂する度、心無い言動を容赦なく浴びせてくる彼女。何かと役立たずだのクズだののキツい言葉で攻撃してきて、僕の胸に針を突き刺さしてくる。好きな人の前で浴びせられる罵詈雑言。とてもじゃないけどメンタルが保たない。それなのに、なぜか僕は普段と変わらず周囲と交流していた。日頃から卑下されていたせいか、僕自身も慣れっこになってしまったのだろうか。もし仮にそうだとすれば、僕の感情がどうかしているのか、もしかしたらマゾなんじゃないかとさえ思えてくる。
結局、再生体に一里塚さんを奪われ、僕は告白することなく、二度目の失恋を味わった。
「死ねば良かろう」
浜辺でひとり落ち込んでいるところへ、投げられた彼女の言葉。その直前に発した「覚悟のある者とない者の差」の話と一致しない言動。彼女がおかしいのか、それとも僕の感覚がおかしいのか。もう、何が何だか分からなかった。
夏休みも残りひと月を切った8月。
惑星ンカレッツアで、配達の手伝いをすることになった。バイク免許取得の費用を稼ぐためのアルバイトだ。雇い主の彼女との接触はほとんどなく、作業報告を含めた通信会話のみ。それだけに時折、垣間見える彼女の他愛のない仕草や優しい言葉に、心踊る日々を過ごしていたのだが
「画面越しとは言え、こうしておぬしに見られているかと思うと、吐き気をもよおすわい」
先ほどまで、純真な男心をくすぐるモーションをしていた彼女。それが突然汚物を見るような眼差しを向けていた。
現実味のない記憶。なぜ、このようなことを言われたのか僕には理解できなかった。
夏休みも終わり、新学期が始まった。
まだ残暑が厳しい9月下旬。高校行事の目玉である文化祭『のべ河祭』が行われた。高校生活において生徒たちの自主性が発揮される一大イベント。僕ら1年D組の出し物は定番とも言えるメイド喫茶にアレンジを加えた『ネコミミ喫茶』となった。
「保子莉さんが用意してくれたこの衣装セットかわいいね!」
「ビックリするくらい、思った通りに動くんだけど!」
「どんな仕掛けか分からないけど、コレ最高に楽しい!」
自分たちで作ったメイド服を着用し、彼女の用意した猫耳と尻尾を装着するクラスの女子たち。開店前からスマホで自撮りした写真や動画をSNSに上げての大騒ぎ。装着者の感情に合わせて動く猫耳と尻尾。そのリアルアイテムに女子たちが盛り上がる度に、仕切りを隔てた厨房内の男子たちの関心を引いたのは言うまでもない。
「まるで本当の猫ちゃんになった気分だよ」
猫耳と尻尾を動かして嬉しそうに笑う一里塚さんに、提供者の彼女が小さな胸をこれでもかと言うくらいに反らせた。
「しかも普通の飾りと違って、可愛さ200%増しになるからのぉ。期間限定のコスプレじゃが、存分に我ら猫族を堪能すると良いぞ」
ドヤ顔を決める彼女に「うん。そうするにゃ」と言って招きネコポーズを決める一里塚さん。
「これで文化祭の間は大手を振って、この格好でいられるわい」
猫耳彼女の宇宙人事情を知るクラスメートは僕と長二郎、そして一里塚さんを含めた3人だけだ。それだけに一里塚さんに共感されたことが嬉しかったらしく、彼女も天然の猫耳と尻尾でもって喜びを示していた。
「まいどありー!」
