第15話【大事な人】
「保健室、だって?」
寝不足と疲労のせいか頭が回転しない。
──保健室……
「──保健室! 監視してる男性か」
目が覚めた。先の南門での戦闘後、寄生生物に寄生されたと思われる男性が、保健室で監視されている筈だ。
「優ちゃん──大丈夫?」
由美が心配そうに野上を見つめている。
「ああ、大丈夫だよ。ありがとう」
勿論、野上は嘘を言っている。
体は重く、少し頭痛もする。
──でも。
野上は君江を見た。
落ち着かない様子だ。いつもの笑顔がない。
「大丈夫、ですよ君江さん。俺が行って、すぐ体育館に戻るよう言ってきます」
君江は少し躊躇い、申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、野上さん。疲れているでしょうに……でも、正直に言うと──息子の事が心配で心配で」
君江は涙ぐんでいた。
震える声で続ける。
「野上さん本当に……ごめんなさいね。何もかも押しつけちゃって。あなたにばかり大変な思いをさせてしまって」
野上は黙って、穏やかな顔で君江を見つめている。
──善い人だな。
「──休ませてあげたいけど、あの子に……京介に何かあったら……」
「分かってますよ、君江さん。それに、大変なのはみんな一緒です。みんな頑張ってる」
野上は頷き、自分に言い聞かせるように言う。
「だから俺は──自分に出来る事をしなきゃ、って思ってます。いつになるかは分からないけど──」
野上は立ち上がって──
「いつか皆で、笑って家に帰れるように、ね」
野上はもう一度頷いた。
君江が目を何度かこすり、ああ、いけないいけない、とわざと大きな声で言った。
「歳をとると涙もろくなっちゃうわね。よし、もう大丈夫。野上さん、ウチのバカ息子、お願いね」
じい様は平気よ、あれで結構頑丈だから、と君江が笑顔で言う。
「分かりました。じゃあ君江さん、由美──子供達を頼む」
君江と由美は頷いた。
気をつけてね、と由美が言った。
「うん。行って来るよ」
野上は眠っている子供達の頭を撫で、念の為、先程使用した鉄パイプを持ち体育館を出た。
保健室は体育館の隣、第二校舎の一階奥にある。移動距離は然程無い。
廊下で休んでいる人達を避けながら進む。
保健室の手前辺りに、機動班の者と思われる男が二人立っている。野次馬が近付かないように見張っている様だ。
時折、保健室の中から男性の呻く様な声と、名前を呼ぶ女性の声が聞こえた。
野上は見張っている男に声を掛けた。
「すみません。機動班副班長の野上です。中に入れて下さい」
それを聞いた見張りの一人が頷き、保健室の中に向け、
「桜井さん、野上さんが来ました」
──桜井さんも来てるのか。
副班長の桜井まで来ているとなると──
野上は鉄パイプを握り締めた。
「野上さん──申し訳ありません。どうぞ中へ」
保健室の入り口まで迎えに来た桜井が野上を中へ促す。
野上は軽く頭を下げ、保健室に入った。
保健室の奥側の壁際にベッドがあり、そこに寝かされている男性は腰と両腕、両足をロープで縛られている。歯を食いしばり、唸っている。
その隣に女性が寄り添っている。おそらく男性の妻だ。
二人から少し距離をおいて、囲む様に数人が立っている。
牧村と名乗った医者、救護班の者、機動班と思われる男性四人と──京介と佐々木が居た。
「ああ、野上君。すまないな」
牧村が野上に気付き、声を掛けた。
いえ、と野上が返す。
「どう──ですか? 彼の容態は」
素人の野上が見ても、良くないのは判る。
「はっきり言って──良くはない。いや、彼自身の命に関わるという訳ではないんだろうが……正直、分からない」
牧村はベッドの男性を見た。つられて野上も見る。
「保健室へ運んで来てしばらくはなんとか普通に受け答え出来ていたんだ。が──段々、苦しみだして」
ベッドに縛りつけられた男性が、首を左右に振り、呻く。
寄り添っている女性が、ダイスケ、ダイちゃん──と呼び掛けている。
「時折、手足を激しく動かすものだから、そこの奥さんには悪いが──拘束した」
