お菓子
「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」
という中世ヨーロッパについて少しでも知っている方々には爆弾あるいは長考の原因となる言葉を先に置いておくことでこのページのお守りにしたいと思います。このページには錯誤があります。
中世ヨーロッパにおけるお菓子とは時代によってかなりの幅があり、ただ蜂蜜や砂糖でナッツをコーティングしただけの砂糖菓子、そして塩気のあるチーズといったあまり洗練されていないものから、中世の中で時代が進んでワッフル・タルト・スポンジケーキ・ドーナツといった今日に伝わるお菓子はこの頃からのものである。そして現代に見られるようなお菓子という文化が始まったのもこのヨーロッパにおける中世時代ごろのことである。
お菓子に限らず甘味という概念ならば、産地近くであれば果物の生食、遠ければ乾燥・砂糖漬け・ジャムといったように防腐加工を施されて輸送されていた。
意外かもしれないが、砂糖は塩と並ぶほどに優秀な防腐効果を持つ物質である。塩とは浸透圧の差によって水分活性(小難しい専門用語なので素材の水分量とでも思えばよい)を低下させることで微生物の繁殖を防ぎ、防腐効果をもたらす。つまり微生物から水分を奪って生きられないようにするのである。砂糖も同じ作用を持っており、こちらも同じく浸透圧の差により微生物から水分を奪って微生物の繁殖を防ぐ。例えるのならナメクジに塩といったところだろう。砂糖でもナメクジは縮んでしまう。
防腐効果を狙ってのものかはわからないが、経験的に乾燥させたり砂糖を入れることによって腐りにくくなることは知られていたようである。砂糖は甘い防腐剤だったのである。
甘い防腐剤。コンサルタントが好むような事実を誇張した言い回しやプレゼンテーションか何かだと思うだろうか?だがこのページの主題である。
古代ローマには酸っぱくなったワインを甘くする方法があった。ワインを鉛の鍋で煮るのである。そうすると酸っぱいワインも甘くなり、非常に美味しくなった。さらに煮詰めることで得られるサパというシロップは大変に好まれ、ワインの甘みを足したり果物の保存に使われていた。防腐効果もあるため使い勝手のよい甘味料でった。
この魔法のようなサパという甘味料、その正体は酢酸鉛という。酸っぱいワインに含まれる酢酸が鍋から溶け出した鉛と結合することによって生成される。もちろん鉛である。鉛中毒を引き起こすため現代においては使われていない。
古代ローマ皇帝は皆、奇行をとったため、鉛中毒によって精神病でも患っていたのではないか・・・などといった説も唱えられた。使われていた水道管には鉛コーティング、皿も鉛、とにかくサビ止めとして色んなところに鉛を使っていたため、後世発見された死体からは大量の鉛が含まれていたことが確認されている。そのせいかは知らないが、古代ローマ人は平均で25歳まで生き、30歳を超えることは稀だったようである。
酢酸鉛はその防腐効果のためにワインに添加されていた時代もあった。後出しだが「水」ページにおけるワインが水より清潔である根拠はこれが一つ。たしかにワインは明らかに水からの感染症は防ぎ得る。ただし代償は鉛中毒となる。
この甘い防腐剤であるが、当時の料理レシピには人気の調味料であり、様々な料理に含まれていたことになる。検索サイトで検索してみれば古代ローマの食べ物というくくりになるため中世ヨーロッパとは少し違うと思うかもしれないが、酢酸鉛を防腐剤としてワインに添加するのは中世には行われていた。
つまるところ、現代から中世ヨーロッパ風異世界に転生・転移した主人公がこの防腐効果を持つ甘い調味料を使ったワインやお菓子を食べることで、そうとは知らないうちに鉛中毒になってしまうおそれがある。しかも上流階級・裕福であればあるほどそういったものを食べる機会が多くなるため、貴族に転生して領地経営となればまず鉛中毒は逃れられない。
主人公の死にざまは鉛中毒によって難聴、貧血、歩行障害や精神障害といったものに見舞われることになる。そして鉛は母体から胎児へと移行する物質であるため、貴族の系譜である以上本人を含めて子孫は代々短命のものになってしまうだろう。
母からの鉛中毒で主人公が転生したときにはもう手遅れ、次の世代に害を残さないため奔走するという物語になってしまうかもしれない。これを防ぐのなら主人公が転生してすぐ、技術が独占されているはずの陶器の皿を作り始めたり、貴族の使う品としては下賤な木製の食器を使うことになる。ワインを飲まず、干した果物以外は甘味を食べられない。そんなことになれば、中世ヨーロッパ風の異世界を描写する上で必要になる食生活の様子が全く見られなくなるような事態になってしまう。
食事という面に限ってのみこんなに頭を悩ませることになるのだから、生活に浸透してしまった鉛の使用を取り除いていく描写をするのは並大抵のものではない。だからといって酢酸鉛の使用をやめてしまえばワインで感染症を防ぐという中世ヨーロッパ風の描写もできなくなり、あっちを立てればこちらが立たずとなってしまう。考えれば考えるほど面倒なテーマなのである。
今回は執筆にすごく手間取りました。ワインが清潔であるという根拠との兼ね合い、お菓子の歴史そのもの、鉛の毒と関連させて書かなければならず、その関係で書きたいことをいろいろ削ったりしました。
「キリストって人は季節外れにイチジク食べたいとか理不尽なこと言っておいて、実が成ってないからってイチジクの木を呪って実が成らないようにしてしまうとかどんだけ甘味に餓えてたの」とかそういうことです。
指摘がありましたので注釈。
古代ローマにおいて鉛製の水道管はごく一部で、他は全て石製だったようです。日本でも昭和に鉛製の水道管が使われていましたが、健康被害の報告が見つけられなかったこと、鉛の特性から水道管としては比較的安全なものだったという反論もあることから鉛製の水道管が鉛中毒の原因ではなかったかもしれません。