第6話 商都・南陽へ
これから向かう都までは、確か半刻ほどと言っていた。半刻というと、春黄菊を大量に摘んで洗って干すぐらいか、それ以上の時間だ。
庶民の家には時間を測る道具はない。大きな都では鐘が鳴らされて時を知る。広い農村では鐘の音も隅々までは届かないだろう。
馬車はまっすぐな道を走っていた。右も左も小麦畑だ。
「さきほどは素敵な言葉を教えてくださり、ありがとうございます。帰ったときは何と言うのでしょうか」
「ただいま。おかえりなさい、と返ってくる」
「ただいま、ですね」
頷く。柳さんを迎えるときは、おかえりなさいと言うようにしよう。
駿は笑った。
「まるで物心ついたばかりの子どもみたいだな」
「生まれたてみたいなものです」
高い塀に囲まれた宮殿を出て、違う世界で生きていくのだ。知らないことばかり。だけど母が教えてくれたことは、後宮を出ても無駄にはならない。
私は駿の横顔を見た。
「なぜ後宮を出たのか聞かないのですね」
しかも公主は死んだことになっている。
「聞いたら教えてくれるのか」
「はい」
こくりと頷く。
駿は苦笑した。
「あっさりしてるなあ。そこは普通、秘密にするところだろう。俺とは昨日会ったばかりだし」
「駿には公主だと知られてますし。無理に聞き出すような人ではないでしょうが、今日もいろいろとお世話になりますし、聞かれて拒否はできません」
「後宮のことなど俺が聞いてどうなるというものでもないだろう。話したくなれば話せばいい。それよりも、客が来ない茶坊にこだわってる理由の方が興味深い」
「それでしたら、母が茶坊を開くのが夢で、いろいろ話を聞いていたからです。どんな店にしたいか、脳裏に思い描けるほど細かく聞いていました」
「それで花茶とか知っていたのか。でもそれは母親の夢だろう。雪羅の夢ではない。雪羅はこれから自分の道を歩かなければならない。母親の代わりじゃないんだ」
返す言葉が浮かばなかった。
視線を前に戻した。艶々とした馬の背中を見つめる。
母の夢を叶えたい。
それが私の夢、というのはおかしいだろうか。
「……私は後宮で生まれ育ちました。後宮を出るときは結婚するとき。決められたところへ行くだけ。それ以外の道など考えても意味がなかったんです」
子どものころは深く考えずに済んだ。素敵な王子様に嫁ぐという夢物語めいた願望もなく、話し上手な母と共に、植物を興味深く眺めたり、庭を駆け回ったりして、自由に振る舞っていた。それ以外の世界を知らなかったから、狭いとも思わなかった。
今よりずっと笑っていたはずだ。
母が亡くなって、後宮内での強い風当たりから母に守られていたのだと知った。
自分の夢がないなんて、駿は呆れているだろうか。
顔は正面に向けたまま、そっと横に視線を向ける。駿は少し考えていたようだが、笑みを浮かべた。
「まあ、生まれたてみたいなものなら、これから考えればいい」
駿の方を見た。
「はい!」
視線が合う。
「うん、それくらい笑った方がいい。茶坊で客をもてなすんだろ。冷たい美女というわけにはいかない」
「美女ではないですが、冷たいのは確かに良くないです。笑う練習をします」
店舗や菓子の準備だけではなく、接客する人間の態度も重要だ。
手のひらを頬に当て、ほぐすように動かす。その様子を駿は愉快そうな目で見ていた。
「雪羅は氷みたいな冷めた人間ではなく、快活で面白いやつだと俺は思うんだけど」
「面白い、ですか?」
快活は、そうかもしれない。母が亡くなる前まではそうだった。
「母親の賢妃が面白いだろう。後宮にいるのに茶坊を開くのが夢なんて」
「ああ、確かにそうです。とても話し上手でしたし」
「死んだことにして後宮飛び出して、茶坊で働く公主もかなり風変わりだ」
「それは……そうかもしれません」
前代未聞だろう。
後宮で虐げられるなど、きっと私に限ったことではない。宮廷は男女問わず権力闘争の場だ。その中で運命を受け入れて、女性は嫁いでいく。婚姻こそが新たな世界への脱出だと信じて。
だけど私は運命を受け入れられなかった。
母が亡くなる前の自分が本来の姿ならば、取り戻してもいいのだろうか。この世界でならそれが許されるかもしれない。
素直に、思うまま喜んだり、驚いたり。
道路の脇に建物が多くなってきた。馬車は道を左に曲がった。
「さっきの道をまっすぐ進めば国都の涼煌。これから向かうのは南陽。港が近くて他国からの荷も入ってくる」
