花神の神座におわすのは
花神の神座におわすのは、初恋の人と全く同じ顔をした軽薄な何かだ。
白砂が敷き詰められた庭の向こう、淡く霞む藤棚の下で、二人の人影が笑っていた。
花の神千夜は、柔らかな微笑みを湛え、琴の肩をそっと抱き寄せている。琴は肩をすくめて上品に小さく笑っている。琴の着物は薄紅色の華やかなもので、千夜と並ぶと、まるで一枚の絵のように美しかった。
琴の姉である澄珠は、その光景を柱の陰からじっと見つめていた。
――澄珠の初恋の相手である千夜は、変わってしまった。
誰もその事実に気付いていない。しかし、一番最初に後宮に招き入れられた花嫁候補であり、花神と幼なじみとして幼少期を過ごした澄珠には分かる。
あれは、千夜ではない。まるで偽物のようだ。
琴が見せる優しげな顔も、澄珠の知るそれとはまるで違う。姉の前では、あの妹は棘のような言葉しか吐かない。
白い花が咲く庭の奥で、澄珠はひとり影に沈んでいた。
千夜の声がふと、風に乗って届く。
「琴、あの時、社を救ってくれてありがとう」
その一言に、琴が嬉しそうに顔をほころばせる。
咲き誇る花々の香りが、ひどく胸に重かった。
◇
神と人が共に生きる列島国家である、常世国。
この国では、神と自然への信仰が政治と深く結びついている。
中央に天照神殿と呼ばれる神殿があり、国家の頂点に立つのはそこに住む最高神格者だ。常世国の各地には、最高神格者から派生した、花の神、風の神、雪の神、土の神など複数の自然を司る神々が存在し、国の各地を統治している。
神々は実体を持ち、人間の姿を取り神殿の中に後宮を持つ。
澄珠はそのうちの一つ、花の神の後宮の、三つあるうちの一つの屋敷に、五歳の頃から住んでいる。
幼少期、術の開花が最も早かった澄珠は、強力な花嫁候補として最も早く花神と契約を交わした。その十年後にもう一人、花嫁候補が後宮に入ってきた。
そして――最後の花嫁候補である澄珠の妹、琴が後宮入りしたのは、つい三ヶ月前のことだった。
「澄珠様のお屋敷には、琴様がやってきてから一度も花神様のお通いがないそうよ」
「やっぱり正室に選ばれるのは琴様かしら」
「澄珠様の方が後宮入りが早かったのにねえ……」
屋敷の女中たちの声が聞こえてくる。
各地の神殿の周辺には神官組織が存在し、神に仕える巫女や神官が常駐している。その下に、巫女や神官に使える女中がいる。彼女たちは本来澄花の身の回りの世話をしてくれる立場なのだが、琴が入ってきてからは、目に見えてやる気を失っているようだった。
「澄珠様、後から入ってきた琴様に嫉妬して嫌がらせをしていたそうよ」
「気持ちは分かるけれど、そんなことをしたら花神様に嫌われて当然よ」
「はあ、わたしも、澄珠様でなくて琴様にお仕えしたかったわ」
事実無根だ。おそらく琴が広めた噂だろう。
澄珠は小さく溜め息を吐いた。
各地の神々は、巫女の家系の女性と契りを結び、花嫁候補とすることで力を安定させる。
契りの相手の数は神によっても違うが、花の神は代々成人する前に三人の女性を花嫁候補として後宮に招き入れる。
後宮内では三人が花の神からの寵愛の大きさを競い合う。花の神が成人する際、中でも特に愛された女性は正式な妻である正室となり、婚姻の儀を経て国の地方統治に強い影響力を持つこととなる。
ただし正室に選ばれなかった他の二人は契約を解かれ、後宮を追い出され巫女としての籍を失い、ただの人間に戻る。
澄珠もいずれそうなるだろう。
歴代の神の中には、後宮入りした三人の女性を成人後もそのまま平等に扱い、後宮の屋敷から追い出さなかった慈悲深い神もいるそうだが、大抵は正室の指示に従って他の女性を追い出すことになる。
それに――と考えていた時、すり硝子の戸が、からんと涼やかに鳴った。
振り返れば、今日は薄桃の着物に身を包んだ琴が薄笑いを浮かべて立っている。日輪を映したような髪飾りがきらりと揺れる。あの花神には、相当な数の贈り物を受けているらしい。
「あら、お姉様。今日もみすぼらしい格好」
血の繋がった妹である琴は、自分が一番大事にされなければ気が済まない性格だ。
姉に慈悲を与えて後宮に居座らせるなど有り得ない。
澄珠は畳の上に膝をついたまま、手にしていた花冠をさっと後ろに隠した。薄紫の藤と白百合を編んだ、小さな慰めの品。後宮の隅に咲いた野花を集めて、誰にも見られぬよう、ひっそりと仕上げたものだった。
琴は目を細め、嘲るように笑った。
「花冠なんて作っているの? 子供みたいね。千夜様のお通いがなくて暇だからって。……それとも、そんな野草で、千夜様の気を引くおつもり?」
琴はついと歩み寄ると、澄珠の手から花冠を奪い取る。
ぐしゃりと乾いた音がして、琴の掌の中で藤の房がばらばらに崩れる。
薄紫が畳に散った。それはまるで、微かな夢の終わりのように儚く。
「今更こんなことをして足掻いたって、千夜様が愛しているのはこのわたくしよ? 身の程知らずって本当に見苦しいわ」
足袋で花冠を踏みつけ、口元を綻ばせながら、琴は楽しげに笑う。
その笑みは甘やかで、残酷なまでに冷たい。
澄珠は何も言わず、ただ壊れた花冠を静かに拾い集めた。
幼い千夜と共に花冠を作った思い出が蘇ってきて涙が零れそうになったが、必死に耐えた。
泣いてたまるものか。泣いたところで、誰が味方してくれるだろう。
この後宮にはもう、澄珠の味方はいない。




