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アザミ

作者: 芦屋

初投稿です。

 アザミは暖房便座に座り、頭を抱えた。


どうしよう、どうしよう、どうしよう。


もう一度右手に握られた妊娠検査薬を確認する。


何度確認しても、やはりそれは陽性を示している。


産むか堕胎すか決めなければならない。


ドアに貼られた“みつを”の詩に救いを求める。



      人間だもの。



しかし、今回ばかりは“みつを”に頼れそうもなかった。


トイレットペーパーを手のひらに巻き取り、鼻をかむ。神様にお願いする。時は戻らないし、事態は好転しない。検査薬は陽性で、私は人間だ。


とりあえずトイレの中では何も解決はしない。それは確かだ。まずは鏡で私が私か確認して、何か冷たいもので喉を潤すのよ。


ふらふらした足取りで、アザミはトイレを後にした。


鏡の中の自分を見つめる。


鏡の世界に投影し、反射された私もやはり、お腹に生命を宿しているのだろうか? 今まで与えられてきただけの私という個体がひとつの生命を生成し、形成しようとしている。


しかし私はまだ高校生で、相手には家庭がある。鏡の中の自分がいつもと違って見える。微笑がぎこちない。キュビズム時代のピカソの絵のように、色々な色で分断されている気がした。


遠くから下手くそな幻想即興曲が聞こえてくる。誰かに相談しないと。台所でペットボトルの天然水を飲み、外に飛び出した。


 

 

 コンビニエンスストアと居酒屋の間に暗闇に通じる下り階段がある。頭上にはネオン看板で、“Theoria”とつづってある。


ネオンの光に突進する虫たちが、バチバチと音をたてて焼かれている。意を決して、アザミは急な階段を下っていった。


受付らしきところに腕にタトゥーの入った金髪ロン毛の男がいる。


「あの」とアザミは声をかけた。


「誰?」と男はいぶかしげに言った。

「あぁ、もしかしてユキの知り合い?」


「そうです」


「名前なんだっけ?」


「アザミです」


「そうそう、アザミちゃん。ユキに聞いてるよ。へえ」


男はそう言ってアザミを上から下まで鑑賞した。


「ユキの知り合いだから半額の千円でいいよ。ワンドリンク制だから中でこれ渡して飲み物頼んで」


お金を払いチケットを受け取る。男の視線を感じる。おそらく性的な意味を含んだ視線だ。


アザミは赤く重厚な扉を押し開け、中へと入った。


金色の男女の絵が飾ってある。クリムトのレプリカだ。ライブ用のステージで、アコースティックギターの二人組が“ラ・カンパネラ”を演奏している。


大体30人位の人間が、固まったりまばらに動いたりしていて、そのひとつ固まりの中にユキの姿があった。ヒョウ柄のミニスカートにレザージャケット、見たことのある服装だ。


人を掻き分けユキの方へ進む。


「ユキ」とアザミは声をかけた。


「アザミ、よく来たね」

そう言ってユキは周りの視線に気づき、アザミを紹介した。

「この子アザミ。同じ高校通ってんの」


アザミは軽く会釈して自分の服装に目をやる。これでも派手目なファッションを選んだつもりなのだが、この中では明らかに浮いていた。むしろ沈んでいる。周りの笑顔が自分に好意的でない気がする。


