第3話【化け物】
──しまった──
パニックになった時の叫びが、聞こえてしまったか──!
化け物は、トラックの荷台の上から、野上達を見下ろしている。
野上達も、化け物を見上げている。
それは、時間にすればほんの数秒だったのだが──野上には、ひどく長く感じられた。
化け物をよく観察する。
頭を少し左に傾け、視線は、どこを向いているのか分からない──というより完全に白目を剥いている。
口の周りには血液の様なものが付着している。
時々、右半身がびくん、と揺れる。
──真島が叫んだ。
「みんな、散れ! バラバラに逃げろ!」
トラックの向こう側を指さし、佐々木の肩を叩いてから、真島はトラックの右側へ向かって走り出した。
佐々木も後を追う。
それを見て、野上は左側へ走る。
トラックの向こう側──交差点の中央を駆け抜ける。
真島が、進行方向の国道を指さし、野上に合図するのが見えた。
──あの車の列に隠れながら逃げる!
早く、車の後方に隠れなければ──
──バン!
荷台の上を、例の移動方法で飛んだ音が後ろから聞こえた。
この距離だと、一発で届く──
もう少し、あとちょっとで車に。
列の先頭には、車高の低いセダン、タクシーが停まっていた。
「うおおっ!」
野上は無意識に叫びながら、タクシーのボンネットに飛び乗る。そのまま勢いで後方へと──
ガシャッ!
真後ろ、足元で衝撃。車体が大きく揺れ、野上はバランスを崩した。
「うわっ……」
体勢を立て直せない──
野上は車の後方へは跳べず、横へと飛ばされた。
落ちながら後ろを見た。化け物の右腕が、タクシーのボンネットにめり込んでいた。
跳躍して来た勢いの為か、化け物も足で着地せず、右腕を軸としたまま、背中から野上の方へ飛んできた。
そのまま、野上はタクシーに向かって左側の車道へうつ伏せの状態で落ちた。
直後、背中に重い物がぶつかり、野上のすぐ横に落ちた。
──捕まる離れなければ──否!
この距離なら逆にあの右腕は振り回せない筈──
咄嗟に判断し、野上は化け物に馬乗りになった。
「くらえっ……」
野上は左手で化け物の「岩の右腕」を押さえ、右手に握った金槌を振り上げた。
化け物が体を捩った。ただ捩ったのではなく、左腕で反撃する為の予備動作だったのだが。
野上は構わず、金槌を化け物の額の辺りをめがけて振り下ろしていた。
金槌が命中する前に、顔面の左側に物凄い衝撃を受け、弾き飛ばされた。
「……ぐっ!」
タクシーの側面に叩きつけられる。背中を強打し、息が止まる。
化け物は左手で裏拳を放ち、野上の顔面を殴打したのだった。
その腕力もまた、人間離れしていた。
野上は自分の顎を触る。あまりの強烈な一撃に、顎から下が無くなった気がした。
──まだあった。良かっ──
化け物が、寝転がった状態から左手を地面につき、上半身だけ起こした。
腰の辺りから、右に半身を捩る。明らかに、右腕を使う為にパワーを溜めている。
──まずい!
背後はタクシー、逃げ場が無い。
野上は反射的に、右側に倒れ込むようにして伏せた。
ガシャッ!
野上のすぐ上を、岩の右腕が通過してタクシーの側面にめり込んだ。
──危なかった……あ、
野上はまだ横に倒れたまま。脇腹のすぐ上に伸びた岩の右腕が、タクシーのボディから離れた直後──
「──うぐっ」
腹部を圧迫された。化け物が右腕をそのまま下へ下ろし、野上を押さえ付けた。
「くそっ……!」
金槌を振るが、化け物の頭にはまるで届かない。
標的を変え、岩の右腕を叩く。
ガンガン、と音がするだけでダメージは与えられていないようだ。
「あっ……っあああ!」
腹部への圧力が増す。このままでは、上半身と下半身が分離するのも時間の問題──
化け物の背後に、物凄い勢いで走って来た人影が見えた。
グシャッ
化け物の頭が、右に大きく揺れた。
こめかみの辺りから、肉片が飛んだ。
その途端、腹部への力が弱まり、軽くなった。
「かはっ……」
思い切り息を吸い込んで噎せた。
──助かった……
「うおおっ!」
人影は真島だった。
真島は化け物の頭に金槌を再度打ち込む。
金槌がめり込む。強引に引き抜き、また打ち込む。
その度に、血や肉片が飛び、やがて化け物の顔はグチャグチャになった。
「はぁっはぁっ……ああ、ったく……」
返り血を拭いながら、真島が吐き捨てるように言った。
「た──助かった。あ、ありがとうございます、真島さん」
真島は数回、呼吸をしながら咳き込んで、落ち着いた。
「いやいや、まあ、アレだ。偶然だよグーゼン」
手を小さく振って否定しながら、真島は照れ臭そうに言った。
偶然で出来る事ではない、と思う。
「反対側走ってたら急にデカイ音がしてさ、見たらバケモンが野上サンの方へ行ったからさ」
ちょっと興奮して話す真島のしゃべり方は、どこか子供じみている。
「で、野上サンとバケモンが一緒に落ちてくのを見て……」
気が付くと、真島の後ろに佐々木も来ていた。
「実を言うとな。正直、野上サンはもう……ダメだと思った」
ダメとはつまり、殺されると思ったという事だろう。
──正直過ぎるだろう。
「でも、野上サンがバケモンと揉み合ってれば……チャンスだ、と思ってさ」
実際、揉み合っていた訳だ。
「あんな動きをするヤツだ。野上サンの次は俺だ、勝ち目はねぇ。だから、さ」
