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ロード

作者: 更級

 アパートの階段を下ったところにある、じめじめした日陰がおれの領域だった。

 雅紀は週五日、学校というところに行っているため、おれを使うことはない。学校までバスというものに乗って行くらしい。バスはおれよりずっと大きくて、おれよりずっと速くて、おれよりたくさんの人間を運ぶ乗り物だ。

 雅紀がおれを使うのは、学校が休みの日だった。

 学校が休みだから雅紀はバスに乗らない。だからおれが使われるのだと思う。

 雅紀は朝早くから、バッグと財布と携帯型デジタル音楽プレイヤーを持っておれにまたがる。おれは長距離を移動するのに適していないが、雅紀はいつも何十キロもの距離を走る。ヘッドフォンを耳にかけて、燦々と照る陽射しの中、街中を抜けて、サイクリングロードを走り、端を渡って山を越え、ケツが痛いと愚痴りながら雅紀はおれを漕いでいく。

 雅紀はすっかり疲れてしまうが、それはおれも同じだった。

 太陽が夕陽に変わる頃、雅紀はくたくたの足でおれをゆっくり漕いでいく。おれもくたくただから、ゆっくり濃い手でくれるのはありがたい。景色がゆったりと流れていき、夕陽の色に着色された風景は朝とはまるで違う世界のように見える。

 疲れているけれど、おれはその景色を見るのが大好きだった。

 それは雅紀も同じだと、おれは思っている。

 雅紀は五日間学校に行き、休みになるとおれを使う。

 おれは、ずっとその生活が続くと思っていた。

 しかし、次第に雅紀はおれを使わなくなっていった。



 学校から帰ってくる雅紀が、なんだかすごく疲れた顔をするようになった。それは、おれと一緒に遠くまで行ったときの顔とは違う種類の疲れだった。

 ──どうしたんだ? 顔色が悪いぞ?

 雅紀にそう声を掛けてやりたかったが、おれは声を発することが出来ない。うつむいてアパートの階段を上っていく雅紀の背中を、無言で見ていることしか出来ないのだ。歯痒かったが、おれは人間ではないのだから仕方がなかった。

 そういう日が何度も続くようになった。

 やがて、そういう日ばかりになった。

 学校で何かあったのかもしれない──そう思うたび、おれは自分の不自由さに激しい憤りを感じた。せめて自分の意思で動くことが出来れば、雅紀を落ち込ませたやつをおれのタイヤで轢いてしまえるのに。よくもやってくれたな、と怒りをぶつけることも出来るのに。

 しかし、おれは雅紀が漕いでくれなければ動くことなど出来ない。

 詮無い思考だ。

 声を掛けることも出来ないから相談にも乗れず、動くことも出来ないから原因を探ることも出来ない。おれに出来ることは、雅紀を望む場所に運ぶことだけだ。

 ならばせめて、雅紀にはおれを使ってほしかった。

 おれに跨って、また遠くまで行けばいい。たくさんの景色を眺めながら、晴れた空の下を走ればいい。あの頃みたいに、疲れた顔をしながら帰路につけばいい。それがおれの存在意義で、それがおれと雅紀の関係なのだから。

 しかし、その声は、決して雅紀には届かない。

 そうしておれは、アパートの階段を下ったところにある、じめじめした日陰から動くことがなくなった。

 雨に打たれ、雪をかぶって、陽射しに色褪せ、節々が錆びていき、タイヤの空気も抜け、強い風に倒されて、長い長い時間が経った。あの頃と比べて、近所の景色も変わった。

 廃棄されることはなかったけれど、きっと誰の目にも捨てられたものとして映ったことだろう。

 時折、誰かを乗せて道を走る同属と目が合うことがあった。

 やつらは皆、憐憫と「自分もいずれこうなる」という恐れが入り混じった視線でおれを見た。おれはというと、そいつらを無感動に見た。

 羨ましい、とは思わなかった。思うのはずっと前にやめた。

 雅紀と一緒にどこか遠くへ行きたいと、そんなことを思うのも止めた。思った分だけ身体 が痛んだ。錆びて伸びきったチェーンが痛んだ。空気が抜け、ぼろぼろになったチューブが傷んだ。すっかり鳴らなくなったベルが痛んだ。いつ折れてもおかしくないようなスポークが痛んだ。全身が悲鳴を上げた。


 ──もう走りたくない。


 おれの心はそう叫んでいた。それはきっと、死にたい、と思うことと同じだった。

 それ以来、おれは何も考えないことにした。

 声を発することも出来ず、動くことも出来ず、そのために雅紀の力になってやれなかったおれは、自分の手で死ぬことも出来ない。だったら、何も思わず静かに朽ちるのを待つが利口だと思った。

 物は物らしく、押し黙っていればいい。

 そう思い、心の中を真っ暗にしていたある日。

「すっかり錆びちゃってるな」

 雅紀の声がした。

 サドルを撫でながら、雅紀がおれを見下ろしていた。

「もう一回、走ろうか」

 夢かと思った。けれど、人間じゃないおれは夢を見ない。だから、これは紛れもない現実だった。そこかしこが錆びて、もはやまともに走れないおれなのに、雅紀は走ろうと言ってくれている。

