第16話【事実】
保健室内の緊張が一気に高まる。
マンイーターと化した平田大介は、自由になった右足だけを動かし、周囲を威嚇する。
「ダイスケ! ダイスケ!」
平田の妻が呼ぶ名前はもはや悲鳴に近い。腕を掴む牧村の手を振り解こうと必死に暴れている。
「やめるんだ奥さん! 野上君……早く」
牧村が叫ぶ。
野上は鉄パイプを平田大介に向け構えた。
機動班の4人もベッドを取り囲み、間合いを詰める。
「やめて! やめてよ!」
機動班の者が平田の妻を気にする。
「機動班! 十分に距離をとって──相手の間合いがまだはっきりしない内は不用意に飛び込まないで下さい!」
桜井の警告に機動班の者は我に帰り、自分の立ち位置と平田大介までの距離を再確認する。
「野上さん。あなたの気持ちは解ります。ですが──」
桜井はそこで一旦区切り、平田の妻を見た。
「こうなってしまってはもう──安全を優先すべきです」
彼女のケアは救護班か託児班に任せましょう、と桜井が提案した。
──そうか……そう、だな。
桜井の言葉に、野上は肩の力が少し抜けた。
「全員、あの右足に注意! 各々、等間隔に立ち、胴体か頭に狙いを定めて!」
桜井の指示に、機動班の4人と野上が従う。
壁と平行に設置されたベッドを囲むように、5人が間隔を空けて立ち、構える。
「下半身側の2人はもう少し胴体側に寄って──よし」
膝から下の、二つに別れた肉が静かに蠢く。その中央で鋭く尖った骨が、包囲する者達を一人一人威嚇するかのように動く。
「全員そのまま、合図するまで待機!」
そう言いながら桜井は平田大介の下半身側へと回り込む。
途中、壁に立て掛けてあったパイプ椅子を掴んだ。
桜井はそのパイプ椅子を平田大介の足に向け構える。
「良いですか? 僕が、足を攻撃します。その後、合図します。皆さんは一斉に彼を──成功したらすぐに後退し、寄生生物を監視して下さい」
廊下の機動班は保健室の出入口を閉めて、と桜井が指示を出す。すぐさまスライドドアが閉まった。
お願い、やめて、と平田の妻が叫ぶ。
行きます構えて、と桜井が促す。
野上は鉄パイプを前に突き出す。機動班の4人も、手にした武器を構えた。
桜井が、パイプ椅子を平田大介の足に振り下ろした。
双頭の蛇が即座に反応し、パイプ椅子に絡み付く。同時に、骨の槍が椅子の板の部分を刺し貫いた。
「今だ!」
桜井の号令で、全員がほぼ同時に平田大介を攻撃した。
突き刺す音──
殴打する音──。
「い──いやあぁっ!」
平田の妻が泣き叫ぶ。
マンイーターの額や頬を幾筋もの血液が伝い、口からごぼり、と音を立てて血を吐き──絶命した。
「──野上さん! 早く下がって!」
桜井の声に野上は慌てて後退する。
動かなくなった平田大介の全身をくまなく視る。
──まさか、既に移動したなんて事は……
──ブゥン……
大型の昆虫が羽ばたく様な音がした。
「出た──!」
その姿を野上は一瞬だけ確認出来た。
やはりそれほど大きくはない。小さな羽を高速で動かし、空中で静止していた。
だが次の瞬間──桜井が高く振り上げた足を空飛ぶ寄生生物目掛けて振り下ろして叩き落とし、そのまま踏み潰した。
──やった……
「ダイスケっ!」
背後で平田の妻が叫ぶ声が聞こえたと同時に、野上は背中に衝撃を感じた。背中の衝撃は、平田の妻の体当たりによるものだった。
油断していたせいか、野上はバランスを崩した。
──あ、っと……
倒れないよう、咄嗟に足を前に出そうとしたが上手くいかなかった。
──身体が重、い──
ならばと野上は手で受け身を取ろうとしたが──間に合わなかった。
そのまま野上は床に転倒し──頭を強打した。
──う……
「野上さん!」
異変に気付いた桜井が呼び掛けたが、野上は──意識を失った。
薄れ行く意識の中で、桜井や牧村の声がする。動かさずにそのまま横に、という指示が聞こえた。
そして──ここに居る筈のない、由美の──優ちゃん、という声が聴こえた気がした……
* * * * * * * * * *
「優ちゃん!」
由美が思いきって保健室のスライドドアを開いた時、夫の野上優也が床に倒れていた。
そこへ慌てて気難しそうな男性が近寄り、声を掛けたり、頭や首の辺りを慎重に診ている。恐らく医師だろう。
