市民プールにて
僕は実里。その辺に生えてそうな、なんでもないただの人だ。
強いて言えば普通の高校生、強いて言う必要もないぐらい普通の高校生。 普通なんて基準は人それぞれ違ってくるのだろうけど――その“それぞれ違う”ということが普通のことなのであって、だからもちろん僕にも人間一人を構築するために用いられる来歴なり訓戒なり失敗談なり持論なりはあるのだけれど、同様にそんな程度のことは誰にでもある特徴でしかないのだから、取り立ててする説明はない。
しかし、僕のような凡庸凡愚はともかく、僕の目の前には今、取り立てて説明することのある人間がいる。
そいつは幸子。変に生きている、とんでもない駄々な人だ。
ひねていて駄々っ子で、しかし時たま聞き分けはよく、押してもひらりと身を翻す暖簾のような娘である。
いわく古代宇宙から時空の輪を一周して来た渡り鳥だとか、いわくマントルから湧き出た地球の垢だとか、それが自称どうこう問わず(大抵自称だからそれらの確たる論拠は一つもない)この人間について語るべき諸説は尽きないのだけれど、まずこの場面で最も抽出するべき点があるとするならば、カナヅチとうことだ。
幸子はカナヅチ。泳げない。だからどうしたのだという話かも知れないけれど、それがどうもこうもある話なのだ。時は数日前に遡り、二人で海水浴に行った時のこと。幸子は浮き輪を持参して来ていた。僕はそれまで幸子がカナヅチであることは知らず、元々スポーツも勉強も小ネタもそつなくこなすなんちゃってエリートということもあり、それはもう愉快、いや、驚いた――なにせそのお子様ルックが、筆舌に尽くしがたいほど、あまりにも似合いすぎていた。可愛らしいピンク色のイチゴ柄の浮き輪と、お世辞でも高校生と言っては失礼になってしまう矮躯がこれでもかというほど相互作用を引き起こし、古代宇宙からの渡り鳥がどうたら、マントルの垢がどうたら、もともとどうでもいいのだが、万を持してどうでもよくなるぐらいには似合っていた。
僕はあえて、そのお子様ルックには触れぬ存ぜぬを貫くことを決め、一通り浅瀬ではしゃぎ、浜辺でいやに凝った砂城を作って遊び、波打ち際で夕日を眺めながら適当に雑談を交わしたり、どこぞから漂流してきた、手紙の入った小瓶を拾ったりした。のだが、その後、浜辺近くにあるコテージの夕食時にて、幸子が浮き輪を頭に被ってやったポン・デ・ライオンのモノマネが絶妙に上手くて、気が緩んでいたこともあってか不覚にも笑ってしまい、それがとっかかりとなり、結局浮き輪ルックの話題について触れてしまう。今思えばあれは、“ここまで触れられないと逆に恥ずかしい”という思いにそっての行動だったのだろう。しかし僕の思い切り過ぎた対応がいけなかった。「周りの海水浴客、お前と僕のこと見て微笑ましい兄妹を見守る視線だったぞ。ぶっちゃけ小学生にしか見えなかった。なんつうか、高校生にもなって、はっずかしいいいよなああああああああ? それだけ泳げないと気軽にプールにも海にもいけないよなああああああ、なんか素知らぬ顔で当然のごとく浮き輪使ってたけど、これまで僕にさえ隠していたのだから、内心さぞかし気にしていたんだろうなあああああああ?」の言葉を皮切りに、それまでいつものうすら笑いでへにゃへにゃ笑っていた幸子が、泣いた。音もなくしくしくと泣いた。怒ったり拗ねたりするならまだしも、泣かれてしまってはどうしようもない。僕は慌てふためき、「いや、小学生の中でも高学年ぐらいには見えるから」とか「中学生と言っても過言ではないから」などと慰めようとしたのだけれど、そもそも高校生である幸子には効果がなかった。最終的に、「ならば仕方がない、僕がお前を浮き輪いらずの体にしてやろう」という言葉で、ようやく幸子から「ゆるしてつかわす」と許諾される。それから「プール。三日後」の一方的な約束に従い、今日に至る。
市民プールにて。目の前で、浮き輪をせずに水面を凝視する幸子が、後ろで見守る僕に問いかける。