ふたりは固まりから離れてドリンクコーナーに向かった。


「私コロナ」とユキが言う。「あんたは?」


「オ、オレンジジュースありますか?」


「あんたさぁ、こういうところじゃ普通酒頼むでしょ。最初の一杯は何頼んでも一緒なんだからさぁ」


「あっ、でも、今駄目なの。お酒とか」


「いいけどさ」と言ってユキはコロナの瓶を口に持っていった。「でもアザミがこんなとこ来るなんて珍しいよね。もしかしてアレ? また写真の被写体になってくれって奴?」


「違うの。実はちょっと相談に乗って欲しいことがあって」


「私に?」とユキは驚いて言った。「物好きね」


「実は」とアザミは声を潜めた。「出来ちゃったみたいなの」


「えっ? 聞こえない、何?」


「妊娠しちゃったみたいなの」そう言ってアザミはオレンジジュースを飲み干した。


「え、マジ、嘘、あんたが?」ユキは動揺して言った。「相手は誰? 同じ学校?」


「写真学校の先生」


「は? ずっと前にあんたが良いって言ってた? でも奥さんいるんじゃなかったっけ。もしかして不倫?」


「ちょっとぉ、声大きいよ」


ユキはわざとらしく大きな溜め息をついた。

「おとなしそうな顔して、あんたもやることやってんのね。それで、どうすんの?」


「どうしよう」


「知らないわよ。自分で決めなさい」

そう言ってピンクのラメのケースから煙草を取り出す。「堕胎すんなら病院紹介してあげるわ」


「駄目かな。堕胎さなきゃ」


口にくわえて火をつけた所で、アザミのお腹に目をやり、ガラスの灰皿にもみ消した。「知らないわよ。相手はどう言ってるの?」


アザミは小さく首を振った。


「言ってないの? 話にならないわ。私に相談するんじゃなくて、そいつに責任取らせなさいよ」


「一緒に病院行ってくれる?」


“ラ・カンパネラ”が終わり、まばらな拍手が起こった。


「わかったわよ」ユキは観念して言った。「その代わり、その男にはちゃんと話しなさいよ」




 病院の待合室にはお腹の大きな妊婦さんが並んでいて、まだ若い彼女達を見て顔をしかめる者もいた。ユキはくすんだオレンジ色の自動販売機で紙コップの珈琲を買い、アザミに渡した。


「ありがとう」アザミは震えながらそう言い、紙コップを口元に持っていった。「熱っ」


「馬鹿」


「苦いよ」


「苦いくらいがちょうどいいの。自分の甘さを律しなさい」


「分かった」


「泣くな」


「ありがとう」


分針の時を刻む音がこだまする。


「何かさ」とユキは小声で言った。「前にもこんなんあったよね。ほら、あんたが写真展に私の写真だしたとき」


「そうだっけ」


「あんたさ、ビビりまくっててさ、私を写しておいてだよ。あれさ、よくよく考えると私立場なくない? あんたが頼むから被写体になったのにさ。それなのに私が気を使いまくってさ。大丈夫だよ、とか言ってあげてんのに、絶対無理とか言ってんだもん。私が否定されてるみたいじゃん」


「だって初めて選ばれたんだよ」


「私撮っといて落ちましたじゃ許されないわよ」ユキはそう言ってアザミの両頬を片手で掴んだ。アザミはタコみたいに口を尖らせている。

「あの時手に持った林檎って何か意味あるの?」


アザミはユキの脇腹をつつき、手から逃れた。

「何となく、ユキと林檎が合いそうだったから」


「何だそれ」


細身の看護婦が出てきてアザミの名前を呼んだ。

「行ってくるね。応援してて」


「まだ検査だけでしょ?」



 病院を出てユキと別れ、お腹の子供の父親に会いに行く。

「気合いいれていけよ」とユキはアザミに言った。「会ってまずその話をしろ。絶対に優しさをだしたり格好つけたりせず、きっちりとどうするのか話し合え」


バスの窓から外を眺める。様々な人や街灯、家や学校を追い越して行く。バスにはアザミの他に老婆と学生、買い物帰りの主婦なんかがいる。


一番後ろの席を陣取っている二人の男子学生の声がバス内で響く。


「昨日ちょっとイラついててさ、転がってた缶蹴ったらたまたま前歩いていた奴に当たっちゃってさ。それでそいつがなんか振り向いてキレてんのよ。別に弱そうな普通の奴だったし、ムシャクシャしてたからさ、逆ギレしてやったら俺の後ろをそいつと同じ学校の奴が歩いててよぉ。見たらめっちゃガタイがいい奴らでさ、柔道部らしくて、俺はダッシュで逃げたんだけど、捕まって土下座で謝らされて、本当泣きそうだったよ」


もう一人がポテトチップスを食い散らかしながら笑っている。「ははっ、だせぇ」


学生はムッとした様子で言った。「駄目じゃねぇよ」


「駄目だよ」


「お前に駄目って言われる程は駄目じゃねぇよ」


「馬鹿。俺なんてあれだぜ、昨日400件目のメアドゲットしたんだぜ」


そう言ってもう一人はご当地ストラップを大量につけた携帯を見せびらかせた。


「お前あれじゃん。メアド埋めても、受信ボックス俺か母親か広告ばっかじゃん」


「見たのかよ」


「見たよ。前な。嘘ばっかりつくなよ」


「嘘じゃねぇよ」と携帯を閉まって言う。「送信しても返ってこないだけだよ」


「駄目じゃん」


「駄目じゃねぇよ」と二人目は言った。「お前に駄目って言われる程は駄目じゃねぇよ」


運転手が目的の場所を告げ、アザミはブザーを押した。ひどいブレーキ音を鳴らしてバスが止まる。


夕日が沈みかけている。運賃を払い、バスを降り、とぼとぼと田舎道を歩いた。


空をスズメが、染色体のひだの部分のように互いに交差しながら飛んでいる。激しい愛の形だ。闘っているようにも見える。愛とは異種格闘技戦の一種なのかもしれない、とアザミは思い歩を進めた。




 ひっそりとした林を背に、その建物は建っていた。一面ガラス張りの各部屋を、平らなコンクリート造りの屋根と床が挟んでいる。まるで生活を具にしたサンドイッチのようなシンプルな建物だ。写真家サダモトタカシ、彼がこのアトリエの主である。