頭の中で地図を思い浮かべた。
公主は皇子のような手厚い教育は受けない。嫁ぎ先で恥ずかしい思いをしない程度の教養を身につける。地理もそのひとつだ。
「ということは、茶坊があるのは湖周村でしょうか」
「そう、よくわかったな」
倫国は南北に長く、涼煌は東寄りだ。東に真っ直ぐ進むと隣国に出る。その少し手前に湖周村はある。人口は少ないが良質な小麦の生産地として知られている。
脱出のために乗っていた馬車は隣国へ向かっていたのだろう。荷台で眠り込んでしまったら、国境で積荷を調べられたかもしれない。湖周村で降りられて良かった。
「南陽は海路の門と呼ばれている商業都市ですね。涼煌から沙江という川を下ると南陽に着くので、荷を積んだ舟が多く行き来していると聞きます」
北西にそびえる山から流れてくる水は、国を縦断して南東の港に注がれる。大きな都は川沿いに多い。
景色が変わってきた。道沿いは建物が並び、畑は見えない。人が行き交っている。店先に並ぶ野菜や果物の種類も豊富だ。
「駿に聞こうと思っていたことを思い出しました」
「何?」
「茶坊で茶以外の物も出さなければお客様が来ないと思うのですが、以前は何を出されていたか具体的にご存じですか。きれいな色形の点心を出していたとお客様にお聞きして、作ってみようと考えてるのです」
「ああ、そういえば点心は作ってた。いろいろな花の形をしてたな。ほかは……俺が食べたことあるのはねじねじかな」
「ねじねじ?」
「麻花巻。小麦粉をこねて揚げた、螺旋状の菓子。子どものころ大好きで、ねじねじって俺は呼んでた。茶坊でも出してって頼んだら作ってくれて」
小麦粉を揚げるだけなら、習得にあまり時間は掛からないかもしれない。
「あの、点心や麻花巻の作り方を教えてもらえないでしょうか」
駿は少し考え込むような表情をした。
「……簡単な手順なら俺でも教えられるけど、材料や必要な道具も実際に見た方がいいかもしれないな。うちの調理人に聞いてみよう」
「よろしくお願いします」
可能なら必要な物を市場で購入して、早速練習したい。
二階建ての建物が並ぶ通りに入り、馬車が大きな建物の前で止まった。
「ここが俺が働いている客桟。馬車を裏に止めてくるから、先に降りてここで待っててくれないか」
「はい」
頷いて馬車を降りた。駿は馬車を走らせて建物の横を曲がった。その姿を見送ってから、私は客桟を見上げた。
白壁に赤い屋根瓦。窓枠も赤色で、二階には六つの窓が並んでいる。軒下のところどころに赤い提灯が下がっていた。
正面の入口は開かれていて、話しながら人が出てくるところだった。入っていく客もいる。荷物の少なさから宿の利用ではなく一階で食事をする人たちだろう。繁盛しているようだ。
扉の上には『水望客桟』と書かれた看板が掛かっていた。
客桟の正面には薬舗、その隣は衣装の店で女性が入っていく。今の流行りは腰よりも高い位置から広がる形で、淡い黄色や桃色など明るい色合いだ。裕福な人に限らず若い女性は多く着ている。これくらいの都市ならば、私が着ている衣装でも悪目立ちはしないけれど、上質な布地や手がかかった刺繍は、特に女性の目を引いてしまうだろう。目立つようなことは避けたかった。
駿が戻ってきた。
「お待たせ。中に入ろう」
「はい」
入口から入る。広い店内は客でいっぱいだった。昼間なのに酒瓶が並んでいる卓が多い。
店内を横切って奥へと入っていく。左手に調理場があり、鍋を煽り火が爆ぜる音が聞こえた。
突き当たりの扉を開けると、住居らしい空間になっていた。卓には六脚椅子があり、その一つに若い女性が座っていた。
食べていた包子を置いて、勢いよく立ち上がる。
「あ、この人が雪羅さん?」
駿が「そう」と答えたが、駿には目も向けず私の方に来て両手を取って握った。
「うわあ、本当に色白で綺麗。こういう顔に生まれたかったな。あ、私のことは恵って呼んでね。雪羅って呼んでいい?」
興味津々といった様子で、大きな瞳がきらきらしていた。編み込んだ髪を高い位置で一つにまとめている。
「よろしくお願いします。恵」
同じ年頃の女性とこんな風に話したことはなく、鼓動が早まる。
「そんな丁寧な言葉使わなくていいよ。家出して元察おじさんの茶坊で働き始めたんだって?」
私は駿の方を見た。駿は小さく頷く。公主だとはさすがに話せないから、上手く話を作ってくれたのだろう。