「実里君。人間は六十%水で出来ているっていうよね。私達は常に水とともにあるんだよ。だからね、わざわざ水溜りの中に入ってまで水を求める必要性を感じられないんだ。外からも中からも水に囲まれたくなるほど、水を求めなければいけないの? 何で内なる水だけで我慢できないの? なんだか青い鳥感があるよね。私達の水は、求めるまでもなく、私達の中にあるんだよ。そこで私は考えたんだ。ほら、母なる海っていうじゃない。皆ね、生前に胎内で揺られていた頃の充足感が忘れられないからこそ、こんな水溜りを求めるんだよ。ようは潜在的に親離れができていないんだ。私はね、誰よりも自立しているからこそ、水溜りを求めないし、だからこそ、水溜りの中で動くという能力が退化してしまったの。別に恥ずかしいことではないし、むしろ誇ってしかるべきなの。水泳競技は甘えん坊の駄々こね大会だよ。自己閉塞の万能感にとらわれてしまった嘆かわしい――」
しつこいので押す。
直後にドボンと飛沫を上げる市民プールのひとすみ。
「ぴゃっ、ぴぴゃらぴゃあああ!」
落ちた幸子のけたたましい悲鳴が響き渡る。うるさいやつだ。皆見てるじゃないか。もっと見られろ恥をかけ。
幸子は手足を辺り構わずぶんぶんと振っている。そんな犬かきにも恥じ入りそうな粗末な動きで泳げるはずがない。足はつくはずなのに、やたらめっぽう暴れるせいで、塩素と垢とH2Oの混ざった溶液にもみくちゃにされる。幸子の目が混乱のあまり渦を巻きはじめたため、監視員が騒ぎ出す前に僕は助けに行ってやる。
◆◇◆◇
プールから幸子を救出した後。
「なんてことするの!?」
幸子は怒っていた。
いつもの飄々とした化けの皮をかなぐり捨て、僕を射殺すような目で睨みつけ、今までに無いほど怒っていた。なんだその目は。お前にそんな目で見られると痛快だろ。
「いや、ひらりとするかなって」
しかし、さすがの僕にも罪悪感らしきものは据え付けられていたようで、目を逸らしながら言い訳ともつかない冗談で誤魔化そうとする。
「意味わかんない! 信じらんない!」
ともすれば頭がおかしいようにも見えるほど変な性格の幸子だが、此度の幸子はイカレ幸子ではなく怒れ幸子である。レアだ。常とうって変わって飾らぬ様に、心の中でほくそ笑みながら、僕は謎の言い訳を続行する。
「いつもお前のことを暖簾みたいなやつだと思っててさ。押しても、こう、二つに裂けて回避するかと思って――中からいらっしゃいませと共に鮮魚の匂いがするんだ。な? 分かるだろ?」
「何を分かれと言うの……私はね、寿司屋の玄関口にぶら下がるような、ちゃちい女じゃないの。覚えておきな」
どこの寿司屋に女がぶら下がっているというのだ。誰だそんな馬鹿言うのは。ああ、僕か。
「悪かったよ幸子。次から気をつける。気をつけて押す」
「次からは水気のないところで押しな」
「水気がなければいいのか……」
「押し倒しな。濡れ場と水気は区別します」
いつもの調子の幸子に戻ったようだ。お早いお帰りで。少し残念なような気もするが、しかしやはりこいつには厚い面の皮が一番似合っている。
「しかしな、まさかあんな浅いところで溺れるとは思わないだろ? そりゃ押すさ」
「押すなふざけんな。――私は君と違って身長が低いんだよ。実里君みたいに民草を見下して生きているわけじゃないの。もう少し下々のわたくしどもに気を使った方がいいよ」
「いやでも、1メートルなかったぜ、水深」
この浅さで溺れることは万が一にもないだろうと思ったからこそ、食わず嫌いは食わせて直せ的な要領の荒療治を敢行したのだが、しかし幸子のカナヅチは僕の想定を上回るものだった。
「私ほど器のでかい者になると、浅瀬とマリアナ海溝の格差すらとっぱらえてしまえるの。マリアナだろうとプールだろうと溺れるやつは溺れるんだから似たようなものだよ、同じ同じ。海抜皆平等。わっかるかなあ、わっかんないかなあ」
そんな馬鹿なことを言う。さっきほざいていた“母なる海理論”はどこへいったのだろうか。
「でかいぜ、でかすぎて愚か者に見えるぜ幸子」
「コップ一杯、海の素」
マッチ一本のようなことを言う。
「また幸子の口から新しい名言が爆誕してしまった。幸子一口、恥の素」