週に一回、ここで写真教室が開かれている。アザミは緩やかな鉄製の階段を上がり、コンクリートのテラスから中を覗いた。


「写真というのは」とサダモトタカシが授業をしている。「一生のゼロコンマ一秒を奪い取るものだ。二度と訪れないその一瞬を切り取り、形にして保存する。それは人間のエゴであり、生に対する執着なのかもしれない」


サダモトがアザミの存在に気づく。アザミは目をそらし、顔を引っ込め、その場を離れた。


携帯で時間を確認する。授業が終わる20分前だ。生徒には顔見知りも多く、顔を合わせたくはなかった。


アザミは裏の林の方へと周り、授業が終わってみんな帰るまで時間を潰すことにした。


夕日が木々を金色に染めあげ、その上から暗闇が更に塗り変えようと、虎視眈々と狙い、少しずつ夕日を追いやっていく。木々が風にざわめき、辺りを暗闇がおおう頃、サダモトタカシがアザミの名を呼ぶ声がした。


足元が悪く、転ばないよう気をつけながら表にまわる。アトリエに明かりが灯り、薄闇の中で暖色系に光っている。アザミはガラス戸を引き、サダモトの待つ室内に入った。


「どうしたんだい急に」と珈琲を用意しながらサダモトは言った。「ここんところずっと来ていなかったじゃないか」


珈琲メイカーのスイッチを入れる。「髪、切ったんだね。よく似合っているよ」


アザミは髪に手をやり、一月ぶりの室内を改めて見回した。打ちっ放しのコンクリートそのままの壁に約20帖の部屋。正面には黒いうるし塗りの壁が、人が両サイドを通れる程の間隔を開けて立っており、その両サイドを漆壁に備え付けられた間接照明が優しく照らしている。


その壁の奥には赤いシステムキッチンがあり、アザミはよく家庭科で習ったばかりのお菓子や料理を創り、サダモトを喜ばせていた。


床は明るい色目の柔らかなフローリングで、土足で上がれるようになっている。部屋の中央には大き目のガラステーブルがひとつと、木製の長テーブルがふたつ置かれている。


左手側には可動式の間仕切りで仕切られたベッドルームと作品の展示室があり、その奥には床を濃い御影石でてらったバスルーム、洗面、トイレ。そして写真の現像部屋と納戸があったはずだ。


サダモトは珈琲を注ぎ、カップをガラステーブルに置いた。


「7月の展示会には出展するんだろう? 君のは特別枠でとってあるんだ」円形ガラスのシュガーボックスにスプーンを入れ1杯いれる。「どんな写真を考えているんだい?」


アザミは入り口から動かない。


「どうしたんだ? こっちにおいでよ」サダモトは不思議に思い言った。「何かあったのかい?」


「あの」とアザミは口を開いたが、また沈黙した。


「どうしたんだ?」心配した様子でサダモトがアザミの方へ歩み寄る。「遠慮する間柄でもないだろう」


「大丈夫です」アザミは堅い笑顔でそう言うと、サダモトの横をすり抜け席についた。「出展に出す写真のことで悩んでて、夕日をバックにマネキンの写真でも撮ろうかなって思うんですけど」


「ああ、そうか」サダモトはホッとした様子で言った。「作り笑顔のマネキン家族とか面白いかもね。まあ、今回は全員参加のちょっとした展示会だからさ、そんなに深く考えないでコレだって思ったものを撮ったらいいよ。テーマなんて後からどうとでもなる」


アザミはカップを手に取り珈琲をすすった。


「あれっ、砂糖は入ってないけどいいの?」


アザミはゆっくりうなずいた。「最近ブラックで飲むようにしてるんです」


「君も大人になったんだね」


「先生」うわずった声でアザミは言った。「教えて欲しいことがあるんですけど」


「何だい? 写真のこと?」


「どうして私と、その」言葉を考える。言いにくそうにアザミはうつむいた。「寝たりしたんですか?」


「えっ」サダモトは予想外の急な質問に狼狽した。「っとぉ」


「教えてください。どうして私と、どんなつもりで私と寝たりしたんですか?」


サダモトはカップに手を伸ばし、落ち着きなく珈琲を飲み干した。


「正直にお願いします。何を言われても大丈夫です。だから」アザミは真剣な眼差しでサダモトと向かい合った。「ちゃんと答えてください」


「どうしたんだい? 急に」


「知りたいんです。お願いします」アザミの表情は真剣そのものだ。


サダモトは立ち上がり、珈琲メイカーに珈琲を注ぎにいく。「君はいる?」


アザミは首を振った。


「本当に正直に答えてもいいのかな?」


「お願いします」


「分かった」サダモトは冷蔵庫から牛乳を取り出し、珈琲に混ぜて一気に飲み干した。


「ル・コルビュジエって知ってるかい?」


アザミは首を横に振る。


「近代建築の四大巨匠なんて言われてる建築家だ。そこにあるソファも彼の作品のひとつではあるな」


サダモトの指す指の先に黒いソファが置いてある。真四角のクッションを持ち寄っただけのようなソファだ。


「彼の創りだすものはとてもシンプルで、あまりにも独特で、たまらなく美しいんだ。僕は写真家だったけど、彼に憧れ、彼の感性や才能を尊敬したよ。いつか分野は違えど、写真で彼の域まで達したいと思い、達したときには彼が創り出した建造物の写真を撮りに行こうって決めていたんだ」


