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偽り咲く花神さまの後宮  作者: 淡雪みさ


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6/12

嫌がらせ



「無理やり、部屋に入ってこようとされて……! わたし、怖くて……」


 ぎゅっと唇を噛みしめ、俯く栗萌の瞳には、恐怖からの涙が溜まっていた。


「あの人はずっと、わたしに指一本すら触れてこなかったのです。わたしの気持ちをずっと尊重してくださっていたのに、急に別人のようにわたしの苦手なことを躊躇なく……! あんなの、花神様じゃありません!」


 息を詰めて聞いていた澄珠は、胸の奥がぞわりと粟立つのを感じた。

 千夜は嫌がる女性に無理やり迫ったりなどしない。他所の土地には、契約して花嫁候補となった時点で女を我が物顔で手荒に扱う神もいるそうだが、千夜はそのような神ではない。澄珠のことも、いいように扱っていい自分の物ではなく、尊重すべき幼なじみとして仲良くしてくれていたように思う。


 場の空気が一際重く沈んでゆく中、澄珠は栗萌の手を取った。


「そのような怖いことがあったのに、教えてくれてありがとうございます。私も、同じことを感じていました」


 栗萌の涙がぽたりと床に落ちる。


「今の千夜様のことを探りましょう。きっと、何かご事情があるに違いありません」


 声に出すことで、自分にも言い聞かせる。千夜がただ気まぐれに人が変わったとは、どうしても思えない。

 栗萌は強く頷いた。その目にはまだ涙が浮かんでいたが、先ほどまでの怯えは少し和らいでいた。

 二人は約束を交わした。


 ――今の花神の真実を、必ず見つけ出すと。


 その後、栗萌の淹れてくれた香ばしい焙じ茶と、小豆の甘いおまんじゅうを口にした。その過程で、澄珠はようやく気を緩めた。栗萌とこうして他愛のない話を交わすのは初めてだったが、気の強い妹とはいい意味で異なる彼女とは、話が合った。


 そして、時刻は夜を迎える。

 澄珠が栗萌の屋敷を出た頃には、空にまん丸の月がかかっていた。銀の月明かりが、静まり返った後宮の回廊を淡く照らしている。

 本来であれば、夜の移動には護衛の神官がつくはずだった。けれど、今はそれもない。屋敷付きの女中たちも、神官も、「澄珠は選ばれない」と噂して距離を置き始めていた。気付けば、澄珠の周囲には人がほとんどなかった。皆、澄珠に回す人手を減らしているのだ。

 寂しさが胸に差し込む。

 歩きながら、澄珠はそっと息をついた。ふと、視界の隅に、黒く濁った気配が揺れているのを感じる。悪しきものの瘴気だ。後宮全体を包む結界が存在しているはずなのに、夜になるとこうして闇が忍び寄ってくる。


(……こんなこと、以前はなかった)


 千夜の力が安定し、神座に定着してからは、この後宮は常に清浄に保たれていた。だからこそ、新しい花嫁候補を迎えることができたのだ。


 けれど今は――その結界すら、どこか薄れている気がする。


 澄珠は、足を止めることなく、素早く印を結んだ。


「……雲隠れの術」


 呟くと同時に、身体が月光に溶けるように揺らめく。気配を消し、足音すら残さず、澄珠は早足で自らの屋敷へと戻っていった。




 翌朝。

 澄珠は薄い夢の縁から引き戻されるように目を開けた。障子の向こうに朝日が静かに射している。けれど、胸騒ぎがした。静けさが不自然なのだ。女中たちの足音が一つも聞こえない。

 身支度を整え、そっと襖を開ける。次の瞬間、つんと鼻を刺す、耐え難い悪臭に思わず息を呑んだ。


「……え……」


 廊下には、土混じりの犬の糞と、腐った木の葉、折れた簪、ぐしゃぐしゃにされた書状の切れ端など、ごみとして捨てられていたものをかき集めたかのような汚れ物が、無造作に撒き散らされていた。それらは巧妙に、澄珠の部屋の前だけを狙って配置されている。まるでこの部屋の主を部屋から出られないようにするかのように。

 女中たちが少し離れた場所に集まって、口元を手で押さえながら噂しているのが見えた。


「ねえ、もしかしてこれって、花神様のご指示なんじゃない」

「澄珠様が琴様に嫌がらせをしていたから、その報復なのよ」

「やだわ、汚い。私こんなところ片付けたくない」


 澄珠は何も言わず、ただ静かに箒と塵取りを取りに戻った。

 澄珠の起床に気付いても、女中たちは誰一人手を貸さない。ただ顔をしかめ、距離を取るだけだった。

 澄珠は袂をまくり、震える手で一つ一つ、汚れたものを片付けていく。心まで汚れていくような感覚が指先にまとわりついた。


(……これもきっと、琴の仕業だよね)


 こんな卑劣で陰湿なことを思いつくのは、あの優雅で残酷な美しき妹しかいない。琴が女中たちに命じたか、あるいは、千夜にあらぬことを吹き込んで、報復を促したか。どちらにせよ、こんなことがずっと続くのならば、恐ろしいことに変わりはない。



 廊下を全て掃き終えた頃には、すでに陽が高く昇っていた。手を洗っても、袖を替えても、自分に染みついた悪臭が落ちないような気がしてならなかった。

 気が付けば、足はまた花庵へ向かっていた。

 誰にも会いたくなかった。誰かの目に映る、こんな惨めな自分を想像するだけで、全身が冷たくなる。

 火事で崩れたままだったはずの花庵へと続く細道を、草をかき分けながら進む。焼け跡の焦げた匂いも、煤けた柱も、記憶の中ではまだ生々しかった。


 ところが。


「……嘘……」


 思わず足が止まった。


 そこにあったのは、かつての建物ではなかった。いつの間にか建て替えられた様子の花庵が、そこに佇んでいる。

 真新しい木の香りが風に乗って鼻をかすめる。繊細な彫刻が施された、澄珠の体重で崩れていたはずの屋根。


 昨日訪れた時には、確かに焦げ跡がそのまま残されていたはずだったのに。誰がいつ、こんな立派なものを?

 嫌な予感が脳裏を過ぎる。まさか、誰かがここを何かに使おうとしているのだろうか。そうしたら、澄珠の唯一の居場所はなくなってしまう。


 戸惑いながら足を踏み入れると、花庵の周りに色とりどりの花が咲いていた。まるで、失われたはずの季節が戻ってきたかのようだ。


 唖然としていると、ふと、背後から柔らかな声がした。


「おはよう。また来てくれたんだね」


 驚いて振り返ると、昨日澄珠の体を受け止めたあの美男子が、煙管をふかせながら立っていた。




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