 世界中におれほど幸せなやつはいないと本気で思った。

 おれが人間なら、きっと涙をこぼしたに違いない。



 雅紀は、おれを修理に出した。

 フレームはぴかぴかに磨かれ、タイヤとホイールはまるごと新品に取り替えられ、チェーンもチェーンホイールごと新しいものに換えられた。まるで生まれ変わった気分だ。

これなら、どこまでも走っていける。

 どんなに遠くであろうと、雅紀と一緒に走れる。

 学校が終わって、雅紀が帰ってきて、その日の夜が明けて、朝が来た。雅紀は朝早くに起きてきて、ぴかぴかになったおれを見下ろした。

 バッグと、財布と、携帯型ポータブル音楽プレイヤーを持っている。

 タイムスリップしたような気分。

 雅紀はおれに跨って、走り出した。

 いつもとは逆の方へ曲がり、ヘッドフォンから流れる歌を口ずさむ。天気は快晴、雲ひとつない、落ちてきそうなほど広い青空。風は涼しく、空気は暖かく、おれは転がるように道を走る。

 町を抜け、サイクリングロードをひた走り、トンボと並走しながらあぜ道を抜け、見知らぬ市から市へ、隣の県へ、雅紀は走り続ける。おれのハンドルを叩きながらリズムを取って歌を歌い、見たこともないような、どこかで見たような、既視感と未視感の入り混じった世界を駆け抜けていく。

 夜を越えて、朝が来て、何度も野宿をして、風が吹けば倒れそうなタバコ屋の軒先で休憩をしたり、長い坂道を風と一緒に下ったり、地平線が見えそうな景色に息をついたり、そんな日ですら容赦なく時間は過ぎて、忘れてしまうほど長い距離を、いくつもの町を、いくつもの夜を通り越えた。

 いつしか、潮の香りがしはじめた。

 おれは海を見たことがなかったけれど、何となくこれが潮の香りなのだと思った。

 雅紀は漕ぐスピードを緩め、惜しむように進む。

 もうすぐ終わるのだ、とおれは感じた。久しぶりに訪れた充実した幸せの時間も、もうすぐ終わる。こうして走り続けている道も永遠に続いているわけではない。雅紀が歩く道も、おれが雅紀を運ぶ道も、永遠に続くわけではない。

 道はどこかに繋がっているけれど、どこかで終わっているのだ。

 おれと雅紀の終わりは、きっともうすぐだ。

 雅紀は汗だくになりながら坂を上った。新品にしたはずのチェーンは、酷使されたせいですっかりぼろになっており、悲鳴を上げながら回った。おれは「がんばれがんばれ」と声なき声で叫ぶ。が、不意にその声が引っ込んだ。雅紀が、坂を上りきった。

 坂の頂上。

 その向こうに、海が見えた。

 日本海の荒波だ。激しい波の音と、冷えた風がおれのフレームを打つ。雅紀は透明な表情をして、海沿いの道を走った。

 陽が沈みはじめていた。

 からからとチェーンは回り、ヘッドランプを点けた車がおれたちを追い越していく。雅紀はぼそぼそと、半ば呟くように歌を口ずさんでいた。同じ曲を何度も、何度も何度も、喉が枯れても歌っていた。

 雅紀は、やがて止まった。

 おれから降りて、大きく息をついた。夕陽は沈みきって、薄闇の帳が辺りを覆っている。空には月が浮いている。大きな波音が聞こえる。雅紀は振り返って、サドルを撫でた。

「お疲れさま。いままでありがとうな」

 おれは、答えた。

 ──なんのことはない。

 雅紀は微笑を浮かべ、おれから離れた。海の方を向いて、一度も振り返らず、真っ直ぐ歩いていった。その足音も、次第に波音がかき消して聞こえなくなる。おれは雅紀が歌っていた歌を心の中で響かせながら、じっと夜が明けるのを待った。

 おそらく雅紀は戻ってこない。

 ここが雅紀の道の終点なのだ。

 そして、おれの終点もまた、ここだった。

 声を発することも出来ず、動くことも出来ないならば、雅紀がいなくなったいま、おれは進むことが出来ない。しかし、それでいいのだと思っている。雅紀を乗せて走ることがおれの存在意義なのだから。

 何度も越えてきた夜のうちのひとつ。

 それが、次第に明けてきた。

 雅紀が歩き、消えていった方角を見てみれば、朝日に照らされた海が見えた。断崖に散る波飛沫がきらきらと輝き、それは目を奪われる景色だった。

 ここが、こんなにも美しい海を望める場所が、雅紀とおれの最後の場所。

 こんなところまで、おれは来た。

 走り続けることが出来て、おれは幸せだった。

 


 道の終点、そこで見た景色を最後として、おれは静かに思考をやめた。

あとはじっと待っていればいいだけだ。

 やがて時がおれを蝕み、朽ちるその瞬間を、夢見ながら。



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