人権
まず人権とは何か、その複雑ながら短い歴史を説明しようと思う。
現代において人権とは、人が生まれながらにして持つ健康・自由・財産の権利であるという意味と、憲法に規定された権利の意味を持つ。
その歴史は短く、実際に国際的に人権を守ろうという活動が始まったのは1980年代以降、わずか30~40年前のことである。それ以前には1966年に国連において法的な拘束力を持つ国際人権規約が採択されていたが、活動が始まるまで15年の月日が経っている。
遡れば、古代ギリシャでは人間が自然に持つもの、同時代キリスト教においては神に与えられたものであるという考え方であった。ただしこの人権というものは自然権というあくまでも人間が普遍的に備える権利のことであり、法的に規定されていたり、保護されるという性質のものではなかった。
それから自然権は神に与えられたもので、果たすべき義務と同一のものであると考えられてきた。キリスト教の聖書にも記述がある。働かざる者食うべからずと訳される記述だ。
そして中世の時代が終わって17世紀、ルソーによる社会契約論によって王政、君主、封建制を中心にして存在した自然権は自由で平等な自分を守る権利であると解釈された。だがこれは同時に全ての人と人との闘争を招きかねない思想であり、ルソーはこの保護を国家に求めた。そして同時に、自然権は神から離れた。
あくまでも自然権に限った議論であり、ここから発生した人権という概念はまだこのとき存在していない。
1775年アメリカ独立戦争の最中には、イギリスからの圧制へのカウンターとして「天(神ではなく生まれながらにしての意)から付与された人権」を掲げ、基本的人権について言及したアメリカ独立宣言を採択した。
しかしまだ世界的には人権は受容されるものではなかったし、日本ではまだ徳川治世の江戸時代である。後の時代、世界大戦においても「鬼畜米英」「黄色い猿」と罵りあっていたし、国家社会主義ドイツ労働者党いわゆるナチスを始めとしたドイツはユダヤ人に対して民族絶滅ともいえるホロコーストを行っている。
いや、もしかしたら現代でも人権という概念はあっても保護はされていないかもしれない。
とある書籍の作者が某国人を中傷する内容の文章が発見されてアニメ化中止になってしまったり、男が男を女が女を好きになることを禁忌とする思想や宗教があったり、無理矢理に結婚させられてしまう子供がいたり、人が普遍的に保護されるべきであると考えるはずの権利は都合よく否定され、また肯定される。
国家間の殺人である戦争は起きているし、究極の権利の侵害である死刑・国家による殺人は未だ数多くの国で採用されている。
筆者は別に人権派であるとか、特定宗教を嫌っているとか、とある国を嫌い・好きであるという前提でこの話を書いているわけではない。大事なのは中世ヨーロッパ風異世界において、人権とはどういう扱いであるか、なのである。しかしここまで散々書き連ねておきながら筆者は大学で人権という専門的な知識について学んだわけでもなく、生兵法である。それを許してもらいたい。
中世ヨーロッパにおいて、人権とは存在すらしない概念である。
キリスト教によって「神から付与された権利と義務」という自然権の形で存在していたものの、これは無知蒙昧な大多数の民とっては無関係であったし、封建制によって君主、領主が民の命をどうしようとなんら問題はなかったのである。
中世ヨーロッパにおいて民はどういう扱いをされていたのか、いい例がある。血の伯爵夫人、吸血鬼伝説のモデルにもなった中世貴族、エリザベート・バートリである。
彼女は戦争で留守がちな夫の愛を埋めるように、男女問わず複数の愛人と関係を持ち、また夫との関係も良好であったという。この時点で既に現代人の倫理観からは逸脱している。貴族とはこのような行いが常だったのであろうか。
そして召使に虐待を加えることを楽しみとし、次第にそれがエスカレートしていったようだ。若い娘の血を浴びることで若さを保つことができると考えた彼女は、領民を次々と誘拐し、湯船を血で満たすほどになった。拷問を繰り返し、それについて説明した文字を目で追うだけで気分が悪くなるようなことを行っていたようだ。
これらの残虐行為はのちに権力闘争によって敵がでっち上げたものではないかという説も出たが、拷問を手伝った召使、そして一族からも証言が出ていることから今では事実無根のことではなかったと考えられている。
彼女が行った拷問は聖職者の耳に届いており、王家ですら噂される事態となっていたが、貴族家の名誉を忖度し、公表されることはなかった。それが一転したのは貴族の娘が誘拐され、そののちに監禁されていた娘の一人が脱走したことから捜査の手が入った。