体育館で行われた演劇部主催の『美女と野獣』を観終えた後のこと。僕と彼女は体育館から脇道を抜け、屋台が立ち並ぶ正門通りを歩いていた。
「ふむ。バニラを選んで正解じゃったな」
手の中でクルクルと三角コーンを回してソフトクリームを舐め取る彼女。赤い舌先が渦巻くクリームを掬う度に、僕の食欲の虫も疼き始めた。
――僕も買えば良かった
そんなことを考えていたら、彼女と目が合った。
「トオルも食べてみるか?」
と、食べかけのソフトクリームを僕の口元に寄せてきた。彼女の舌の熱で少しだけ溶けたアイスクリーム。しかも表面を満遍なく舐めているため、口のつけていない箇所が見当たらない。
――どうしよう、どこを舐めても間接キスになってしまう
食べ物のシェアなど家族でしかしたことがないだけに、僕の心臓はだらしないほどドキドキ跳ね上がっていた。
「もしかしてバニラはキライか?」
尻尾をおもむろに振り、小首を傾げる彼女。見れば、間接キスなど気にするような素振りもなく、むしろ当たり前のような表情をしていた。
「いや、そ、そんなことないよ」
動揺を隠しつつ、差し出されたアイスを舌で舐める。食べ慣れているはずの乳製品。だが、この時ばかりは格別なほどに甘く感じた。
「どうじゃ、美味しいか?」
「うん」と口の中で溶けるクリームを味わっていると
「もう一口食べても良いぞ」
屈託のない笑顔でソフトクリームを突き出す彼女に戸惑いながらも、僕は白いクリームの山にかぶりついた。
「あっ! こらっ! そんなに食べたら、わらわの分が無くなってしまうじゃろ!」
ガシッと彼女におデコを押さえられ、目の前のソフトクリームが遠退いていく。
「もう!」と笑いながら怒る彼女に、僕も笑いながら「ゴメンゴメン」と謝った。
「まったく。わらわの手まで食われるかと思ったわ。まぁ、男らしい食べっぷりじゃったから、許す」
そう言って、彼女は歯型が残ったアイスに口をつけた。食べ物の共有。そのシチュエーションに、僕の心臓は踊り狂うほど高揚した。
――こういう関係もありかもしれない
親子や兄妹とは違う安心感と信頼関係。そんな安堵感に心を和ませていると……頭の中が軋んだ。
「おぬしの食べた後じゃと、マズくてしょうがない」
不意をつく彼女の思いがけない言葉に、視界がぐらりと歪み、一瞬だけ脳が混乱した。
「何を、そんなにニヤけておるのじゃ?」
気づけば、笑顔の彼女が目に映った。錯雑した思考の中で、僕も気持ちを悟られないように「いや、何でもないよ」笑い返していた。
10月には地元主催の秋祭りが行われた。
会場は母校である中学校近くの神社だ。普段はほとんど人影など見かけない家の前の通り。だが、この時ばかりは人の往来も多くなる。家族連れや友達同士。そして仲の良い恋人たちが、茜色の夕陽に照らされながら祭囃子に誘われるように歩いていく。
もちろん僕だって保子莉さんとお祭りに行く約束をしているし、知らない他人から見れば立派なリア充だ。美人で可愛い彼女。もし中学時代の同級生たちが見たら、さぞかし羨むことだろう。
――長二郎も、エテルカさんを連れて来れば良かったのに
土日になると、決まって恋人エテルカさんの元へと旅立ってしまう親友の行動。
――いったい宇宙で何をしてるんだろ?