本当はもう少し前に保健室付近まで来ていたのだが、廊下に居る避難者や野次馬を避けながらの為、多少手間取った挙げ句、保健室前に居た機動班の人間と思われる二人に止められてしまい、このタイミングになってしまった。
「──どなたかは存じませんが、勝手に入って来られては困ります」
細身で長身の、眼鏡の男性が言った。
「野上優也の妻です」
眼鏡の男性がそれを聞き、ほんの少しだけ驚いた表情を見せた。
「野上さんの──僕は機動班副班長の桜井です。ですが──何故、野上さんの奥さんがこちらに?」
由美は返答に困った。
──ただ単に、嫌な予感がしたから──というのは理由にならないのか──
でも、そうなのだから仕方がない。由美は正直に答えた。
「すみません。ちょっと──心配で」
桜井は少し考えてから頷き、
「野上さんは今、ちょっとしたアクシデントで──気を失っています。牧村さん。野上さんは──」
桜井が呼び掛けた、気難しそうな男性──牧村という医師らしき人物が、数回頷きながら答える。
「ああ、まぁ頭を打っているから、しっかり検査をしない内に軽々しく言えないんだが──見ていた限りそれほど変な打ち方はしていなかった様だし──脳震盪だろう。ただ、だいぶ疲労も溜まっていたみたいだからな」
このまましばらく安静にしておけばとりあえず大丈夫だろう、と牧村は言った。
その言葉を聞き、由美は安心した。と同時に、保健室内の状況を確認し始めた。
ベッドに縛り付けられた男性。その右足はあまりにもグロテスクで由美には直視出来なかった。
しかもその男性は──死んでいる様だ。頭や胴体から大量の出血をしている。ピクリとも動かない。
その男性にしがみつき、泣いている女性──。時折、ダイちゃん、ダイスケ、と言っている。
──体育館から保健室に運ばれた男の人と、その奥さん……
それで間違いないだろう。だとすると──
──やっぱり、寄生生物とかいうのに寄生されてたんだ。
そして、昼間に小学校に侵入してきたあの化け物の様に彼もまた──あの右足は、そう言う事なのだろう。
つまり──
保健室で監視されて居た男性が、奥さんの目の前で化け物になり、それを野上優也を含む機動班の人間が殺した──
──そう言う事、か。
由美はそう理解し、ベッドの上で──もう、動かなくなった──男性にしがみつく女性を見つめた。
──目の前でご主人を……
言葉を失った由美の耳に、桜井と牧村の話す声が聞こえてきた。
「平田さんの奥さん──彼女のケアを、救護班か託児班にお願いしようと思うんですが……」
「そうだな。しかし──状況が状況だけに、それなりの経験者なり専門知識を持った人間が──難しいか」
「あの──私、一応託児班、なんですけど……」
由美が桜井と牧村に向け、手を挙げて言った。
「そう──ですか。しかし……」
桜井が由美を振り返り、言い淀んだ。
由美が、他人の心理的なケアをした事がある経験者か或いは専門知識のある人間か、確認したいのだろう。
「あの、自分から名乗り出ておいてなんなんですけど、そういった──知識も経験もありません」
桜井が頷く。
「でも……」
由美は、ベッドの方と、床に倒れている野上優也を見た。
「私が──奥さんと話をしないといけないと思うんです。いえ、話をさせて下さい」
──うまく出来るかは分からないけど、そう──思う。
桜井と牧村が少し考えて、頷いた。
「分かりました。ですが野上さんの奥さん」
桜井に呼び掛けられ、由美は、はいと返事をした。
「あなたがその──責任を感じる必要はありませんよ。これは……この結果はあくまでこの場に居た機動班全員──いや、僕の指示に拠るものです」
本来なら僕も残って話をすべきなのでしょうが、と桜井が続ける。
「彼女の立場になって考えてみれば、きっと──顔も見たくない、でしょうね」
桜井が一瞬、顔を伏せ、悲しげな表情を見せた。
「ですから──いや、では野上さん。彼女をお願い出来ますか」
桜井に改めて問われ、由美は静かに頷いた。
それを見た桜井がまた頷く。
「分かりました。お願いします」
牧村が保健室を出ようとしながら、私は廊下で待機しているから、と由美に言った。
桜井も、保健室に残っていた機動班の者達に退室するよう促し、自分もドアへと向かい──立ち止まって引き返してきた。