本当に正直な男だ、と野上は思った。
少し好感が持てた。
「だから偶然だグーゼン。ははは」
野上は漸く、腹の上にあった化け物の右腕をどかして起き上がった。
「ともかく……ありがとう、真島さん」
だぁかぁらぁ、と真島が笑いながら言った。
「まぁ、いいや。うん。とにかく……良かったよ」
まだ照れている。
照れ隠しの為か、コレ殺人罪になるのかなぁ、などと言っている。
「コレがヒト扱いされるなら、正当防衛が成り立つんじゃないですかね」
「ああ、成る程な、って法廷で争う前提じゃねぇか!」
堪えきれず、野上は笑った。
「大丈夫ですよ。ちゃんと俺が証言しますから」
「おお、それなら安心だ、っていい加減にしろよ野上サン!」
真島も笑った。
普通、笑っていられる状況ではないのだが。
「……大丈夫ですか?」
佐々木が、心配そうに野上を見ていた。
野上は、少し腹を擦って、
「ああ、大丈夫です。ありがとう。それより、佐々木さんは……」
見た目、怪我はしていない。だが……ここへ来るまでの惨状は女性には──
「あ、私は大丈夫です……でも、本当──何なんでしょうね、コレ……」
佐々木が、地面に横たわる化け物だった塊を見る。
もうピクリともしない。
「コレぁ、アレだ。突然変異したゾンビだよ。間違いねぇ」
なにがなんでもゾンビにしたいようだ。
「突然変異もなにも、まだ一般のゾンビすら見てないじゃないですか」
一般のゾンビてのはなんだよ、と真島が笑いながら突っ込んだ。
「揚げ足取らないで下さいよ、ったく」
顔面を直視できないというか見たくないので、野上は足で化け物をうつ伏せになるようにひっくり返した。
背中が少し見えた。岩の様に変質した肌は、肩甲骨の辺りにまで及んでいる。
「……ん?」
その、肩甲骨部分の中心に、小さな窪みがある。
穴、か──?
「なんだ野上サン。なんか──何だこりゃ。穴? 何か刺されたのか? まさか鉄砲じゃねえよな……」
「銃はそうそうないでしょう……あ、警察官が持ってるか。でも……ううん」
何か違うような気がする。
岩の様な皮膚を撃ち抜いた、或いは何かを刺したというより──
「元々、空いていた……?」
はあ? と真島が首を傾げる。
「そりゃどういう意味だ?」
野上は、その穴を見ながら自信無さげに答えた。
「いや、意味なんて程は俺も分からないんですけど……でも、傷というよりは何というか」
あまりやりたくないが、野上は少し顔を近付けて、その穴を見た。
その時。
「……なんだ?」
穴から──細い、【何か】が……数本、
ウネウネと。
佐々木が小さな悲鳴をあげた。
「まだ生きてんのか? コイツ……」
真島が金槌を構える。
「離れて……様子を見ましょう」
野上が数歩、後退する。真島と佐々木もそれに倣った。
穴を注視する。
細い、ウネウネとした、管の様なミミズの様なものが、穴の中から何本か這い出てきた。
ある程度──穴の外に20センチ位這い出した辺りで、もう伸びなくなった。
根元──というのか──? は、穴の中にあるらしく、それはまだ見えない。
突然、ミミズの先端が、化け物だった塊の皮膚に食い込み、硬直した。
数本のミミズが、皮膚に食い込んだ先端はそのままに、ぐい、と浮き上がる。
「何か──出てくるのか?」
真島が身を乗り出し、金槌を構える。
佐々木がじっと見詰める。
──真島の予想通りだった。
数本のミミズが引っ張りあげて来たのは──
見た事もない生物だった。
「なんだ? コレぁ……」
独特なフォルムをしたそれは、どことなく深海生物に似ている。どの種類の何て名前かは知らないが。
とにかく、地上の生物には思い当たる物がない。
身体から数本のミミズを生やし──たぶん、脚か触手の類だろう──、体長はほんの数センチ。大人の親指の爪くらいの大きさしかない。
眼の様なものは──見当たらない、というかよく見えない。
触覚の様なものが2本生えている。器用にバラバラに動いている。
口──嘴?── が真っ直ぐに伸びている。
「コレのせいで……?」
──人間が化け物になったのか?
「どうする? 捕まえるか? それとも殺すか?」
真島が生物を凝視したまま野上に問う。
「──え? 捕まえ……て、どうするんですか」
いや、研究材料に、と真島が冗談なのか本気なのか分からないトーンで言った。
「ううん……こんな得体の知れない生き物を持ち運びたく……あ!」
触手を脚の様に動かし、不気味な動きで、凄まじい速さでその生物は逃げて行った。
「ああ、逃げられちまった……」
──あれが原因か──
「寄生虫、か何かですかね……」
生物が逃げて行った方向を見ながら佐々木が言った。
「寄生虫? ううん……じゃあアレは、宿主が死んだから、出て行った、のか?」
野上は考えながら、それを口に出して言った。
「寄生虫にしては、随分と逞しいな。普通、宿主が死んだら、そのまま一緒に死ぬんじゃないかな」
詳しくは知らないが、そんなイメージがある。
「それこそ、新種とか突然変異とか……」
突然変異という言葉は密かに流行しているのか。
「ううん……まあ、とにかく。行きましょう」
今、あの生物についてあれこれ考えても無駄だ。知識も情報も少なすぎる。
「早く、帰りましょう」
野上の頭の中を、息子の一馬と妻の由美の顔が過った。