理由を聞いても教えてくれず、「まぁ、そのうちな」と濁していた長二郎。きっと宇宙デートを満喫しているのだろう。もちろん僕も宇宙に行きたいけど……保子莉さんが地球にいる以上、そうもいかない。
――その点、クレアは残念だなぁ
「私もトオルさまとぉ、お祭りに行きたいですぅ!」
涙目になって駄々をこねていたのは先週のこと。だけど仕事の都合により、宇宙の顧客のもとへ飛んでいってしまったのだ。
――可哀想だから、何か、お土産でも買っておいてあげようかな
何を買ってあげれば喜ぶかな。子供に人気のアニメキャラのお面か。それとも水風船や金魚とかのほうが良いかな? などと、隣家の前で、神社に向かう人たちを漠然と眺めていると
「お待たせじゃ」と背後で声がした。
玄関の鍵を閉め、下駄を鳴らして門扉を閉じる彼女の浴衣姿に、僕は目を奪われてしまった。筋柄模様の入った紺の浴衣と赤い帯。手には帯とお揃いの巾着袋。正直、大人っぽく綺麗だと思った。その和服姿に見惚れていると、彼女が両袖を広げてくるりと回った。
「どうかのぉ、似合っとるかのぉ?」
照れと不安がおり混ざる彼女の表情に、僕は笑顔で答えた。
「うん。最高に似合ってるよ」
もっと気の利いた言葉で、艶姿の彼女を飾りたかった。でも不器用な僕にはこれが精一杯だった。だが、それでもは彼女は嬉しそうに笑った。
「褒めてくれて、ありがとじゃ」
と満面な笑みで返してくれた途端……頭痛と共に、視界がボヤけ、彼女の顔が見えなくなった。
「おぬしに見られていると思うと、寒気がするわい」
そして、次の瞬間
「ほれ! ボーッとしとらんで、早よ、行こうぞ」
「そんなに急ぐと、転ぶよ」
下駄をカラコロと鳴らし、先に立って歩く彼女の背中を、僕は嬉しそうに追いかけていた。
11月下旬。
今年も残りひと月となった頃。
その日、僕は担任の笹倉先生に呼び出された。
生活指導室で担任と向き合う放課後。場面的には禁断の課外授業を連想しがちだが、実際は取調室における刑事と容疑者の絵面といっていいだろう。
「そう。何も知らないのね」
「お役に立てず、すいません」
すると机を挟んだ笹倉先生が、窓から差し込む斜陽を見つめながら言う。
「芝山田の親御さんに訊ねる前に、あなたから事情を聞こうと思ったけど……何も知らないのでは仕方ないですね」
フゥと、ため息をつく担任。笹倉先生が心配しているのは、ここ最近における長二郎の生活態度のことだ。遅刻や欠席が目立つようになり、成績も少し落ちていることは僕も知っていた。
原因は週末の度に宇宙でエテルカさんと会っているからだ。それでも最初の頃は、眠い目を擦りながらも月曜日の朝には地球に戻って来ていたのだが……ここ最近にいたっては帰星が月曜日の午後、もしくは欠席することが多くなっていたのだ。そのダラけっぷりに僕も心配になり、先週、長二郎に苦言を呈したのだが
「悪ぃ悪ぃ。今度っから、ちゃんと月曜の朝までには帰ってくっから」の一言であしらわれてしまったのだ。
「先生。僕からも本人に注意しておきますから、ご両親に伝えるのは、もう少し待っていただけませんか?」
すると、笹倉先生は瞠目し
「敷常。入学当初は女々しい生徒かと思っていましたけど……気づかないうちに、ずいぶんと頼もしくなりましたね」
感心する先生に、僕は小学生のように照れてしまった。実際、この半年間を振り返れば、命懸けの死闘や駆け引きなど、普通の高校生が体験できない様々な経験をしてきたのだから、そう思われても不思議ではなかった。逆に、もし保子莉さんと出会ず、安穏と過ごしていたならば、きっとここまで変わることはなかっただろう。
「いいでしょう。もうしばらく、芝山田のことはあなたに任せるとします」
そう託され、対談は終了となった。
――ちょっと厳しことを言うようになるけれども、長二郎にビシッと言わなきゃ
もう中学生とは違うのだから、高校生としての自覚を持って行動してもらいたい。と親友の更生を考えながら、第一校舎から第二校舎へ続く渡り廊下を歩いていると……思いがけない状況に出くわしてしまった。
「アンタが時雨保子莉?」
校舎の裏庭から聞こえてきたその名前に僕は歩みを止めた。
「へぇ~。ケンジのヤツ、この一年にフラれたんだ」
「ケンジも女を見る目がないよね」
上履きのまま裏庭に出て声のする方を覗き見れば、先に帰っているはずの彼女が、三人の女子生徒に囲まれていた。
――こんなところで、何してるんだろう?
