秘めた心
澄珠の胸の内で、焦りが生じた。
叫びたい。千夜の名を呼びたい。千夜が花に吸収されるのを止めに行きたい。柱の陰に押しとどめる朝風の手がなければ、きっともう声を上げていただろう。
栗萌が千夜に向かって、ぞっとするほど美しい笑みを浮かべた。
「お辛いでしょう。偽りの花に取り込まれるのは、激痛なのではないですか?」
その声音は慈悲深さを装っていながら、どこか楽しんでいるようでもあった。
澄珠の心臓が早鐘を打つ。けれど千夜は一言も返さなかった。ただ、花に呑まれつつある身体を微動だにさせず、栗萌を冷たい目で見据えている。
「最後の機会を与えます」
栗萌はゆっくりと歩み寄り、偽りの花に近い場所で立ち止まった。その声は甘やかだが、揺るぎない圧を孕んでいる。
「わたしを花嫁にしてくださるなら、今すぐ術を解きましょう」
澄珠ははっと息を呑んだ。
栗萌が術を解けば、千夜は死なずに済むかもしれない。
胸の奥がかき乱される。千夜を渡したくない。他の女の人のものになるなんて耐えられない。でも、それ以上に千夜が死んでしまうことの方が、ずっと、ずっと恐ろしい。
だから、それで千夜が助かるのなら。
どうか、どうか。
澄珠はぎゅっと目を瞑り、祈るように願った。千夜の命が助かるのなら、たとえこの恋が叶わずともよい。
しかし。
「俺は澄珠以外を花嫁にする気はない」
ばっさりと断ち切るような声が、澄珠の耳に届いた。
はっと目を開ける。千夜は、今も痛みに苛まれているだろうに、栗萌に毅然たる態度を取っていた。
「へえ。一途なことですねえ」
栗萌の唇が冷たく歪む。
「わたしを花嫁にするくらいなら、自分が死んでもいいとおっしゃるのですか? 自分が死ねば、その大好きなお姫様にも二度と会えなくなるのですよ?」
千夜は、余裕ありげな笑みを見せた。
「俺は澄珠が、他の人の隣で笑っていたって構わない。……本当は少しだけ、あの子が他の男のものになるのは嫌だけれど。この地で彼女が幸せに生きるためなら、俺はどんな努力も惜しまない。君には悪いけれどね」
栗萌の眉が、ぴくりと動いた。
澄珠は柱の陰で唇を噛んだ。涙が込み上げてきそうになる。
――千夜は、自分のためにここまで言ってくれる。命を削りながら、なお。
そう思うと、痛いほど胸が締め付けられた。
「……そうですか。なら、あなたはもう用済みです」
次に出てきた栗萌の声は、氷よりも冷たかった。心底落胆したような声だった。
「わたしは次に生まれてくる花神様と幸せになります。さようなら」
吐き捨てるように言い放ち、彼女は踵を返した。衣の裾が床に擦れる音が、広い神殿にやけに響く。
その態度に、澄珠は心底驚いた。
――次に生まれてくる花神と幸せになる? こんなにもあっさりと、千夜のことを諦めるのか。
そう知った途端、怒りにも似た感情が、いや、それよりも、はっきりとした嫌悪が湧いてきた。
こんなことをするほど千夜のことが好きなのだと思っていたのに。栗萌のそれは、千夜への恋情とは全く別のものだ。それが今、確定した。
澄珠は、自分の口を塞ぐ朝風の腕を軽く叩いた。合図に応じて朝風が静かに手を離す。同時に、朝風に小声で伝える。
「私の術が効いているうちは、栗萌様に私と朝風様のお姿は見えません。気付かれないように近付いて、取り押さえてください。私は、千夜様をあそこから引きずり出します」
「しかし、今花神となっている栗萌様に手を上げれば、偽りの花が黙っておりません」
「手を上げる必要はありません。拘束だけしてください。一度千夜様を引きずり出せれば、後のことは……後で考えます」
言い切るや否や、澄珠は迷わず駆け出した。
「ちょっ、澄珠様……!」
後ろから慌てた声が追う。朝風もすぐに足音を立て、後を追ってきた。
澄珠は真っ直ぐに偽りの花へ走った。巨大な花の透明な花弁が、淡い光を反射しながら迫ってくる。
栗萌は気付いていない。
花に取り込まれた千夜が、先に澄珠の方を見た。
まるでこちらが見えているかのように。
澄珠は駆け寄り、その冷たい腕に手を伸ばす。次の瞬間、背後で「ぐっ……!」と低い呻きが響いた。振り返れば、朝風が栗萌を後ろから羽交い締めにしている。栗萌の美しい顔が怒りに歪み、もがいていた。
朝風が彼女の動きを封じてくれている。――今しかない。
澄珠は両手で千夜の腕をつかみ、全身の力を込めて引いた。
だが、びくともしない。まるで花に鎖で繋がれているかのようだった。
それでも澄珠は諦めず、必死に何度も何度も引っ張る。
「澄珠……?」
千夜が信じられないという表情で、こちらを見下ろしていた。
「どうしてここに……」
千夜の声はかすれて、苦痛と驚愕が入り混じっていた。
「好きな人のことを助けに来るのは、おかしいですか!」
澄珠は叫ぶと同時に、術を解いた。霧が晴れるように姿が露わになり、澄珠の姿が千夜の目に映る。
千夜が驚愕したように目を見開いた。透明の花弁に映る光が、琥珀の瞳を揺らしている。
「好きな人、って」
「千夜様のことです。ずっと、ずっと好きでした。私だって、あなた以外の人の花嫁になる気はありません!」
胸の奥に溜め込んでいた想いが、堰を切ったようにあふれ出す。
涙が頬を伝い、握り締めた手に力がこもる。
幼い頃から勇気がなくて、秘めていた恋心。でも、もう隠さない。




