第5話 お別れ。そして、知られてしまう。
阿花を抱きしめていた腕を緩める。阿花は不安そうな表情で英さんの方を見て、ゆっくりと戻ってきた。
「母上」
ぎゅっと足にしがみつく。慰めるように。
斉氏は立ち上がった。
「英を不安にさせたことは謝る。私が悪かった。帰宅が遅かったのは仕事が忙しいのもあったし、仕事後に通っていたのは按摩師の女性の家だ」
英さんは「え」と声をあげた。
「近場にあった医館が後継者が見つからず閉館して、うちに来る病人が増えて毎日疲れていた。身体の疲れを取りたくて、仕事後で遅い時間になってしまうのを、頼んで特別にお願いしていた」
「……身体を揉むぐらい、私じゃ駄目だったの?」
斉氏は首を横に振る。
「少し揉めば治るという程度の疲労ではないし、特別に腕が良い按摩師を探したんだ。育児や家のことは英に任せているのに、夜は長時間私の身体を揉めとは言いにくかったし」
「……ずっとそっけなかったのは、疲れてたからなのね」
「自分では家では変わらず接していたつもりだったんだが……。ちゃんと話すべきだったな」
斉氏は英さんに負担をかけないように、すべて隠していた。英さんも何も言わず家を出た。二人に足りなかったのは愛情ではなく、正直に気持ちを打ち明けることだったのだろう。
「私も、出ていく前に話を聞くべきだったね。仕事で疲れているのに察することができずごめんなさい」
英さんは反省というよりも、少し安堵したような表情をしていた。憎しみあって喧嘩して離れたわけではない。阿花のためにも夫婦一緒に暮らせるのが一番だ。
「いや……私が悪かったんだ。事情があるとはいえ女性の家に通っていた。静かな時間で、心身共に癒やされていた。他所でそんな風に思うなど英は不快だろうと、どこか後ろめたくも思っていた。だから話せなかったんだ。本当にすまない」
阿花が二人の顔を交互に見た。
英さんの手を引っ張り、斉氏の方へ連れていく。
「仲直り! 仲直りしたら、握手だよ」
斉氏の手も取り、二人の手を重ねた。
夫妻は顔を見合わせて、そのまま強く握る。
斉氏が阿花を見て微笑んだ。
「阿花も」
満面の笑みを浮かべた阿花が二人の手に自分の手を重ねた。
――良かった。
畑の見回りに出ていた柳さんが帰ってきて、様子を見て目を見開いた。英さんの母親が柳さんに頭を下げる。
「英がお世話になりました。ご迷惑おかけして申し訳ありません」
「いや、二人が来て私は楽しかったですよ。老人の一人暮らしが続いていたのが、最近急に賑やかになって。少し若返りました」
そう言って笑った。
英さんは阿花の手を引いて母親の前に立った。
「母上、ご心配おかけして申し訳ありませんでした。改めて紹介します。娘の阿花です」
「……阿花」
ずっと険しかった母親の表情が緩む。
不思議そうな顔をしている阿花に、英さんがゆっくりと言った。
「阿花のおばあさま。おうちにいるおばあさまの他に、もう一人おばあさまがいるんだよ。私を育ててくれた人」
「もう一人の、おばあさま。母上の母上?」
「そう」
阿花はうれしそうに祖母の方を見た。
「おばあさま!」
呼ばれて愛おしむように阿花の頭を撫でた。
「阿花」
「おばあさま、一人増えた! やった!」
茶坊は笑みに包まれて、なごやかな空気に満たされた。
※
斉氏が乗って来た馬車で、母娘は帰ることになった。英さんの母親も同乗し、南陽に立ち寄るという。
阿花は私の手をぎゅっと強く握った。
「雪羅、一緒に行こ」
「阿花と離れるの寂しいけど、私の家はここだから」
「……そっか」
今にも泣きそうな表情だ。
「いつでも遊びに来てね。姉妹でしょ」
「うん、姉上!」
英さんも私の手を握った。
「いろいろありがとう。自分で考えて稼いで生きていくのって大変なんだって、雪羅を見ていてわかった。雪羅ならこの茶坊やっていけるよ。今度は客として来るね」
「こちらこそ、英さんのおかげで思いついたこともあって、いてくださって助かりました。またぜひ来てください」