漂う険悪なムード。その不穏な空気を察し、僕は慌てて校舎の陰に隠れて耳をそばだてた。
――ケンジって誰だよ?
隔てた壁際から聞こえてくる知らない男の名前にモヤモヤしていると
「アンタさぁ、ホントにケンジのこと、何とも思ってないの?」
彼女に詰め寄るリーダー格の女子生徒。胸元の水色リボンから、相手は二年生だと分かった。
「別に、何とも思いませんでしたけど」
相手が上級生ということもあってか、普段使っている「のじゃ」語尾を付けずに言葉を返す彼女。TPOをわきまえた対応。だが、その臆さない態度が気に入らなかったのか、もうひとりが不愉快そうに片眉を吊り上げた。
「可愛げのない一年だね」
すると、もうひとりも鼻で笑う。
「なんでケンジも、こんな一年に惚れたんだろう?」
一見すれば静かなやりとり。だが、場の空気は最悪なくらいギスギスしていた。
「ケンジは、ちっちゃい子が好きだからね」
「えっ、ウソ! ちょっとロリコン入ってるかなとは思っていたけど、あいつ、そんな性癖があったの?」
「それって犯罪じゃん。誰か通報してあげなよ」
盛り上がる自分たちの会話に、嬉々とする上級生。そして……
「まぁ、冗談はともかくとしてさ、あたしたちも、落ち込んでるケンジが可哀想になっちゃってさ、こうしてアンタを呼び出したわけなんだけどさぁ」
年上という立場を利用して威圧する上級生の態度に、少しだけ苛立ちを感じた。
――良く分からないけど保子莉さんはちゃんと断ったんだから、あなたたちが出てくる必要はないだろ
と、彼女に絡む上級生たちを不快に思っていると
「私に対するナカノケンジさんの想いは尊重します。けど……」
そして、彼女は言い切った。
「だからと言って、無関係な先輩方にとやかく言われる筋合いはないと思います」
一瞬にして僕の背筋と、上級生たちの表情が凍りついた。年上相手に対し、正面切っての否定。傍観していた僕のほうの肝が縮み上がったくらいだから、当の上級生たちは、ことさら面白くはないだろう。
「ふーん。まぁ、あんたの言うとおり、確かにあたしらは関係ないんだろうけどさ、でも一回くらいデートしてあげてもいいんじゃない?」
すると別の上級生も同意する。
「自殺しそうな顔してたし、せめて一回くらい寝てあげないとね」
「そうそう。減るもんじゃないんだしさ」と、もうひとりが無責任に煽っていた。
大人びた顔立ちで性的行為を押しつける上級生たちに、僕は嫌悪した。少なくとも僕の知っている彼女は、そんな軽い女の子ではない。すると保子莉さんは涼しい顔をして上級生に言い放った。
「ナカノケンジさんが不憫と思うのでしたならば、先輩たちがお相手してあげてはいかがですか?」
――そこでケンカをふっかけちゃ、マズいよ!
