落下
澄珠は間違いなく、千夜と最も仲の良い花嫁候補だった。けれどそれは、千夜が子供の頃の話だ。
千夜が大きくなり、真に花神として人々を統べるようになると、澄珠の名は彼の日々の中から次第に薄れていった。
祭祀、政。季節の巡りに応じた結界の調整。神務は容赦なく重なり、かつて無邪気に手を引いてくれた千夜は、澄珠の元にほとんど姿を現さなくなった。
ふとした折に顔を合わせても、ほんの数言を交わすのみで、すぐに神官たちの呼び声に連れられて消えてゆく。
――そして、事件が起きた。
ある夜、花神の社が放火されたのだ。怨霊の仕業とも、花神の支配に反意を抱く勢力の仕業とも囁かれた。
燃え盛る火柱が御神木を呑み込もうとしたそのとき、傍に居合わせた巫女である琴が立ち上がった。
琴は、水の術を操る巫女だ。琴は迷うことなく手印を切り、社に降る火の粉を水の霧で包み込んだ。琴によって、炎によって包まれかけていた社は奇跡のように守られた。
千夜は琴に深く感謝し、やがて、琴を自らの後宮に迎え入れた。
今や千夜の傍にあるのは、澄珠ではない。
神としての仕事を放棄して、彼は日々の時のほとんどを、琴と共に過ごしている。
かつての澄珠が見た光景は、今では全て琴のものとなっていた。
「失礼いたします」
襖が静かに開き、さっきまで丸聞こえの噂話をしていた澄珠付きの女中たちが、水菓子の盆を手にして入ってきた。
その瞬間、踏みつけた花冠の潰れた音などなかったかのように、琴はぱっと表情を変える。
「まあまあ、皆さん。暑い中ご苦労さまですわね。いつもお姉様がお世話になってます」
微笑みを浮かべながら琴はくるりと身を翻し、懐から菓子包みを取り出した。
「こちら、お菓子の詰め合わせです。ささやかですが、差し入れでございますの」
色とりどりの紙に包まれた菓子が、銀の盆に広げられる。淡い桃色の寒天玉、檸檬の形をした干菓子、金平糖の小包。愛らしく華やかな品ばかりだった。
「まあ、なんとお優しいのかしら」
「さすが琴様、千夜様の寵姫は気配りまでお上手ですわね」
澄珠の女中たちは手を取り合って感嘆し、目を輝かせる。
琴は、社を放火から救ったことから、ここに住む人々からもとても大事にされている。命の恩人であるのだから当然だ。
加えて琴は、猫を被るのが上手だ。澄珠の周りの女中にまで取り入ろうとしている。
「それでは皆さん、また今度、もっと珍しい菓子を持ってまいりますわね」
涼風のような笑みを残し、琴はさらりと身を引いた。
女中たちは彼女が去ったあとも、きゃあきゃあと華やいだ声で盛り上がりながら、盆を囲んで菓子を選び始める。
澄珠はその様子を静かに見つめていた。誰も、澄珠の手の中の、くしゃくしゃになった花冠には気づかない。
澄珠はそっと雲隠れの術を使い、音もなく後宮の回廊を抜け、人の目を避けながら歩みを進めた。
どこにもぶつけられない思いを抱えた時の行き先は決まっていた。
火事の夜に焼け落ち、今や跡形もなくなってしまった、思い出の庭の跡地だ。
後宮の広大な敷地内には、整然と建物が配置されている。
中心には、威厳ある神殿がそびえている。花神が普段おわす場所だ。花神とその正式な花嫁以外、立ち入りは禁じられている。
神殿の右手には蓮寮と呼ばれる建物があり、神官たちの寝泊まりの場となっている。
神殿の北側には澄珠の屋敷が建っており、西と南にそれぞれ他の花嫁候補たちの屋敷がある。
その花嫁候補の屋敷のさらに向こう、さらに南へ足を伸ばすと、澄珠のお気に入りの場所が出てくる。
そこは、かつて小さな庭だった。
澄珠と千夜が、まだ幼かった頃。花咲く低木の間を駆けまわり、神官に叱られながらも笑い合った記憶が眠る場所。
かつて花々が咲いていた一角には、焼け焦げた柱の根だけが土の中に残り、雑草さえまばらにしか生えていない。
庭の端にぽつんと建っている花庵という建物だけが、唯一昔と同じ姿をとどめていた。花庵は、大昔、後宮の花嫁候補たちが詩歌や琴を嗜む場所だったらしい。今は使われなくなり、物置と化してひっそりと佇んでいる。
澄珠は裾を摘んで、静かにその屋根によじ登った。年頃の女性にしてははしたない行いだが、千夜の花嫁になれないのであれば、女性としての価値を磨く意味ももうない。
昔は、千夜とこっそりここに登っては、神官から「危のうございます」と怒られていた。
昔は、ここから見下ろせば、庭一面に花が咲いていた。
昔は、風が吹けば、藤の香が髪に絡んだ。
昔は、千夜の声が、耳元で笑っていた。
今は、何もない。
焼け跡の土と、微かに焦げた香りが残るばかりだ。
それでも澄珠の心はこの場所に戻ってきてしまう。
傷ついた時、泣くことさえできない時。雲隠れの術に頼って、世界からそっと消えて、澄珠はいつもここへ来る。
屋根の上で独り空を見上げて、幸せだった過去の思い出に浸る。
青がどこまでも静かで冷たい。
――あの頃と、空の色だけは変わらないのに。
ぼんやりと空を眺めていた澄珠の背後で、微かな軋みが聞こえた。
次の瞬間、花庵の屋根が、ずるりと音を立てて崩れる。
「……っ!」
澄珠は声もなく、ぎゅっと目を瞑る。足元が抜け落ちる感覚。体が宙に落とされた。
あの火事の夜以来、この花庵は誰にも顧みられることなく、修繕もされずに放置されていた。脆くなった屋根が、澄珠の軽い体重すら耐えきれなかったのだ。
落下しながら、澄珠はどこか諦めるような心地でいた。
もうあの頃には戻れない。
ならば、このまま終わってもいいのではないだろうか。
ここで待っていても、後宮を追い出され、巫女の資格すら失う未来しか訪れない。
地面が近付いてくる気配を感じた。
澄珠は全て諦めていた。
けれど、落下の衝撃は来なかった。
ふわりと、どこか懐かしい、柔らかな花の香りが澄珠を包んだ。
「危ないよ、君」
優しい声が耳元で囁く。