サダモトは遠くを見て言った。アザミはそれがどう自分につながるのか、糸口を探っている。


「僕なら出来ると思ってた。でも簡単にはいかなかった。いつからかなぁ、僕は写真がたまらなく怖くなったんだ。綺麗な景色や、人々の表情を見ても何も感じない。フレームがいつも僕の周りを飛び回っていた。どうすれば綺麗に撮れるか、どうすれば人々に意味を見いださせることが出来るか、理論上ではよく分かるし、実際その理論で撮った写真で評価もされた。でもどうしてそれが評価されたのかは分からなかった。どうして他が駄目なのか。評論家や展覧会に見に来た人が何を言ってるのか分からない。トランプを、裏を自分に向けて並べていたら、誰かがフルハウスだと言った。僕には裏の同じ柄しか見えない。どうやって揃ったのかも分からない。僕は何も分からないまま大金を手にし、それ以来ワンペアすら揃わずに、生活のために教室を始めたんだ。僕はコルビュジエじゃない。急激な不安に襲われたよ。モノクロの世界にいるような気分さ。世界を塗る色が分からないまま、筆を持ってただ唖然と立ち尽くし、季節は巡っていった。それでも学校をやっている時は先生だったんだ。誰でもない。君らの先生は僕だ。こういうのも悪くないと思った。あっちこっち行ってた線がつながった。辻褄があったんだ。君の写真を見るまでは」


「写真?」


「友達を撮った写真だよ。特別賞を取った」


「あっ、ユキの、林檎の奴。どうしてそれが?」


「あれには感動があふれていた」とサダモトは言った。「写真を撮るのが楽しくて楽しくてたまらない。そう写真が主張していた。僕の写真は何も言わない。目をそらしてじっと床を見るだけさ」


「そんなこと」


「君の写真を見てね。写真が撮りたくなった。でもいざ撮ろうとすると駄目なんだ。何を撮ればいいのか分からないし、何でもいいと思っても、プライドや下手な知識が邪魔して、現象するたびに気が滅入った」


サダモトは息を吐いた。

「そして思った。君が欲しい。君の目が、感動する心が欲しい。君と寝れば、僕も再び感動を感性を情熱を取り戻せるかもしれない、と」


アザミは唖然として言った。「それだけですか?」


「当然君が若く、チャーミングだったということもある。君が僕に好意を寄せていたことは分かっていたしね。それでも妻子ある身で学生の君に手を出したという一番の理由は、失った情熱と才能に対する渇望。それだったよ」サダモトはそう言うとアザミの異変に気づいた。「泣いてるのかい?」


アザミはうつむき、嗚咽を我慢して震えている。サダモトがハンカチを手にアザミの顔へと手を伸ばすが、アザミはその手を振り払った。


「いるんです」アザミは所々に嗚咽を挟みながら言った。「子供が、お腹に、いるんです」


「え?」サダモトは身を乗り出した。空の珈琲カップが落ち、音を立てて砕ける「嘘だろ? それは、本当に僕のこ」言いかけた言葉を呑んで、サダモトはアザミのお腹に目をやった。「病院で確かめたのか?」


「10週目、だって」


 サダモトは大きくため息をつくと席を立ち、コルビュジエのソファに身を沈めた。そして不意に立ち上がると、ベッドルームへ向かって一度はやめた煙草を探しに行った。アンディ・ウォーホールの“花”が飾ってあるパソコンデスクに手をつき、明かりも点けないままスチールの引き出しを乱暴に開け、2本残ったラッキーストライクとジッポライターを奥から探り当てると、ベッドに腰掛け煙草をくわえた。湿っているようでなかなか点かなかったが、3度目で火が点き煙を吸った。一口で咳き込む。左手で頭を抱えた。「堕胎してくれないか? 金は全部何とかする」


アザミは答えなかった。


「頼む」



アザミは冷たい便座に座り頭を抱えた。


どうして? どうしていつも私ばかり我慢しないといけないのよ。


あれからサダモトはタクシーを呼び、アザミに2万円を握らせて家へと帰した。近日中に必ずお金は用意する、そう言って手を振るサダモトの姿が脳裏に浮かぶ。目の前の“みつを”の貼り紙を右手で掴むように破り取る。人間だもの。人間だから!


