顔の怪我
「黙りなさい! 千夜様のことも、わたくしのことも、そうやってみっともなく昔の思い出にばかりしがみついて、恥ずかしくないの?」
琴の手が突き飛ばすように澄珠の肩を押し、澄珠の背は後ろの鏡台にぶつかった。
がたりと大きく揺れた鏡台から、硝子細工の香水瓶が滑り落ちる。冷たく硬い瓶が頬にぶつかり、その蓋の部分が澄珠の皮膚をわずかに切った。転がった瓶の中の香水が床に散らばる。それはかつて、千夜からもらったものだった。
「お姉様がここから出て行かない限り、死ぬまで苦しめてあげる」
琴は鼻を鳴らし、袖を払うような仕草で踵を返した。襖が閉まる音とともに、足音が遠ざかっていく。
澄珠は床に片手をつき、頬の痛みを感じながらも、鏡台の前で立ち上がる。鏡に映り込む自分の顔は、痛みに歪んでいるというよりは、全てを諦めたような無だった。
◇
翌朝、澄珠は栗萌の屋敷へ向かった。花神の件で新たに判明したことがあると、栗萌から文が届いたのだ。
澄珠が玄関先に姿を現すや否や、栗萌は息を呑んで近付いてきた。
「澄珠様……け、け、怪我をされていますか!?」
驚きと心配が入り混じった声。栗萌の視線は、澄珠の右頬に留まっている。
そこには昨夜できた紅い擦り傷がまだ生々しく浮かんでいた。
「こんなの、掠り傷ですから……」
澄珠は無理やり笑顔を作る。
「い、い、いけません。傷を放っておくと、残るかも……。それに、顔ですし、尚更大事にした方がよいです」
栗萌は、心配そうに澄珠を屋敷の中に招き入れると、薬棚の前へ歩み寄った。
引き戸を開け、棚の奥から小瓶と白布、さらに薄茶色の紙片を取り出す。紙には油と薬草を練り合わせた膏薬が薄く塗られている。
「少し沁みますよ」
そう言って栗萌は小瓶の栓を抜き、綿に染み込ませ、澄珠の頬をそっと拭う。ひやりとした感触がした。
栗萌は薬棚に出したものをしまいながら、ちらちらと心配そうに澄珠に視線を向けてくる。
「あの、もしかして、な……何かあったのですか? 頬も、少し腫れておりますが……」
栗萌の声は不安そうだ。
というのも、本来花嫁候補の顔に傷が付くなどあってはならないことである。そうならないよう、護衛の神官や女中が花嫁候補を守る役割がある。そのため、栗萌の目には、澄珠の様子が不可解に映ったのだろう。
「……いえ。大したことはありませんので、気になさらないでください」
澄珠は抑揚のない声で返した。
栗萌に現状を伝えたところで、何かできることがあるわけではない。傷の手当てをしてくれた時の様子から、栗萌がいかに心優しい人なのかが見えてきた。そんな彼女に、琴にいじめられているなどと伝えて、余計な心配を煽りたくなかった。
栗萌は少し納得のいかないような顔をしたが、やがて澄珠を元気付けるような明るい声で、「おいしいお菓子があるんです。一緒に食べませんか?」と促した。
澄珠が頷くと琴は廊下へ向き直り、襖の外に控えていた女中へ声を掛ける。女中は静かに応じ、ほどなくして漆塗りの盆に和菓子と湯気の立つお茶を載せて戻ってきた。女中は、品を並べ、澄珠にぺこりと頭を下げると、また音も立てずに去っていく。
栗萌の屋敷はひどく静かで、他に人の気配は感じられない。外庭には一人の護衛の神官が立っているが、目に入るのはその人影と、先程の女中だけだ。
「……使用人は、お一人だけですか?」
と澄珠は恐る恐る尋ねた。
栗萌も琴が後宮に来てから女中に敬遠されているのではないか、という同情が胸を過ぎったのだ。思えば栗萌も澄珠も、今の状況は似ているはずだ。突然現れた、最も愛されている花嫁候補の存在に、周囲からの期待を奪われている。栗萌は澄珠と違って琴をいじめたなどという噂は立てられていないから、澄珠よりも扱いが幾分良いかもしれないが。
栗萌は上品にお菓子を口に運びながら答える。
「この屋敷には、元より一人だけですよ」
澄珠は意外に思った。自分の屋敷には二十人を超える女中が住み込みで働いているし、それが当たり前だと思っていたからだ。
栗萌はそんな澄珠の表情を見て、穏やかに笑む。
「……澄珠様は、花神様の特別です。ですから自信をお持ちください。与えられた屋敷の大きさだって、一番大きいのですから」
確かに、栗萌の屋敷と澄珠の屋敷では、大きさで言えばかなりの差がある。琴の屋敷だって、澄珠の住む場所よりは小さい。しかしそれは、自分がたまたま一番最初に後宮入りしたからであって、特別な思いなどきっとそこにはない――と、澄珠は悲観している。
「それで、本題なのですが……」
湯呑の中の茶が半分ほど減ったころ、栗萌はそっと懐から一枚の写真を取り出した。
「この方は今、琴様の護衛として後宮内で仕えております」
厚手の紙に焼き付けられたのは、写真師の手によるものらしい、やや硬い表情の青年の姿だった。
澄珠はそこに映った顔を見た瞬間、覚えがある、と思った。背丈も肩幅も大きくなってはいるが、琴が幼かった頃、近所でよく一緒に遊んでいた少年だ。かつて彼は神官学校へ進むという夢を語っていたので、今では立派な神官になっていることだろう。
澄珠が写真に目を落としていると、正面の栗萌が衝撃の事実を口にした。
「調べを進めたところ、彼にはかつて反政府組織との往来があったことが判明いたしました。それに、彼のこの後宮への登用も、琴様の強い推薦によるもの、のようなのです」
栗萌は一拍置き、澄珠の瞳をまっすぐに見据える。
「――わたしは、例の放火は、琴様の自作自演ではないかと疑っております」