「──話をした結果、彼女が今後どうするか、については……とりあえず彼女の意思を尊重して下さい」
突拍子もない、例えば誰かに危害を加えるとかいう事なら別ですが、と桜井が続けた。
「彼女の今後については、僕が責任を負います。ですから野上さんは、あなたの思う事を彼女に伝えて、彼女の話を聞いてあげて下さい」
由美は黙って頷いた。
桜井が由美に向け、お願いします、と小声で言い、保健室を出て行った。由美もそれを見届けようと、保健室の出入口まで移動した。
桜井はそれには気付かず、廊下に居た機動班の人達に、すぐに交代を寄越すのでそれまでここに居てもらえませんかと声を掛けていた。
機動班の人達が了解したらしく、桜井は頭を下げて廊下を進んで行った。
由美は一度、大きく深呼吸をして──出入口のスライドドアを閉めた。
──とは言ったものの……
由美は改めて、泣いている女性──亡くなった男性の妻──を見つめた。
──平田さん、と言っていたかな。
話をしようにも、向こうは由美の存在に気付いているのかすら怪しい。
──落ち着くまで、少し待った方が良いか。
今、話し掛けても会話にならないだろう、と由美は判断した。
由美は、横になっている野上優也の隣に腰を下ろした。
──優ちゃん、無事で良かった……
野上優也の手を握り、由美は目を閉じた。
──優ちゃんは無事だった、けど……
平田の妻の嗚咽が、静まり返った保健室内に響く。
理由がどうであれ、愛する人を失ったという事実に変わりはない。
そして。
その事実に、野上優也が関わっているという事もまた──事実だ。
──悪気はない、では済まされない事かもしれないけど……
夫が私利私欲の為に彼を殺したとは思えない。それは断言出来る。しかし、殺したという事実は──
──いけない、これじゃ堂々巡りだ。
由美はもう一度、深呼吸をし──意を決した。
「あの──」
由美に声を掛けられた平田の妻が一瞬びくりとし、流した涙はそのままに振り返り、由美を一瞥した。だが彼女は何も言わずまた向こうを向き、やがて──誰ですか、とだけ言った。
「機動班副班長、野上の──この人の妻です」
野上優也を見つめながら、由美が言った。
機動班の──と、平田の妻が反応し、再び振り返る。
「それが──それで……何の用ですか。出来ればここから出て行って欲しいんですけど。その人を連れて」
顔も見たくないんです、と平田の妻が言った。その声には明らかに怒りが籠っている。
──当然と言えば当然の反応、よね。
「大事な人を守る為だ、とかなんとか言って、その人に──その人達に……夫は殺されたんです!」
人殺し──と、平田の妻は由美を睨みながら言った。
「そんな言い方──」
「事実でしょ! 結局その人は自分達さえ助かればそれで良かったのよ違う?」
平田の妻は興奮した様子で立ち上がり、由美達の方へと近付いて来た。その眼は血走り、由美の目を見つめて逸らさない。
「早く出て行ってよ! その人、あなた一人で運べないんだったら外から人を呼んで手伝ってもらって」
──私の、思った事を伝える──
「私はあなたと──大事な人を亡くされたあなたと話をする為にここに居ます。私の夫が関わっているから……だけど」
由美も立ち上がり、真っ直ぐに平田の妻を見る。
──人殺しなんて言い方は──
言いかけて由美はやめ、唇を噛みしめた。
「だけど、何? その人に、その人達に私の夫は殺されたの! 大事な人の為……そうよ、あなたを守る為に私の夫は殺されたのよ!」
平田の妻は由美の襟元を掴み、鬼の様な形相で由美を壁まで押した。
「……っ!」
背中が壁に当たり、由美は一瞬、息が詰まる。
「早く──出て行ってよ……この、人殺し!」
「だから──!」
由美は平田の妻の手を振り払いながら、何とか声を出した。
「私の夫が──野上優也がした事は認めます。正当化出来ない事も解ってるし、勿論謝って済む事でもないのは十分解ってます! でも──!」
平田の妻も由美も、肩で息をしている。
由美は、様々な感情が込み上げて、泣きそうになった。が──堪えた。
──ここで泣くのは、卑怯だ。
「人殺しという言い方は──しないで、下さい」
それだけ言い、由美は深く頭を下げた。
「うう……うう──」
平田の妻の嗚咽が聞こえた。
そして──
うわああ、という、平田の妻の泣き声が再び保健室内に響いた。