こうなることは分かっていた。報告と金銭的な話の為に向かったはずだった。でも実際に想像通りになると、こんなことを期待していたんじゃないと気づいた。心のどこかでアザミと新しい人生を始めるサダモトを夢見ていて、いつの間にかそうなる予感のようなものに心を踊らせていたのだ。


私は一生を台無しにするかもしれないのに、お金を払えば終わりなの? 体を傷つけ、心をかき回され、精神的にも肉体的にも二度と立ち直れないかもしれないのに。彼は今頃奥さんと子供と仲良くテレビを見ながらご飯を食べたりして、意味のない会話に小さな幸せを感じて笑ってるんだわ。


アザミの中で暗闇の渦がまく。まぶたの上辺りで鈍い痛みがはしり、渦に身をゆだねると、幾らか気分がましになった。渦は彼女の体を駆け巡り、彼女の求める答えを発してくれる。お前は悪くない、お前は悪くない。そう、わたしは悪くない。人間だもの。しっかりとした足取りで彼女はトイレを後にした。


鏡を見ると、自分に色々なものが突き刺さっているように見えた。言葉の破片や鋭利な金属、肌はひび割れぼろぼろと崩れ落ちていく。様々な角度で自分の顔を確かめる。フリーダ・カーロに似ているかもしれない、とアザミは思い、笑顔を作った。


サダモトの携帯にかける。


オカケニナッタデンワハデンパノトドカナイトコロニカアルカ……


もう一度かける。


オカケニナッタデンワハ……


3度目も4度目も、時間を置いて20回以上かけても変わらぬ機械音が響いた。


それから2日後、サダモトから荷物が届いた。中には現金60万円と手紙が添えられていた。



――君にばかりつらい思いをさせて申し訳ないと思う。そのお金はライカを売って用意したものだ。金銭は妻が管理していて、僕が用意するには、そういう方法しか思い浮かばなかった。あまったら君の好きなように使ってくれて構わない。僕は家庭を犠牲には出来なかった。妻に知られることで、自由が犠牲になるかもしれないとも思った。僕にとってライカは、写真はその程度の存在へと化してしまった。コルビュジエの写真も撮れそうもない。今度の展覧会を最後に写真教室はやめることにした。アトリエもいずれ誰かの手に渡ることになると思う。僕は僕でこのことを一生背負っていくつもりだ。



アザミは携帯を取り出しサダモトにかけた。いつもの機械音とは違っていた。



 コノデンワバンゴウハゲンザイツカワレテオリマセン



 “Theoria”のネオンで虫が焼けている。コンビニのゴミ箱からゴミが溢れ、カラスがひょこひょこ警戒しながら近づいてきている。アザミは再び急な階段を降りた。


金髪ロン毛の男がアザミに気づいた。「ああ、ユキの、ええと」


彼女は財布から千円札を2枚取り出して受付の机に置いた。男はチケットを渡す時に両手で包み込むように渡そうとしたが、アザミは声をあげて反射的にその手を振り払った。はらはらと舞い落ちたチケットを拾い、固まる男を背に逃げるように赤く重厚な扉の中へと入った。


ステージでは前衛的な音楽をバックに、椅子に座って自作の詩を朗読している黒縁眼鏡の男と、彼の周りを奇妙な動きで徘徊する白い全身タイツに身を包んだ男が出演していた。


アザミはドリンクコーナーでカシスオレンジを頼み、ユキの姿を探した。人の集まるところにユキの姿がある。しかし、今日はどこのグループにも見当たらなかった。そのままカクテルを飲みながら探していると、会話をしながら動く人の間にユキの姿が見えた。ユキは一人で退屈そうに壁にもたれてソルティドッグを飲んでいた。


 ワントゥースリーフォー

 ファイブシックスセブンエイト

 ワントゥースリーフォー

 ファイブシックスセブンエイト

 追憶の調べ

 ダイヤのクレパス

 アクリルのバラッド

 白亜の銃で

 やくざなあの子を滅多撃ち



「ユキ」とアザミは近寄り声をかけた。

「アザミか、どうした?」



 世界はきっと僕を見捨てて

 いたいけなあの子と進化のドライブ

 ライブをやっても誰もみない

 バイブになってもない携帯



「彼に会ってきた」

「そう」



 トンネルを何度抜けても

 そこは見知った土地でしかなく

 雪もなければあざみも咲かず

 不毛な大地は不法に歪み



「中絶することにした」

「そう」



 未曽有みぞうの空は刹那に泣いた



「けっこうお金ももらったの」

「そう」



 ふと立ち止まり考える

 どこかを目指すのもいいれど

 ここはそんなに悪いのか?

 こことどれ程違うんだ?