恵は顔を近づけてきて小声で言った。
「もしかして、無理やり結婚させられそうになった? 良家のお嬢様っぽいもんね。それで家を飛び出したとか」
この部屋には三人しかいないし全員に聞こえるので、小声で話す意味はあまりない。
「そうではないのですが……」
では、どういう理由なら納得してもらえるのだろう。
恵は手のひらを大きく横に振った。
「ああ、いいよ無理に話さなくて。それより着てない服いくつかあるから、適当なの持っていって」
「申し訳ありません。ちゃんと稼げるようになったら服を買って、借りたものは洗ってお返ししますので」
「部屋に来て」
手を軽く握られて、引かれていく。
「あの、食事中だったのでは。終わってからで構いませんが」
「休憩に入ったばかりだから、時間はあるので気にしないで。後で食べる」
「すみません」
駿の表情を確認する余裕もなく、奥へと連れられていった。
廊下に出てから個室に入った。狭い部屋だが寝台と小さな卓がある。寝台には小花の刺繍がほどこされた桃色の布が掛かっていて、卓上には子猫の置物が置かれていた。溌剌としているが、可愛らしい物が好きらしい。
「体型そんなに変わらないから、たぶん大きさは合うと思うんだよね。でも一応着てみて」
恵は部屋の隅に重ねられていた竹製の行李の蓋を開けた。
「いつもと違う色合いもあった方がいいかなって買ってみたものの、あまり似合わなくて」
差し出されたのは桔梗の花のような薄紫色だ。恵が着ているのは濃緑の仕事着で、男性と同じく上の丈は短く、下は二股に分かれ足に沿う形だ。行李の中に入っているのは華やかな色合いの流行りの形で、出かけるときは女性らしい装いなのだろう。
薄紫の衣装を受け取る。
恵は背中を向けた。
「こっち向いてるから、ささっと着替えて」
「はい」
食事を中断させてしまっていることを思い出す。急がなければ。
恵はそのまま行李の蓋を差し出してきた。
「あ、脱いだ服はこちらにどうぞ」
受け取って床に置き、脱いだ服を入れていく。
上は白色で襟は前で重ねる。そこに薄紫の裳を重ねて着た。裳の上部は帯状に濃い紫色になっている。
「着た? 振り向いていい?」
そわそわしているような口調だ。
「どうぞ」
恵は勢いよく振り向いた。
「うわっ、すごく似合う! 色白の肌が輝いて見える。私、肌が焼けてるから、こういう色なんか合わないんだよね。衣装も雪羅に着てほしいって言ってるわ」
「それは幻聴です。恵にだって合うと思いますよ」
恵は、あははと声を出して笑った。
「幻聴ね。雪羅もなかなか面白い返しするね。お嬢様なのに家出するだけあるわ」
「面白いですか?」
「面白い面白い。それが合うなら、ほかのも着られるね。丈もちょうどいいし。じゃあ、これも持っていって。一着じゃ洗濯してるとき困るでしょ」
黄緑色の衣装を差し出される。
「ありがとうございます」
「その丁寧口調やめてって言ったでしょ。やめてくれないと貸さないよ」
差し出した衣装を高く掲げた。
「あ、お願いです……じゃなくて、お願い。貸して」
「よし。じゃあ、着替えずにその服は着たまま帰るといいよ」
恵は満足そうな表情で衣装を手渡したが、視線が私の手首の方に向けられる。
「その腕輪、素敵。翡翠?」
私は頷いた。
「ありがとう。母の形見なの」
「ね、触ってもいい? 翡翠ってなかなか見る機会なくて」
差し出された手を避けるように、腕を引いた。
どうしよう。
気を悪くしたかな。
でも――。
恵は一瞬目を見開いたが、不快そうな表情は全く見せなかった。
「そうだよね、形見に触れられるのは抵抗あるよね」
「ごめんなさい」
どうしよう。
恵は気にしていないかもしれない。だけど、せっかく友達になれそうなのに、拒絶するような態度では、この先も親しくはなれないかもしれない。
それは嫌だ。
本当のことを言うしかない。
「ここだけの話なんだけど……」
「え、何?」
恵はわくわくしているような表情だ。女性は「ここだけの話」が大好きだ。
「この腕輪、有名な道士だった曽祖父が特別な力を込めた物で、持ち主を守ってくれるだけではなく、未来を見せてくれる」
「え」
恵は口を大きく開けたまま硬直した。
とんでもない嘘つきと思われてしまっただろうか。
恵は顔を近づけて小声で尋ねた。
「未来が見えるの? 雪羅の?」
「腕輪に触れた人の未来の場面が、私の頭の中に浮かんでくる」




