第17話【予感】
由美が頭を上げると、そこには平田の妻が床に座り込み、大声で泣いている姿があった。
──平田さん……
夫を目の前で亡くし、泣きじゃくる妻──
由美にはその心中を推し測る事は出来るものの──軽々しく理解出来る、とは言えない。
自分が逆の立場だった時の事を想像すると……
「──分からないんです。うう……」
「え──?」
今まで聞こえていた平田の妻の嗚咽に急に言葉が混じり、由美は危うく聞き逃すところだった。
「今、なんて──」
「──自分でもどうしたら良いか……」
下を向いたまま、平田の妻が泣きながら乱れた呼吸の合間に言葉を発した。
握りしめた両手を膝に置き、肩を揺らしている。
「いきなりこんな事になって──ダイスケ、夫が、あんな──」
信じられないけど、と言いながら平田の妻は、ベッドの上の自分の夫を見た。
「こういう時、映画や何かじゃ……夫は死んでも──殺されても仕方なかったんです、とか言うんでしょうけど」
平田の妻はまた下を向き、首を振りながら続ける。
「そんな事──私、絶対言えない」
「平田、さん……」
勿論だと由美は思う。例え夫が化け物になってしまったとしても、殺されて当然だなどと思える筈がない。
「これだけ大勢の人が居て、何でうちの夫だけがこんな目に、とか──他に方法はなかったのか、とか思うと私──」
由美は頷き、
「受け入れられなくて当然だと思います。こんな事になるなんて、きっと──」
──亡くなった当の本人──平田さんのご主人も思っていなかっただろうな。
彼自身、何も解らないまま──亡くなってしまったのではないか……
平田の妻が、袖で涙を拭う。ほんの少しだけ、落ち着きを取り戻した様に見える。
「せめてもの救いは……最期までダイスケの意識が戻らなかったこと、かな──」
そこで平田の妻がもう一度下を向いた。
幾度か小さく頷き、平田の妻が顔を上げ、由美を見る。
「夫が化け物になってしまった事……もう、動かない、事──それは、なんとか受け入れられると思う。でも──でも、やっぱり……」
平田の妻の両目から、大粒の涙が零れた。
「あなたの旦那さん、ううん──機動班の人達を許すことは出来ないと思う」
平田の妻は、涙ぐみ赤くなった眼で真っ直ぐに由美を見た。
由美も目を逸らさず見つめ返す。
「だから私は──この小学校から、出て行きます」
他の避難場所に移ります、と平田の妻が続けた。
「そう、ですか……」
──彼女の意思は、尊重しないと──
これ以上平田の妻と話をしても、彼女の心の傷を癒すことは出来ないだろうと由美は感じていた。
──一応、落ち着きを取り戻す事が出来ただけでも良しとするべき、かな。
別の避難場所へ移動したいという彼女の意思を桜井に伝える為、由美はそっと保健室のドアを開けた。廊下には機動班と思われる男性が二人と──医師の牧村が立っていた。
牧村と目が合う。由美の表情から中の様子を察したらしく、静かに頷いた。由美も頷き返す。
由美は機動班の者に簡潔に用件を伝え、出来れば桜井にここへ来て欲しいと告げた。
素早く走って行った機動班の者を見送り、由美は保健室のドアを閉めた。
──これで良し、と。
由美はすうっ、と小さく長く息を吐き出した。
──あまり、役に立てなかった。ごめんね、優ちゃん。
由美は、こちらに背を向けて横たわる夫の野上優也を見つめた。
──私は、いつも──いつまでも、優ちゃんの味方だよ。
由美は野上優也の隣に腰を下ろし、優しく、夫の髪を撫でた。
少しするとコンコン、と保健室のドアをノックする音が聞こえ、由美がドアを開けるとそこには桜井が立って居た。
桜井はそのまま保健室には入らず、由美に頭を下げた。
由美が平田の妻の意思を伝えると、やはり一瞬残念そうな表情を見せたが、頷くまでにあまり時間が掛からなかった所をみると、予め想定はしていたようだ。
桜井は由美にだけ聞こえる位の小さな声で話し始めた。
「──分かりました。学校側には僕から話を通しておきます。別の避難場所については、一番近くで中学校、その先には市役所があります」
──中学校、市役所──どちらもそう遠くない。