「仕方ないもんね」

「そうね」



 閑古鳥は我に返る

 遠く長い道のりは

 スタート地点に続いてる


「けっこう多いと思うのよ。そういう子」

「そうね」



 黒縁眼鏡が立ち上がった。こんなことして何になるんだ。

 白タイツは動きを止めた。

 彼女は愛想を尽かし部屋を出てった。俺は飯も作れずに、欠けた茶碗を手に泣いた。

 白タイツが黒縁眼鏡の元へ駆け寄る。



「ユキ、一緒に病院行ってくれるよね」

「ごめん、アザミ」

「え?」

「私も色々あってさ」



 破壊した空き箱はゴミに埋もれ、部屋には孤独が鳴り響いた。

 白タイツは黒縁眼鏡に詰め寄るも、黒縁眼鏡は動じない。

 天井の木目に彼女を探す。畳の匂いに彼女を探す。



「どうして? 前は行ってくれたじゃない」

「どうしてもよ。私には私の都合があるの。前は前、今は今、無理なものは無理なの」

「日にちをずらすわ」

「そういう問題でもないの。一週間やそこらで解決するようなさ」



 白タイツはやめさせようとしたが、客は黒縁眼鏡の叫びを聞きたがった。

 世界は俺を置いて今日も回り、俺は白いタイツに今日も掴みかかられている。



「どうして? 私がこんなに苦しんでいるのに」

「悪いけど今日はもう帰って」


 お客の笑いの渦の中、白タイツは掴みかかった手を離した。それから何か言おうとしたがやめ、彼は寂しそうに舞台の袖へ消えていった。



「分かった」アザミはそう言ってユキの元を離れ、赤く重厚な扉を押した。


ニルヴァーナの“サッピィ”が流れている。白タイツと金髪ロン毛が話している。金髪ロン毛がアザミに気づいた。

「あっ、ごめんねぇ。ちょっと暴走しちゃってさ」


アザミは自分に言われているのか分からなかった。振り向いたが、誰もいなかったので自分にいわれているらしいて気づく。「何がですか?」


「ライブでハプニングが起きたから出てきたんじゃないの?」


「ライブ? いいえ、違います」


「何だ、違うのか」


アザミは軽くお辞儀をして立ち去ろうとした。


「あれっ、ユキは?」


金髪ロン毛は話を続ける。


「中です」


「まだ怒ってる感じだった?」


「よく分からないですけど」


「いやさぁ、俺が君のこと紹介してくれって言ったらさ、何か一人でキレやがって」


「は?」


「俺もだんだん疲れてきたんだよね。ああいうタイプ」


金髪ロン毛が近寄ってきて、アザミは後ずさりした。


激しくも切ないギターソロが流れる。


「この曲知ってる? カート・コバーンとか、聞いたことない?」


「ヴォネガットでもラッセルでもないよ」と白タイツが口を開き、アザミにはさっぱり分からないことを口走る。


アザミは引きつった笑顔で首を傾げた。「知らないです。あっ、私帰るんで」


男達は入り口を塞いだ。「どう? 俺の髪型。カートっぽくしてみたんだけど」


「知らないですから、どいてもらえます?」


「ユキと喧嘩でもしたの?」


「してないですから、どいてください」


アザミは吐き気を感じた。


「何かむかつくな。お前」


アザミはいきり立って言った。

「カートなんちゃらって人は知らないけど、あなたが真似するのは多分その人に対する侮辱だと思います」


「は? 何お前?」金髪ロン毛の表情が曇り、目が座る。「お前が俺を侮辱してるんだろ。おいっ!」


白タイツがアザミの手をつかむ。


アザミは瞬間的に振りほどいて奥へと逃げた。ソファと自動販売機、ステッカーの貼ってあるガラステーブルがある。どこへ続いているか分からない黒いドアを見つけた。と、同時に黒いドアが開いて、中から神妙な面持ちの黒縁眼鏡が出てきた。


助けを求めようと声をだすも、金髪ロン毛の声にかき消されてしまった。


「眼鏡ぇ、そいつ捕まえたら今日のことは許してやる」


黒縁眼鏡と目が合う。スローモーションになり、意識だけが飛躍して体がついていかない。黒縁眼鏡が手を伸ばす。無数の手がアザミを捕らえようと伸びてきている錯覚に陥る。アザミは何とかその手から逃れ、逃げ道を探した。