このような行いは容認されるようなものではなかったにしろ、領主が領民に何をしようとも眉を顰める程度で、貴族令嬢が毒牙にかかりようやく明るみに出るようなことだったのである。つまり、民の命は貴族の名誉と比べるべくもないぐらい軽いものであった。また貴族全体にこのような風潮があったことはいうまでもない。
少年十字軍という言葉のみで察する方々もいるかもしれない。これは13世紀、十字軍に参加するため3万人もの子供たちが集ったが、善意を装って近づいた商人が騙し、奴隷としてエジプトへと売られてしまう結果になった。
よく主人公は「悪人に人権などない」といって盗賊や殺人者を皆殺しにしてしまう。しかし、それは善人にも同じことがいえる。善人にも人権などない。
実際問題、中世ヨーロッパにおいて盗賊や殺人を犯した者に対しては遺族に十分な和解金を支払うことで許されていたようだ。法は民のために存在するものではなく、裁判官もそうであったためこうした慣習によって秩序が保たれていたのだ。
殺された人間の家族にとっても死んだ人間は金である。ドライだ。
こうした時代にあって、人権という思想は中世ヨーロッパ風異世界には不可欠な存在、王政とは真っ向から対立する。また中世ヨーロッパにおいて民はとても気性が荒く、地元領主とは良好な関係を保っていたことが多かったものの、王家へは反発して反乱を起こすことが多々あった。もし人権という思想が概要だけでも民に伝わってしまえば、そこからは反乱の発生、果ては王家の絶滅や貴族家の処刑によって革命が起きる可能性がある。実際に丁度100年前、人権が形を変えた労働者の権利を掲げるロシア革命によって、ニコライ皇帝一家は絶滅された。それからはソビエト連邦が成立し共産主義が民を支配した。
そうなるともはや中世ヨーロッパ風異世界という枠組みは意味を成さない。思想は一気に近代化してしまい、物語の終わりは始まってすぐ来てしまう。
中世ヨーロッパ風異世界を表す奴隷制も似たようなものである。奴隷制は既得権であり、奴隷を使っている身分の人間とも対立する。まともな意識を持った人間なら奴隷を見かければ義憤に駆られることだろう。そうして身を滅ぼす。
人権などというものは王政下ではテロリズムを誘発する危険思想に他ならない。またその思想を始めた人物は誰であるのか、すぐ調べられるだろう。そしてその人物は、主人公は反逆の罪で処刑される。
また人権思想は歪んだ形で日本人中高生の心の中に植え付けられている。自分たちは自由だ、何物も自分を縛ることなどできないというアレである。ちょっと違うが中二病が近いか。
異世界転生・転移を行うのは今や盛りを過ぎて、ある程度分別がついてそうした人権思想がなくなったオッサンばかりになっているが、もし中高生が異世界転生・転移を行ってしまえば容易に人権思想を唱える。俺は自由だ!と。よくあるイベントである、王や貴族との謁見でそのようなことを口走ってしまえばその後どうなるかは目に見える。
人権など存在しなくとも個人の武力で物事を解決できるような物語ならこの問題はなんら意味を持たない。権利とは根本的には武力によって保障されるものであるからだ。ただしその場合、王政の存在は怪しくなってしまう。王家に圧倒的な武力が存在しなければ武力を持った個人によって簒奪され、国が瓦解してしまうのだ。
圧倒的武力の象徴たる魔法やステータス制による強者を身の周りに置いて、王も個人で圧倒的な武力を持つ非常に筋肉的な世界観。強すぎる主人公はこうした筋肉的な世界観においてはよく馴染むものであるが、ギャグ調の作品になってしまうのは避けがたい。人権ひとつ取り上げても主人公の命は脅かされるし、世界観まで変わる。この調整はシビアである。
以前の更新から他の物語を書いていたために日が開きました。
異世界は地雷が多すぎます。よく生き残れますね主人公たち。
亜人やゴブリン、オーク、オーガという種族も野蛮な国やその民族であるという設定と親和性が高く、実際英語圏では「緑肌野郎!」という罵倒語があります。そのため人権意識が高い人たちによってファンタジー作品は移民を迫害する内容だとか、未成年を守りたい人たちによって真似したらどうするんだという物言いがついたりします。
筆者の短い人生ではそういう人たちと関わりを持っていないものですから、幸か不幸かそういう人たちの気持ちは理解できません。
そして全く関係ないですが明日11月9日は1109でいいオークの日です。いいオーク、最近は女騎士に逆レかまされるばかりのオークさんです。