向こうの受け入れ体制がどうなっているのかまでは分かりませんが、と桜井が続ける。
「近いとは言え、徒歩なら15分は掛かります。念の為、機動班から数名護衛を付けます」
拒否される可能性があるので平田さんには内緒で、と桜井が更に小声で言った。
あの、私──という声に桜井が反応し、由美の肩越しに保健室内を見た。由美も振り返る。
平田の妻が、こちらに向かって話し掛けていた。
「勝手を言ってごめんなさい。私、ここを──」
いえ、と桜井は手で制した。
「構いません。こうなってしまっては──その」
桜井が、保健室の奥にあるベッドを見た。
何かを言おうとして、息を飲み込んだのが由美には分かった。
──謝ろうとしてるのかな、桜井さん。
勿論それはごく自然だと由美は思う。平田が亡くなったのも桜井の指示に拠るものだと本人が言っていた。責任を感じているとしても何らおかしくはない。
──でも。
この人が──この人達が謝るのは──
「平田さん!」
突然の由美の大きな声に、平田の妻と桜井が少し驚いた表情を見せた。
「この度は、本当に……すみませんでした。本当に──ごめんなさい」
由美は深々と頭を下げた。しばらく──そのままで居た。
「野上、さん」
平田の妻が小さな声で言った。
確かに──機動班の人達が謝りたいと思うのは当然だと由美は思う。
いくら避難住民の安全確保の為とはいえ、一般市民が一般市民を死なせてしまった事に変わりはない。
──でも、ここでこの人達に罪を認めさせてしまうのは──
あまりにも残酷な気がする。それに今後もし同じ様な状況が発生した場合、機動班──または周囲の人達が躊躇してしまうかも知れない。そうなれば、被害者の数は更に増えるだろう。
だからといって、機動班は何も気にしなくて良いという訳でもないと由美は思う。
──化け物になってしまった人もまた──人間だった、という事は忘れてはいけない。
野上さん、ともう一度平田の妻が呼ぶ。
由美はゆっくりと頭を上げた。
少し遅れて、桜井も頭を上げるのが見えた。
声は出さず、桜井も一緒に頭を下げていたのだろう。
「もう──うん、分かりましたから。それから──桜井さん、でしたっけ。勝手ついでにもう一つお願いがあるんですけど」
今までとは違う、はっきりとした口調で平田の妻が言った。
はい、と桜井が応じる。
平田の妻が言うお願いとは、出発は明日の朝、そして夫の遺体を預かっていてほしい、という事だった。
「この事態が落ち着いた時に改めて夫を引き取りに来ます。それまでの間──お願いします」
桜井が一瞬視線を下に向け、再び平田の妻を見る。
「──出来るだけの事はします。ですが、ここには設備がないのであまり長引く様だと、その──」
──ああ、それって……
保存状態の事を桜井は言いたいのだろう、と言い難そうな表情を見て由美は思った。
平田の妻もそれを察し、
「そう、ですよね。あの……あ、もし良ければ、あのベッドのシーツか、どこかにブルーシートの様な物があればそれで包んで、どこかに一度、埋め──」
平田の妻はそこまで言って、唇をグッと噛んだ。
そのまま一度下を向いた。うう、と声を漏らす。
再び顔を上げ、続ける。
「一時的にで良いんです。この事態もそう長くは続かないでしょうし……警察だってその内機能するんじゃないですか? そうしたら、通報して、ちゃんと説明して……ちゃんと、夫を、正式に──」
あ、別に──と平田の妻が続ける。
「あなた方を訴えるとか、そういう意味じゃなくて──一般の人がその、勝手に、埋めてしまうのは──」
桜井が頷く。
「いえ、まぁ僕も法律に詳しい訳ではないんですけど、確か──奥さんであるあなたの意思でご主人のご遺体を埋葬という意味で埋めるのは問題ない、と思うのですが──いや、この場合、検視をせずに密葬を行うことが法に触れるんだったか……まぁ、それこそ警察に判断を委ねましょう」
桜井の後ろから牧村も同意した。
「必要な書類は私が作成しておくから。桜井君、そう言えば昼間の襲撃で犠牲になった人達は──」
はい、と桜井が牧村に答える。
「ご遺族の方々には申し訳ないのですが、何分、損傷が激しいもので。一時的に体育倉庫へ」