「うん、またね」
手を振って母娘が客車に乗り込んだ。ほかの二人も続く。
その様子を駿が見ていた。
「駿は、一緒じゃなくていいんですか」
「俺は口を挟める状況じゃなかったし、ねじねじでも食べて帰らないと、ここまで馬車出した甲斐ないだろ」
私は思わず吹き出した。
馬車が遠ざかっていく。客車の入口にかけられた布を上げて、阿花と英さんがいつまでも手を振っていたが、それもやがて見えなくなった。
「では、ねじねじをお出ししますね。お客様」
「よろしく」
二人と柳さんとで店舗へと戻った。
長机の真ん中に駿が座っていた。私が茶を淹れる様子を無言で眺めている。柳さんは一休みするからと自室に向かった。
「上手く収まって良かったですね」
「そう。英がどうするのか気になってたから。俺も少し肩の荷が降りた」
姉たちに何ができるのかと考えていたのだろう。両親に話すなという英さんの頼みを優先しつつ、物事が上手く進むための機会を逃さなかった。おせっかい過ぎず、他人事でもなく。常に人をよく見ているのだろう。
駿は軽やかだけど面倒見が良い。手助けのために動きたいというよりも、情が深いみたいだ。
私の面倒を見てくれているのは、柳さんのためだ。茶坊を存続させるため。それはわかっている。だけど、利用されているという感じはしない。根本の動機が優しさからくるものだからだろう。
湯を注いだ蓋碗を駿の前に置いた。麻花巻も皿に乗せて、隣に並べる。
「どうぞ」
「いただきます」
駿は麻花巻を掴んで頬張った。
「うん、やっぱり美味い。毎日食いたいな」
「じゃあ、毎日来てください」
微笑みかける。
さすがに毎日は無理だとわかっているので、冗談みたいなものだ。
馬車の音が聞こえてきた。店舗前の道路を時折通り過ぎていくが、止まった。来客だろうか。
常連客か、看板を目にして興味を持ってくれたのか。
いらっしゃいませ、と声を出す心の準備をする。第一声で店の印象は決まる。
男性客が店に入ってきた。
その姿を見て、息を呑んだ。
長い黒髪に、全身白色の衣装。膝下まである衣装は遠目に見ても仕立てが良く、高貴な人のみがまとうものとわかる。
華やかな顔立ちは、よく知っている人のものだった。
――逃げられない。
後ずさり、棚に背中をぶつけた。男がこちらに視線を向ける。その目が大きく見開いた。
「……どういうことだ」
一瞬足を止めたが、近づいてきた。その歩調が早くなり、駆けるような速度ですぐ近くまで来た。長机を挟んで対峙する。
私は視線を逸らした。
「人違いです」
言ってから、失敗したと気づく。相手はまだ何も具体的に言っていない。
「どうしてここにいる。いや、なぜ生きているんだ。私は貴女の葬儀に参列したのだ。なぜ――」
私は目を瞑り、天を仰ぐように上を見た。
終わった。
見つかってしまった。
目の前にいるのは、幼いころ何度も顔を合わせた朱千帆。朱氏は皇室の血を引くので、皇族の集まりには必ず来ていた。人違いで押し通せるほど遠い他人ではない。
連れ戻されるだろうか。
だけど葬儀までしているのに、どうなるのだろう。以前いた場所にただ戻るのではない。もっとひどい状況になるのでは。
指先が冷たくなり、微かに震える。
「雪羅、私は幻を見てるのか。……貴女が亡くなったと思いたくないばかりに」
幻です、で通せるわけがない。
私は首を横に振った。
言葉が出てこない。
言い訳が思いつかない。
がたり、と音がした。駿が立ち上がっている。その場で膝をつき、胸の前で手を重ねて礼をする。
「朱将軍にご挨拶を」
「……柳駿。なぜここに」
朱千帆は呆然としている。
私も、頭が混乱して今にも気を失いそうで、だけど倒れるわけにはいかなかった。
気づかれてしまった、そのことで頭がいっぱいで恐怖すら感じているのに、駿と朱千帆が顔見知りとか、何がどうなっているのか。
私が生きていることを知られてしまった。
逃げられない。
逃げ場などどこにもないのだから。




