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偽り咲く花神さまの後宮  作者: 淡雪みさ


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3/12

落下



 澄珠は間違いなく、千夜と最も仲の良い花嫁候補だった。けれどそれは、千夜が子供の頃の話だ。

 千夜が大きくなり、真に花神として人々を統べるようになると、澄珠の名は彼の日々の中から次第に薄れていった。

 祭祀、政。季節の巡りに応じた結界の調整。神務は容赦なく重なり、かつて無邪気に手を引いてくれた千夜は、澄珠の元にほとんど姿を現さなくなった。

 ふとした折に顔を合わせても、ほんの数言を交わすのみで、すぐに神官たちの呼び声に連れられて消えてゆく。


 ――そして、事件が起きた。


 ある夜、花神の社が放火されたのだ。怨霊の仕業とも、花神の支配に反意を抱く勢力の仕業とも囁かれた。

 燃え盛る火柱が御神木を呑み込もうとしたそのとき、傍に居合わせた巫女である琴が立ち上がった。


 琴は、水の術を操る巫女だ。琴は迷うことなく手印を切り、社に降る火の粉を水の霧で包み込んだ。琴によって、炎によって包まれかけていた社は奇跡のように守られた。

 千夜は琴に深く感謝し、やがて、琴を自らの後宮に迎え入れた。


 今や千夜の傍にあるのは、澄珠ではない。

 神としての仕事を放棄して、彼は日々の時のほとんどを、琴と共に過ごしている。

 かつての澄珠が見た光景は、今では全て琴のものとなっていた。



「失礼いたします」


 襖が静かに開き、さっきまで丸聞こえの噂話をしていた澄珠付きの女中たちが、水菓子の盆を手にして入ってきた。

 その瞬間、踏みつけた花冠の潰れた音などなかったかのように、琴はぱっと表情を変える。


「まあまあ、皆さん。暑い中ご苦労さまですわね。いつもお姉様がお世話になってます」


 微笑みを浮かべながら琴はくるりと身を翻し、懐から菓子包みを取り出した。


「こちら、お菓子の詰め合わせです。ささやかですが、差し入れでございますの」


 色とりどりの紙に包まれた菓子が、銀の盆に広げられる。淡い桃色の寒天玉、檸檬の形をした干菓子、金平糖の小包。愛らしく華やかな品ばかりだった。


「まあ、なんとお優しいのかしら」

「さすが琴様、千夜様の寵姫は気配りまでお上手ですわね」


 澄珠の女中たちは手を取り合って感嘆し、目を輝かせる。

 琴は、社を放火から救ったことから、ここに住む人々からもとても大事にされている。命の恩人であるのだから当然だ。

 加えて琴は、猫を被るのが上手だ。澄珠の周りの女中にまで取り入ろうとしている。


「それでは皆さん、また今度、もっと珍しい菓子を持ってまいりますわね」


 涼風のような笑みを残し、琴はさらりと身を引いた。

 女中たちは彼女が去ったあとも、きゃあきゃあと華やいだ声で盛り上がりながら、盆を囲んで菓子を選び始める。

 澄珠はその様子を静かに見つめていた。誰も、澄珠の手の中の、くしゃくしゃになった花冠には気づかない。



 澄珠はそっと雲隠れの術を使い、音もなく後宮の回廊を抜け、人の目を避けながら歩みを進めた。

 どこにもぶつけられない思いを抱えた時の行き先は決まっていた。

 火事の夜に焼け落ち、今や跡形もなくなってしまった、思い出の庭の跡地だ。


 後宮の広大な敷地内には、整然と建物が配置されている。

 中心には、威厳ある神殿がそびえている。花神が普段おわす場所だ。花神とその正式な花嫁以外、立ち入りは禁じられている。

 神殿の右手には蓮寮と呼ばれる建物があり、神官たちの寝泊まりの場となっている。

 神殿の北側には澄珠の屋敷が建っており、西と南にそれぞれ他の花嫁候補たちの屋敷がある。

 その花嫁候補の屋敷のさらに向こう、さらに南へ足を伸ばすと、澄珠のお気に入りの場所が出てくる。


 そこは、かつて小さな庭だった。

 澄珠と千夜が、まだ幼かった頃。花咲く低木の間を駆けまわり、神官に叱られながらも笑い合った記憶が眠る場所。

 かつて花々が咲いていた一角には、焼け焦げた柱の根だけが土の中に残り、雑草さえまばらにしか生えていない。

 庭の端にぽつんと建っている花庵という建物だけが、唯一昔と同じ姿をとどめていた。花庵は、大昔、後宮の花嫁候補たちが詩歌や琴を嗜む場所だったらしい。今は使われなくなり、物置と化してひっそりと佇んでいる。

 澄珠は裾を摘んで、静かにその屋根によじ登った。年頃の女性にしてははしたない行いだが、千夜の花嫁になれないのであれば、女性としての価値を磨く意味ももうない。


 昔は、千夜とこっそりここに登っては、神官から「危のうございます」と怒られていた。

 昔は、ここから見下ろせば、庭一面に花が咲いていた。

 昔は、風が吹けば、藤の香が髪に絡んだ。

 昔は、千夜の声が、耳元で笑っていた。


 今は、何もない。

 焼け跡の土と、微かに焦げた香りが残るばかりだ。

 それでも澄珠の心はこの場所に戻ってきてしまう。


 傷ついた時、泣くことさえできない時。雲隠れの術に頼って、世界からそっと消えて、澄珠はいつもここへ来る。


 屋根の上で独り空を見上げて、幸せだった過去の思い出に浸る。

 青がどこまでも静かで冷たい。

 ――あの頃と、空の色だけは変わらないのに。


 ぼんやりと空を眺めていた澄珠の背後で、微かな軋みが聞こえた。

 次の瞬間、花庵の屋根が、ずるりと音を立てて崩れる。


「……っ!」


 澄珠は声もなく、ぎゅっと目を瞑る。足元が抜け落ちる感覚。体が宙に落とされた。

 あの火事の夜以来、この花庵は誰にも顧みられることなく、修繕もされずに放置されていた。脆くなった屋根が、澄珠の軽い体重すら耐えきれなかったのだ。

 落下しながら、澄珠はどこか諦めるような心地でいた。


 もうあの頃には戻れない。

 ならば、このまま終わってもいいのではないだろうか。

 ここで待っていても、後宮を追い出され、巫女の資格すら失う未来しか訪れない。


 地面が近付いてくる気配を感じた。

 澄珠は全て諦めていた。



 けれど、落下の衝撃は来なかった。


 ふわりと、どこか懐かしい、柔らかな花の香りが澄珠を包んだ。


「危ないよ、君」


 優しい声が耳元で囁く。




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