それがまた物凄い力でね、と牧村が言った。
「機動班に来てもらっていて助かったよ。それはともかく──」
牧村は、女性を見た。
「ああなってからはもう、こちらが何を言っても反応しない。意思の疎通が出来ない。もしかしたら、彼はもう──」
──時間の問題か。
「彼の奥さんに、寄生生物の事は……」
野上の問いに牧村は首を振った。
「いや、まだ言っていない。パニックになるのは目に見えてる」
でしょうね、と野上は頷いた。
「野上さん。こうなってしまってはもう……手遅れではありませんか?」
桜井が野上に問う。
「──それは……」
野上は息を呑んだ。
彼と、その妻を見る。
彼とは、保健室に運ばれる前に一度しか会話をした事がない。親しいと言える程でもない。が、しかし──
「ダイちゃんお願い……しっかりして!」
彼の妻が必死に呼び掛ける。
男性は頻りにもがいている。
──打つ手なし、か。ひとまず──
「京介君、ありがとう。もう──体育館に戻っても大丈夫だよ」
でも、と京介がベッドの男性を見ながら言った。
「君江さんが心配している。戻ってあげてくれ」
それでも京介は何か言おうとしたが、小さく頷き、
「分かった──野上さんも気をつけて」
ありがとう、と野上が笑顔で応えた。
「佐々木さんも京介君と一緒に戻ってくれるかな」
はい、と佐々木は素直に応じた。
佐々木は苦しむ男性とその妻を見ながら、野上に言う。
「よく考えた上での結論なら、きっと皆、理解してくれる筈です。だから──迷わないで」
「そう、だね──分かった、ありがとう」
京介君、行こう、と佐々木が京介を連れ保健室を出た。
──迷うな、か──
生かすか殺すか。
野上にとって、この選択肢に迷いはない。
──殺さなければならない。
生かすとすれば──監禁する、逃がす……どっちを選んでもこちらに危険が及ぶ可能性がある。
或いは他に方法があるのかも知れないが、今は考えている余裕がない。
──迷っているとすれば──
マンイーターと化す前に殺すべきか──。
それとも、彼の身体が変化し、このままでは危険だと皆に納得させた上で殺すか──。
野上はもう一度、彼とその妻を見る。
彼の息遣いは荒くなっている。
その妻は、彼の衣服を掴み、ただただ名前を連呼し、泣きじゃくっている。
──今は……殺せない。
変化する前に彼を殺すのは、彼の妻にとっても、殺す側の機動班の人間にとっても、精神的負担が大きい。
例え変化しても、これだけしっかり拘束していれば、100%ではないがこちらに被害は出ないだろう。
野上は一度深呼吸をし──牧村に問う。
「牧村さん。もう一度、確認します。我々にはもう──彼に出来る事はない、ですね?」
牧村が目を閉じた。野上の質問の意図を察したようだ。
「──そう、だと思う。現状の設備や知識では何も出来ない、というのが正しいな」
その返事を聞き、野上は頷いた。
「なら──野上さん」
桜井が野上の目を見る。
野上は黙って頷いた。
桜井は野上を見つめたまま頷き、手を上にかざした。
「救護班の方は保健室の外へ。機動班──!」
桜井の合図で牧村以外の救護班の者が退室し、保健室内で様子を見守っていた機動班の四人が、手にしていた武器を構え、ベッドを取り囲んだ。
その動きに、彼の妻が驚き、怯えた。
「な、なにをしてるんですか?」
ベッドに縛りつけられた男性にしがみつく。
明らかに警戒した眼で野上達を睨みつける。
野上は桜井に向け手をかざし、男性の妻に一歩、歩み寄った。
「奥さん、落ち着いて下さい」
「落ち着け? だから! なにをしようとしているんですか!」
野上は、握っていた鉄パイプを床に置いた。
あくまで優しく、穏やかな口調で野上は話し掛ける。
「奥さん、彼の──旦那さんのお名前は?」
「──ダイスケ……平田大介、です」
平田大介さん、ですね、と野上が繰り返す。
平田大介の妻が頷いた。
「平田さんは──日中、南門での戦闘に参加されてましたよね」
野上の問いに、平田の妻はもう一度頷いた。
「危ないからやめて、って言ったんです。けど──『このままにしてたら皆が危ないだろ』って」