出口との中間辺りに位置する赤い扉が開き、煙草をくわえたユキが現れた。


「ユキっ」と声をかける。加速する意識がユキを捕らえ、音が消え、周囲がぼやけ世界がユキだけとなる。


ユキも異常な事態を感じとった。「アザミ? ケンジっ、あんた何してるの?」


出てきたのがユキで金髪ロン毛は安心したようだ。「お前が紹介してくれないからさ」


「紹介って……、何しようとしたの?」


アザミはホッと胸を撫で下ろした。いつもユキが助けてくれる。


「アザミ」とユキはアザミの方を向く。「あんたも人の彼氏にちょっかい出さないでよ」


「別に私は」アザミは面食らって言った。


「ケンジはあたしと一緒になるの。カート・コバーンとコートニー・ラヴのような関係になりたいのよ。お願いだから邪魔しないで」


アザミの顔から哀しみの色がにじむ。「ユキ」


「十代の魂のような匂いがする」とケンジは言った。


「アザミ、帰って」ユキはそう言い、吸っていた煙草を足で踏みつけた。「もう、ここにはこないで。私の世界を荒らさないで」


アザミは洋風の街灯が連なる路上を歩いた。


露天商がアクセサリを売っている。


ジョン・レノンの“Oh my love”のメロディが流れている。


サダモトタカシの好きだった曲で、よく彼のアトリエでかかっていた。


頭を色々な思いが交錯する。サダモトやユキの顔が浮かび、頭を振って耳を塞ぐ。


ふと気がつくと、スクランブル交差点の中央に立っていた。彼女の思いと同じように、人々がそれぞれの思いや目的を持って交錯している。私には目的地なんてない、アザミはそう思い急激に孤独を感じた。


街を行き交う人々とは、手を伸ばせば触れられる距離にいるにもかかわらず、まるで立体映像を見せられているに過ぎないような果てしない距離を感じた。手を伸ばしても通り抜けて誰にも触れられないような。


彼らには人生があり、向かうべき場所があるのだ。後ろを振り向く。どこへ向かえばいいの? 戻るの? 進むの? どっちへ? やがて彼女の周りから人が減っていき、実質的に孤独になっていく。


信号が点滅している。走らなきゃ。どっちへ? 足が動かなかった。不安に心がさいなまれる。アトリエへ向かおう。そう決めると体がすっと軽くなる。地面にへばりつき、永久に動かないをじゃないかと思えた足が動いた。点滅がやみ、信号が赤い光を放つ。呼吸を整えるアザミの後ろを、無軌道な若者達を乗せた車が、大音量とともに猛スピードで走り去っていった。





 仕事帰りのサラリーマンや、部活帰りの高校生、若い男女と酔っ払いを乗せ、夜の街をバスは走った。アザミは暗闇の中で尾を引く街灯の光を、何とはなしに眺めている。前の席の高校生のイヤホンから音がもれる。レディオヘッドの“YOU AND WHOSE ARMY?”だった。その曲しか入っていないらしく、繰り返し流れている。


「俺思うんだ」とアザミと通路を挟んで反対側に座っている男女の男の方が言った。「結局さ、愛なんてものは人間の生殖本能や生物学的な防衛本能、あるいは見栄や遺伝子レベルでの条件反射に過ぎないんじゃないかって」


女はうつむいて話を聞いている。


「生存本能や競争を抜きにして、本当に人を心から愛するなんて、そんなのまやかしなんじゃないかってさ」


「難しいことは、よく分かりません」


男はうなずいた。「俺も難しいことはよく分からない。でも最近思うんだ。君とこうやって隣に座っているだけで、何かこう、安心するっていうか、これがこのまま一生続くなら別に悪い人生じゃないかな、なんてさ」


女が男の方を見る。


男は弁解するように慌てて言った。「さっきも言ったように、これは純粋な愛なんかじゃないのかもしれない。少なくとも俺の想像していたものとは全く違う。無償でもなければ、寛大でもない。優しさもなければ、潤いもない。激しくも切なくもない。ただ、隣にいるのが訳のわからない人間ではなく、君だったら悪くないかなって思うだけで、うん」


女は嬉しそうな笑みを浮かべた。


「その、つまり、あれだ。ここまで言えば分かると思うけど、うん。君さ、実家どこだっけ?」


「湯布院です」


「ああ、そうだった。九州。もしかして温泉屋?」


「違います」


「だよね。だと思った。ご両親ってご健在?」


「母が去年」


「そう、大変だったね。一人っ子?」


「はい」


「お父さんひとりか。参ったね」と男は言った。「今思うと君のこと何も知らなかったな」


「あまり話しませんでしたから」


「なんかいつの間にかそういう関係になってしまっていたけど、正式には何ひとつまだだったね。不安だったろう?」男はそう言って女の方を見た。「俺はどうもそういうところが駄目なんだ」


「まあ、分かってましたし、今ちゃあんと伝わりましたから」


「正式にはまた今度ちゃんとするから、今日はこの辺で勘弁してくれないか? いろいろと準備が必要なんだ」


「じゃあ今日はこの辺で」と女は言って、男にハンカチを渡した。「汗、凄いですよ」


「参ったね」といい、男は汗を拭き取った。「洗面器が欲しいよ」


運転手が目的の場所を告げ、アザミはブザーを押そうとしたが、先に押された。


ブレーキ音が鳴る。


サラリーマンが立ち、続いてアザミはバスを降りた。月や星や街灯の照らす道を歩き、アトリエへ向かう。



 アトリエは光もなく、ひっそりと静まり返っている。無機質なコンクリート造りが静寂をさらに際立たせ、冷たい質感が寂しさを倍増する。アザミは裏へ回り、合い鍵を手に、キッチンへと続く勝手口ドアを開けた。