昼間の襲撃──由美もその時、グラウンドに居た。佐々木と共に子供達を連れ、逃げるのに必死だった為しっかりとは確認はしていないが、数名、頭部を破壊され亡くなっている。
ではそちらも私が見に行かなければいけないかな、と牧村が言ったのに対し、桜井が、
「いえ、そちらは他の方が見て対応して下さったので大丈夫です。牧村さん以外にも何名か医師免許をお持ちの方がこの小学校に避難されていた様なので」
それなら良いんだ、と牧村は頷いた。
「──話が済んだ様なら、私は平田さん、ご主人を診たいんだが──奥さん、良いかな?」
はい、と平田の妻が応じる。
うん、と牧村が頷き、
「桜井君、悪いが野上君を──そうだな、そこの担架で彼が避難している場所に──野上君の奥さん、案内してあげて」
分かりました、と桜井が頷く。
「その後、平田さんのご主人を一旦体育倉庫へ。悪いね桜井君。その手配もお願いして良いかな」
了解しました、と桜井が返事をし、すぐさま廊下に居た機動班員に指示を出した。
二人の機動班員が担架を用意し、野上の横へと移動する。由美は邪魔にならないように反対側へ回る。
二手に別れ、小さな声で、せぇの……と眠ったままの野上を担架に載せた。静かに持ち上げる。
「あ、じゃあ、すみません。体育館の方へお願いします」
由美が行き先を機動班員に告げ、野上優也を載せた担架を先に行かせようとした。
不意に、その由美の手に何かが触れる感触。
由美が自分の手を見ると──
「優ちゃん──」
野上優也が、由美の手を握っていた。その顔を見ると、はっきりとは目を開けていないが、柔らかな、優しい笑みを浮かべていた。
「──ありがとう──由美」
それだけ言って、担架は先へと──、保健室を出て行った。
──優ちゃん。
由美も後を追う。
自分でも気付いてはいなかったが、いつの間にか、由美の頬を、涙が伝っていた。
* * * * * * * * * * *
──少し冷えてきたな。
警備班、村田辰雄はグラウンドの北側、フェンス沿いをゆっくりと歩きながら、袖をほんの少し捲り、腕時計を見る。
──暗くて良く見えん。
小学校の敷地を囲うフェンスに沿って、外側には細い道があり、その道の向こうは住宅地や雑木林が広がっている。通学路にもなっている為、細道には等間隔に街灯が設置され、ある程度の明るさを保っている。
村田は、その明かりが届く所まで移動し、再び腕時計を見た。
──まだ20分しか経ってないのか。
村田がグラウンドの警備に入ったのが20時。前の警備班会議で、3時間毎に交代するという話になったので──
──まだまだ長いな。
村田はふう、と息を吐き、フェンスに寄り掛かった。
──そう言えば、さっきの放送──
村田がグラウンドに出て少しした頃、自分が所属するグループのリーダーでもあり、機動班副班長の野上が呼び出されていた。保健室へ来るように、という内容だった。
──大丈夫かな、野上君は。
村田が見た限り、野上はかなり疲労困憊の様だった。聞けば、彼は夜勤明けでそのままこの避難生活に突入したらしい。しかも、ここまでの道中、そしてこの小学校で化け物と戦っている。
──少しでもゆっくりさせてやりたいが……
この小学校で避難生活が始まり、小学校側からの提案でグループを作った際、リーダーを決めなければならなくなった時、何を隠そう自分が野上をリーダーにしてしまった経緯があり、村田は少し、申し訳なく思っている。
──実際、野上君はよくやってくれてる……ん?
暗い中、体育館の方からグラウンドを横切ってこちらに歩いて来る人影がある。
──誰だ。君江か? 違うな……
君江というのは村田の娘、と言ってももう50に近い。高校生の息子──つまり村田にとっては孫──も居る。一緒にこの小学校に避難していて、当然、同じグループにいる。遠目にも君江とは違うと判別出来たのはシルエットがまるで違ったからだ。君江はもっと丸い。
「辰さん? やっぱり辰さんだ」
──ああ?
暗くてまだよく見えないが、女──のようだ。しかも自分を辰さんと呼ぶのは、たぶん同年代である。
「お久し振りです──村田、辰雄さん」
街灯の明かりの下まで来て漸くその女の顔が見えた。
──んん?