相手の反感を買う言葉に、僕の肝はノミの心臓にまで縮み上がった。同時に上級生たちから余裕の笑みが消えていく。
1対3。暴力沙汰になれば、体の小さい彼女が敵うわけがないのだ。案の定、リーダー格と思しきひとりが「フザけたこと言ってんじゃないよ!」と、彼女の肩を乱暴に突いた。
「ちょっとカワイイからって、調子に乗ってるんじゃないよ」
彼女を校舎の壁に押しつけて威圧する上級生。壁ドンに加え、逃げ場を塞ぐようにして二人が保子莉さんの両隣を埋める。女同士のケンカは男以上に陰湿だと、長二郎から聞いたことがある。それだけに、このまま黙って見過ごすわけにもいかなかった。
僕は校舎内へと踵を返すと声量を振り絞り、その場にいないはずの親友の名前を叫んだ。
「おーい、長二郎ぉー」
通りすがりの第三者の気配に、上級生たちはどんな反応をしているのか。相手の行動心理を考えながら、渡り廊下から裏庭に足を付け、迷子の子猫を探すように一人芝居を続けた。
「こっちかな?」
わざとらしく声を出し、ゆっくりと近づく。果たして演技力ゼロの僕の声が、どこまで通用するのか。
「おーい、長二郎。笹倉先生が生活指導室で待ってるよ」
不意に思いついた出まかせ。実在する教師と生活指導と言う教育ワード。安直だが抑止力はあると思っていた。そして、そのまま校舎の陰から保子莉さんたちがいた方へと足を伸ばす。
「おーい、長二……」
そこで僕は演技をやめた。なぜなら、すでに上級生たちの姿はなく、彼女ひとりだけだったからだ。
「保子莉さん、上級生たちは?」
周囲を警戒しながら訊ねると、彼女は不機嫌な顔でもって、校舎裏の脇道を指で示した。
「おぬしの声に気づいて、退散しおったわい。しかし……覗き見しとったとは、あまり良い趣味とは言えんのぉ」
女の子同士の修羅場に、首を突っ込む気はなかった。だが上級生の態度がどうしても我慢できなかったのだ。
「まぁ、トオルのおかげで助かった」
彼女は安堵の息をひとつ吐くと、校舎に向かって歩き出した。
「保子莉さん。ケンジって誰?」
彼女の横に並んで、気になる男の名前を僕が口にすると、彼女が「何じゃ、妬いておるのか?」と笑った。
「べ、別に妬いてなんかいないさ。ただ、誰なのか知りたいだけさ」
すると彼女は「遠慮無く妬いても良いのじゃぞ」と一笑して、事の顛末を話してくれた。
「実は先日、わらわの下駄箱の中に手紙が入っておってのぉ」
二年男子であるケンジからの招きにより、先ほどの場所で告白を受けたそうだ。あとは聞くまでもない。ケンジの失恋に対し、女友だちが真意を知ろうと彼女を呼び出し、現状に至るのだが……気になるのはケンジがどんな男であり、どう断ったかだった。
「別に普通の男子じゃったし、わらわも普通にゴメンなさいと申したまでじゃ」
隠すこともなく素っ気なく説明する彼女の横顔を見ながら、僕は安堵と同時に、少しだけヤキモキした。いったいケンジは保子莉さんをどこで知り、どこに惚れたのだろうか。
――もしかして、ほかの男子からも告白されているのかな?
不意に湧いた疑念。美人で可愛い彼女は、僕からしてもモテる存在だ。それだけに他の男子たちが放っておくはずはない。
――今まで、何人くらいの男に告白されたんだろう?
いるはずのない男の影に、感じたことのない独占欲が湧いてくる。彼女の秘密をもっと知りたい。だが空気の読めない流石の僕も、そこまで野暮な質問はできなかった。
――もし、好みの男が告白してきたら……保子莉さんはいったい、どうするんだろう?
同時に顔の見えない異性に、頬を染めて頷く彼女の姿が脳裏に浮かび、モヤモヤする気持ちが膨らんだ。
――ありえなくはない
リアリティーが欠如する妄想に、胸をくすぶらせていると、いつの間にか教室に着いていた。
「何をボーッとしておる。早よ帰ろうぞ」
ほれほれ。と、いつものようにスクールバッグを肩から下げて背中を押す彼女に、僕の心は綻んだ。が……
「どうして、わらわがおぬしのようなヤツと一緒に帰らねばならんのじゃ」
頭の中が軋みを上げた途端、彼女が背中越しでそんな言葉を発していた。