追随する僕の嘲りに対し、しかし誇らしげに胸を張る幸子は、なんとも楽しげだ。その動作が恥の上塗りであることに本人は気づいているのだろうか。僕はガキ臭い水着のガキ臭い胸もとを見る。
「薄いなあ。まな板みたいだ」
「なにが? 実里君の生え際?」
「僕はハゲちゃいない。なんだ、まな板みたいな生え際って」
「でも将来が薄幸そうな生え際だよ」
「え、うそ。そんなに幸薄そうな頭かな」
僕は思わず両手を挙げて自分の髪の毛を触る。
「海野幸子流火星決戦拳術、シャコパンチ!」
その瞬間、隙だらけの腹にずしりと鈍痛を感じる。僕の体はくの字に折れ曲がり、決してたくましくない腹筋にねじ込まれた鋭利な拳が、見たくなくても見えてしまう。
たたらを踏み、よろよろと退き、足先から腰上までの関節が下から順番にカクカクと順番に崩折れ、正座のようなみっともない姿勢で伏した後、ボディーブローをかまされたのだとようやく僕は悟った。
「ご、ごげょっ、ゴボ、ぼ、ぼしゃしゃあ」
「地獄のガマガエルが潰れたみたいな声出して、どうしたね、実里君」
「お、おまっ、がやた、った、だろ」
苦痛さめやらぬまま抗議した結果、言葉が寸詰りになってしまう。
「何でそんな舌っ足らずなのかな」
いけしゃあしゃあとシラを切る幸子。
カチンとくるが、しかし今の一撃が効きすぎてまともに口が聞けない。さすが矮小な身なりをして蟹や貝をも砕く甲殻類最強を誇るシャコのパンチ――シャコパンチだ。どこで会得したのか。
「うげえ、めっちゃいてえ……こしゃくにも肝臓狙いやがって、じわじわきやがるぜ。わざわざ休日を潰してカナヅチ克服に付き合ってやっているのに、なんて横暴なやつだ」
まあ、付き合ってやることになった原因は僕にあるのだけれど。
「私のまな板をコケにするのが悪い」
幸子は胡乱な目で睨めつけ、ぶーたれる。
「やっぱ自覚はあるんだな」
「あのね、私のまな板はね、実里君が考えているような、粗末なだけのものではないの。わびさびの極致にある由緒正しき高級まな板なの」
なにやら講釈を垂れ始めたぞ。得意気な演説口調になる。
「例えば、そう、地平線は果てしない。でも地球は丸いでしょ? 一点からではうかがい知れない壮大さに端を発すればこそ、遠く定められたそこは、形としては僅かで迂遠な微曲なれど、悠大な美曲足り得るの。私のまな板様は、そういうまな板様。わっかるかなあ、わっかんないよねえ」
「あー、分かる分かる。近くからでは真っ平らにしか見えないってことだろ? そこまでいくとただの面だ面。適当な字句でまこうとするな」
「シャコキック!」
幸子の右足が飛来する。しかし先ほどとは違い、随分とへなちょこだ。足のか細さ相応の威力しかないため、僕は片手で受け止める。
「お前の敗因はシャコに多くを求めすぎたことだぜ」
ハードパンチャーが聞いて呆れる。
「くっ、今までになくダサい決め台詞だよ実里君!」
「まだ決まってない、極めるのはこれからだ」
掴んだ幸子の足を引っ張り、同時にもう片方の支柱である足を後ろから払う。頭を打つと洒落にならないので、即座に右腕で抱きかかえるように受け止め、しゃがみざまにホールドする。そのままわちゃわちゃと関節を極める。わちゃわちゃは、わちゃわちゃだ。
「押し倒していいとは言ったけども。まさか引っ張り倒されるとは。押すのが嫌なら引いてみろってことかな、実里君」
身動きの取れない幸子が茫然としながら言う。こんな状態でもおどけているのは流石と言えよう。
「道徳の時間で、人の言うことには逆らわない方がいいと教わったんだ」
「なんて非人道的な野郎なの。すてき」
「惚れちゃうだろ?」
「結婚して」
「ことわる」
「実里君たら婚姻の一つや二つでケチケチしちゃって」
「そう簡単に人生の墓場に埋まりたくはないのだ」
「人間どうせ死ぬんだから、私は本望だよ、一緒に埋まれましょう。何度産まれ変わっても二人で埋まれたい。うまれくる輪廻の循環系をうみましょう」
「お前はまず頭が膿んでる」
「褒められると、ひゃあ、ぬれちゃうっ」