「──思いっきり忘れてるわねぇその顔は。まあ、辰さんらしいけど」
ふふふ、とその女は笑った。
──笑われても、なぁ……あ。
「──もしかして、千恵子さん、か?」
「もしかしなくてもその千恵子ですよ。旧姓小林千恵子」
──これはまた、随分と懐かしい。
「いつ以来、ですかねぇ」
千恵子が村田の隣に立ち、グラウンドの方を眺めながら言った。
「いつ以来──って、それは……確か、千恵子さんがお見合いするって故郷へ帰った時以来だから──何十年前だ?」
四十年前、ってことかしらねぇ、と言って千恵子が笑った。
「そ、そんなに前か──で、その、故郷に帰った千恵子さんが何故、今ここに?」
それがねぇ、と千恵子が楽しそうに話し始めた。
「息子夫婦がこっちに家を建ててね。母さんももう一人なんだし、こっちへ来て一緒に住もう、って言ってくれてねぇ。今年に入ってから、こっちへ来たの」
孫も可愛くってねぇ、と千恵子は笑う。
──相変わらず、よく笑うなぁ。
「辰さんは? ずっとここに?」
「──ああ。娘と高校生の孫と三人でな」
そう、なんですか、と千恵子が上を向いて言った。
「じゃあ、お互い、今は独身ってことですねぇ」
「そ──妙な言い方をするな。俺達ぐらいの歳になれば別に珍しくはないだろう」
なぁにを慌ててるんですか辰さん、と千恵子がニヤニヤしながら言った。
──まったく、相変わらずだな。
千恵子は、村田が社会人になって入社した会社の後輩だった。村田は主に外へ出て現場で働き、千恵子は事務職だった。
歳が近い事もあり、千恵子は村田に気兼ねなく相談し、村田もそれほど口数の多い方ではなかったが千恵子とはウマがあった為、よく会話を交わした。
それから二人の距離はどんどん縮まりはしたものの交際とまでは行かず、お互いがあと一歩を踏み出せずにいたちょうどその頃、千恵子の実家から見合いの話が届き、千恵子は断りきれず、故郷へと帰った。
しばらくして千恵子から手紙が届き、結婚した、と報告された。
その後、村田も別の女性と結婚し、今に至る。妻は5年前に他界した。
「まあ、その、なんだ。折角こっちに帰って来たのに、こんな事になるなんて災難だったな」
それは心底そう思う。ふと、その息子夫婦と孫は今どこに居るのか気になったが──聞くのはやめた。
「そう言やぁ、千恵子さんは警備班じゃないよな。なんだってこんな時間にわざわざ外に──」
村田に聞かれ、千恵子は再びふふふ、と笑った。
「それを聞きますか。まったく辰さんらしい──」
千恵子の言葉を遮るように、遠くから、おうい辰さん、と声がした。
声の主は村田の家の近所に住む顔馴染みの原昇三だった。
「居た居た。まったくこんな時に油売ってんじゃねぇよ、って──おいおい油どころか口説いてやがったのか辰」
えらい別嬪さんじゃねぇか、と昇三が珍しげに見る。
「僕は原昇三って者です。そこのむさ苦しい辰とは古くからの馴染みなモンでして、へい」
村田は、はぁ、とため息をつく。
千恵子はクスクス笑っている。
「あのなぁ昇三。ゴリラみたいな面して何が僕、だ。それに俺は口説いてないぞ。いい加減落ち着いたらどうなんだこのスケベオヤジ」
「ゴリラたぁなんだお前こそ引退したボス猿みてぇじゃねぇかよ──って、ンな事ぁどうでもいいんだよ辰さん」
と言って昇三は、自分が来た方向を指差す。
「俺は今から警備の班長ンとこに報告しに行くから悪いけど辰さん、代わりに南門に行ってくれ」
──南門? まさか──
「化け物──か?」
昇三は、いや、それがな、と首を傾げた。
「とにかく変なヤツなんだよ。見た目も普通でな。ただこっちが何を言ってもウンともスンとも言わねえ。だからこの小学校に入れて良いモンかどうか、ってな」
──変なヤツ……?
村田は言い様の無い──否、とても嫌な予感がして──唾を飲み込んだ。