二番目の花嫁候補、栗萌
その時、廊下の奥、太い柱の陰から、小さな声が漏れ聞こえた。
「お、お、おかしい……絶対におかしい……あんなの花神様じゃない……頭を打ってしまわれたとしか思えない……」
何者かの独り言のようだった。澄珠は思わず足を止め、柱の方に目を向ける。
ふわりと広がる桃色の袖と、栗色の柔らかな髪。柱の影に隠れていたのは、二番目に後宮入りした花嫁候補――栗萌である。背丈は澄珠より低く、澄珠と同年代ながら小柄だ。
澄珠はおそるおそる近づき、声をかける。
「……あの、今なんと仰いました?」
澄珠の静かな問いかけに、栗萌がびくりと肩を震わせた。
「きゃあっ!」
栗萌は澄珠の姿に気づいていなかったらしく、まるで幽霊でも見たかのようにひっくり返った。そして、小動物のように慌てふためいた様子で否定する。
「ち、ち、違いますっ、今のはその、ちょっとした独り言というか、たとえ話というか……! 決して、花神様の悪口ではありません!」
花神への侮辱とも取られかねない発言をしていたために焦っているのだろう。
澄珠は動揺で肩を震わせている栗萌に近付き、そっと膝を折った。できるだけ柔らかく、包み込むような声音で言葉をかける。
「だ、大丈夫です。責めたいわけではなくて、私も、千夜様のご様子がどこかおかしいと感じているのです」
その一言に、栗萌の動きがぴたりと止まる。息を飲むように顔を上げ、澄珠を見つめた。くりくりと丸い瞳が揺れている。長い睫毛に覆われた目元は、年齢よりも幼く見え、あどけなさすら感じさせた。
澄珠は微笑を浮かべながら、言葉を続けた。
「どういうところが変だと思っているのか、もしよければ、一緒にお話したいなって……」
栗萌はしばらく迷っている様子だった。視線が泳ぎ、唇を何度か噛んでは離す。そして、小さく頷いた。
「……あ、あの、ここだと、誰かに聞かれるかもしれませんし……」
そう言って、そっと立ち上がり、袖で口元を覆いながら周囲を確かめるように見回す。行き交う神官や女中たちの気配がまだ近くにある。栗萌は少し身を寄せ、澄珠の耳元で囁いた。
「……よければ、わたしの屋敷にいらっしゃいませんか? お菓子も、お茶もご用意できますから……そこでゆっくり、お話したいです」
その声は小さくとも真剣で、どこか頼るような響きを帯びていた。
澄珠は静かに頷いた。
「……はい。ぜひ、伺わせてください」
◇
栗萌の屋敷は後宮の一角、神殿から離れた南側にあり、澄珠に与えられた屋敷よりも小ぢんまりとしていた。外観は他の屋敷と大差ない造りだが、玄関先には可愛らしい風車が吊るされ、季節の花が籠に活けられている。
栗萌とは、廊下ですれ違うことはあっても、このように直接話す機会はあまりなかった。
初めての訪問に緊張しながらも、奥の居間に足を踏み入れる。その瞬間、澄珠は思わず目を見張った。
「……すごい……」
壁際には高く積まれた本棚が並び、どの棚にも書物がぎっしりと収まっている。古びた巻物から絵入りの物語本、難しそうな哲学書のようなものまで混在しており、すべて丁寧に手入れされているようだった。
床にはいくつもの文箱が置かれ、その蓋の上にも本が山のように積まれている。
「このような数の本、外から取り寄せたのですか?」
澄珠が目を丸くして尋ねると、栗萌は小さく首を横に振った。桃色の髪飾りが、揺れて優しく光を受ける。
「……いえ。二年前わたしが後宮入りした時から、花神様が定期的に差し入れてくださっていたのです。わたしが、読み物が好きだと言ったから……」
声は、どこか懐かしさを帯びて震えていた。栗萌は視線を落とし、小さく膝の上で拳を握る。
「わたし、本当は、後宮入りなんてしたくなかったんです。幼い頃から本の虫で、ほとんど外にも出なかったし、男の人も苦手だし、結婚なんて考えたこともありませんでした。でも、家のために契約させられて……」
その小さな肩が、わずかに震える。
「そんなわたしの心情を、花神様はお見通しだったのだと思います。初めて会った時、開口一番、申し訳無さそうに、〝実家の方が楽しいだろうに、こんなところに来させてしまってごめんね〟って言われました」
澄珠は思わず息を呑んだ。それは、澄珠の想像する、気遣い上手な千夜らしい発言だった。
「花神様は、男の人が苦手なわたしに、無理やり近付くこともなくて。後宮入りしてから今まで、ただの一度も口付けを交わしたことすらありません。あの方はただ、わたしの好きな本を送ってくださったのです」
言いながら、栗萌の瞳が潤む。
「わたしに恥をかかせないようにするためか、定期的にお屋敷に来てくださって、毎度、本だけを置いていかれて……家を離れて寂しいわたしに、必ず優しい言葉をかけてくれました。あの方は、本当に……お優しい方なんです」
その声には、花神への確かな信頼がこもっていた。
「――だからこそっ、今の花神様が、別人のように思えてならないのですっ!」
栗萌は顔を上げ、涙をこらえるように澄珠に訴えかけた。小柄な体が震えている。
「昨夜あの方は、わたしの部屋に突然いらっしゃったのです。最初はいつものように本を届けてくださるのかと思いました。でも、違いました。言葉もなく、いきなり……簡単に、わたしに触れて……」
栗萌の細い指が、そっと自らの肩を抱くように胸元へ寄せられる。桃色の着物の襟がわずかに揺れた。