言いながら、平田の妻の目から、大粒の涙が溢れた。
平田大介本人は、相変わらず固く目を閉じ、唸り声を上げている。
「カッコつけてたんですよきっと。ダイちゃん普段、気が小さくて、でも──優しくて」
「大介さんの気持ちは分かります。俺も一緒です。彼はきっと──あなたを守る為に戦った」
平田大介を見つめながら、野上は続ける。
「戦う事が、大事な人達を守ることに繋がっているんです」
平田の妻は、彼の顔を見つめている。
「その結果──残念ながら彼は、寄生生物に寄生されてしまった。もうじき彼の身体は変化し、彼ではなくなってしまう」
「はあ? なに──何を言ってるんですか? 彼ではなくなってしまう? 一体……」
妻は夫を見て──まさか、と言い野上を睨んだ。
「ダイちゃん──大介が、化け物になる……ってことですか!」
「そうです。彼の右足の傷──奥さんも見ましたよね? あの穴から寄生生物が侵入しています」
平田の妻が野上と牧村を交互に見る。
「ど、どうして──判ってて何もしてくれなかったの? そのナンとかっていうのを取り除いてくれれば良かったじゃない!」
これには牧村が答える。
「出来なかったんだ。潜んでいる部位も特定出来ないし、摘出するにしたってここでは無理だ」
すまない、と牧村が頭を下げた。
「すまない、って……それで済むと思ってるの? このままじゃダイスケは──」
化け物に、と平田の妻が言いかけて止めた。
「そう……それであなた達はこのヒトを殺そうとしてるのね。冗談じゃないわ。ふざけないで! だったら私──このヒトを連れて小学校から出ます」
平田の妻はそう言って立ち上がり、平田大介を拘束しているロープを取り外しにかかる。結び目が固く、なかなか解けない様だが。
それを見て桜井が再び機動班に合図を出そうとしたが、野上が制した。
「奥さん、申し訳ないがそれは──ダメです」
「はあ? 何がダメなんですか! 私はここに居たくないからこのヒトと一緒に小学校を出るの! あなた達に迷惑はかけてないでしょ!」
野上が首を振る。
「お二人がここを出たとして、真っ先に死ぬのは──奥さん、あなたですよ。それに……その後、彼はこの小学校を襲うかもしれない。そうなったら今度はこちらが危ない」
「だったら何よ! そんなの私達には──」
「大事な人達を守る為なんです!」
野上が語気を荒げる。
「勝手な事を言っているのは自分でも分かっています。でも──」
──分かってくれとは言えない……
大事な人達を守る──それは野上の言い分だ。しかし、平田大介の妻にとって一番大事な人は夫である。
その大事な人を殺すと言われて、はいそうですか、とは言わないだろう。自分が逆の立場なら、絶対に言わない。
──説得は無理か……
──びくん!
「──?」
ベッドの上に横たわる平田大介の身体が、大きく波打った。
「ダイちゃん?」
平田の妻が彼の顔を覗き込む。
「ダイ──」
ひっ、と小さな悲鳴を上げたが、ダイスケと大きな声で呼んだ。
野上が平田の顔を見る。
──これは……
平田大介は目を開いていた。が、完全に白眼を剥いていた。
獣の咆哮のような、叫び声。
「野上さん──!」
桜井の呼び掛けに野上が反応し、すぐさま後退して先程置いた鉄パイプを拾う。
「奥さん、離れて!」
だが平田の妻は動こうとしない。
大介、と名前を連呼し、再び近付こうとする。
牧村が平田の妻の腕を掴み、強引に引き離した。
「野上君見ろ……彼の右足が──」
脚はロープで、足首を縛りつけられている。
爪先がピンと伸び、足の皮膚が血を噴き出しながら、先端から左右に、バナナの皮の様にめくれ始めた。
「始まった……」
足の皮膚が肉ごと剥がれて骨が露になる。
膝の辺りまでめくれ、細くなった足をロープから外した。
右足だけを上げ、くの字に曲げる。左右に剥がれた肉がまるで蛇のように蠢く。
露になった骨が音を立てて変形を始めた。段々と細くなり、先端は槍のように鋭く尖った。
膝の関節がゴキンと外れ、双頭の蛇と槍が別々に動いた。
保健室に、平田の妻の悲痛な叫び声が響いた。