「せっかくだから全身でどうぞ」
振り子のように勢いをつけて、ぶん。
幸子をプールに投げ捨てる。いかんせん気味が悪かった。
「ぴっ、ぴひゃあ、ぴぴゃらぴゃあああああああ――」
もがもがと幸子が水底に沈んでいく。
引き上げられることはもう無いだろう。海野幸子よ、永遠なれ。プールという近海の幸となれ。
◆◇◆◇
怒られた。
監視員さんにもの凄い勢いで怒られた。
――プールでふざけるな騒ぐな格闘するなイチャコラするな欲情するな飛び込むな投下されるな云々――、怒鳴られ過ぎて片耳から片耳にかけて突貫されるかと思った。
プールサイドにて、幸子と並んで体育座りしながら反省会をする。
「何がいけなかったと思う? 幸子氏」
「実里君がいけないと思う。実里氏」
「僕はお前のためを思ってこそだな……」
「泳げない人をプールにぶん投げるのが、実里君の思いやりなの?」
「ああ。僕って、ハードボイルドだろ?」
「ただのハードな人だよ。ボイルドが足りないよ」
「ボイルドって固ゆで卵のことだぞ」
「知らなかった。ハードはかたいだから、ということは、固ゆで卵がさらに固くなったものがハードボイルド?」
「お前、今、バーボン片手にトレンチコート着て紫煙を燻らせる固ゆで卵を思い描いただろ」
「ハンプティダンプティ――いや、ハンプティダンディ!」
「もう一度言おう。僕って、ハードボイルドだろ?」
「なんか実里君の背後にハンプティダンディの幻影が見えるよ。おいしそう」
「ふ、旺盛なこった」
僕はエア煙草を指に挟み、エア煙を吐き出す。ううむ美味い、血管に染みるぜ。
「というかさ」
「なんだね、幸子」
「だからね、そもそも、なんで引っ張り倒したの、実里君」
「僕、お前を見てると無性に上げ足を取りたくなるんだ。物理的に」
「なんて非論理的な野郎なの。すてき」
「惚れ直すなよ?」
「結婚し直して」
「ことわ……え、すでに一度は結婚してる設定?」
一瞬、さっきと同じ流れで流そうとしてしまったじゃないか。
「しねえし、してねえよ」
「実里君たら離婚の一つや二つでケチケチしちゃって」
これから離婚して結婚し直そうという設定なのだろうか。言葉を未成熟なままほったらかしにするのが好きな幸子は、相変わらずつかめない。
「さあ、私達の婚儀は、これからだー」
幸子は立ち上がり、荷物置きに置いておいた浮き輪を持って戻ってくると、それを高々に掲げながら宣誓する。
「新婦幸子、新郎実里君と一生を添い遂げることを、この浮き輪に誓います。ぱーんぱーかぱーん、ぱーぱぱーぱーぱぱー」
幸子は間の抜けた旋律を口ずさみながら、浮き輪を大仰な動作で頭から被り、腰までもっていく。
「ねえ、似合ってる? あなた」
「誠に遺憾ながら似合ってる」
「うれしい!」
「それでいいのか幸子」
それが似合ってしまっていいのか幸子。
「この晴れ姿を見せるのは、あなたが最初だと決めていたのよ」
「前に行った海でも見てるけどな。つうか、お前もういいの? 浮き輪でいいのか。泳げないことを一生飲み込んで生きていくのか」
「だってもう、無理だもの。なんかいいよもう。これ以上無謀に突っ込んでも意味ない意味ない。人類に水中世界は早すぎたんだよ、私のアトランティスはアトランティスのまま沈めておくよ」
「いや、お前ほど泳げない人類の方が少数派だからな。圧倒的に」
「君らは人類やめてるから。魚類だから」
「なんて冒涜的かつ短絡的な小娘だ」
開き直りに一切の躊躇いがない。阿呆一直線である。
だがそれがいい。
「こんな憐れな私を竜宮城に導くがいいよ亀さん」
幸子は僕の腕を掴み、思い切り引っ張る。そのちんまい体のどこにそれだけのエネルギーを隠しているのか、僕はされるがままにプールに突っ込まされる。後から幸子も続き、浮き輪をしながら子供のように飛び込む。
「さあさあ、人類三年、お魚八年、浦島百年タマテバコー!」
意味のわからない、意味の無い叫びが平和な市民プールにこだまする。
前の続きをぶらりと書いたもの。続きを書こうかどうかは特に考えていない。書いている途中も特に何も考えていない。