今までもサダモトがいないときに、徹夜で写真を現像したりするのにひとりで泊まったことはあるが、今はもう、主を失い生命を途絶えたような空気が場に充満していた。咳払いをしてみても、コンクリートの壁に虚しく響くだけだ。


スイッチを探し、ONにする。どうやらブレーカーが落とされているようで、一向に明るくならない。アザミは壁に手を当て、時々携帯で照らしながら、ゆっくりと洗面所の方へ向かった。


ドアを開け、中に入り、タイルの質感を足に感じて、携帯で照らし、背伸びをしてブレーカーを上げる。間接照明やダウンライトがほとんどなので、電気を全部つけないとなかなか明るくはならない。


照明が部屋を照らすにつれ、部屋の中の幾つかのものがなくなっていることに気がついた。何がないかはすぐには分からなかったが、部屋はもう何年も放置され続けているように空虚だった。


匂いのこもった冷蔵庫を開けてペットボトルの水を取り出し、口に含んで流しに吐き出す。


サダモトがいないことは分かっていた。


しかし、実際に本当にいないのを目にすると、何をしに来たのか分からなくなった。別に会いたいわけではなかったけれど、じゃあいったいどうして私はここに向かったのだろう。どうしていないと確定されたらこんなにも、剥き出しの心臓を槍でつつかれているような気分になっているのだろうか、と思い嫌になった。


目的地を定めたときの安心感はもうなかった。この建物からも拒絶されているような気がした。


ベッドルームにはベッドとTVが置いてあった。いつかまた取りに来る予定なのかもしれない。TVをつけ、チャンネルを回す。強引に挿入された笑い声が響く。どれも似たような番組ばかりだ。


アザミはTVはそのままに、奥の4帖ほどの展示室へと入った。20枚くらいの写真が飾られており、アザミの撮った写真もある。


サダモトの写真は流石にプロというべきか、生徒の写真とは一線を画していた。モノクロの写真がほとんどだ。白黒のビルの間に写るくすんだ青の空。笑顔ではしゃぐ子供の写真。白い歯が光る。しかし、ちっとも楽しさが伝わってこず、むしろもの悲しい雰囲気の写真だ。暗闇の中に白く光る太陽と雲。尻を上げて脱糞しようとしている老いぼれた痩せ犬。サダモトが自負するほど悪くはないものばかりだ。


アザミはその写真を一枚一枚額からはずし、破り捨てた。自分の写真で手を止めるが、林檎の部分だけを破り取り、ポケットに入れた。他の生徒の写真には手をつけず、そのままにしておいた。


ゴミ箱はすぐに、奪い取られ刻まれたゼロコンマ一秒でいっぱいになった。アザミは元の三分の一になったレコードの中からジョン・レノンを探して叩き割ってやろうと思ったが見つからずに諦めた。ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を取り出し、埃をかぶったレコード版にかけ、針を落とす。重厚なピアノが鳴り響き、いつの間にか深い眠りへと落ちていった。




 光がロールスクリーンに遮られ、淡く柔らかく部屋を照らす。アザミは目を覚まし、軽く頭を振った。トイレで用を足し、天窓のついたバスルームでシャワーを浴び、気分をすっきりさせて全身の映る鏡でお腹を確認する。ため息をついて、意を決した。


病院の待合室にはアザミの他に誰もいなかった。電球が切れかかっているのか、時々白熱灯が点滅する。


誰もいないはずなのに、随分長い間待たされているような気がした。目の前で組んだ手が震える。厳かに分針が時を刻む。医者と看護婦が自分の話をしているんじゃないかて疑念を抱く。


まだ若いのに、最近の若いのは、命を何だと思ってる、無責任だ、親の顔が見たい、頭の中で声が響く。帰りたくなる。明日にしようかとも思う。しかし心を空にして、早く済ませてしまおうと思い直した。そうしたら解放されるはずだ。何事もなかったかのように。


またやり直せる。何て思われてもいいじゃないか。人間だもの。


法律では外に体が全て出た時点で人間と扱われる。お腹の胎児はまだ人間ではないのだ。だとしたら、人間である私の生活の方が優先されてしかるべきではないか。これも人生で数ある試練のうちのひとつなのだ。乗り越えなくてはならない。


アザミの名前が呼ばれた。看護婦の顔が陰になっていて、どこを見ているのかよく分からず、同じ名前の誰かを呼んでる気がしたが、自分以外に誰もいないことに気づき、慌てて立ち上がった。


やけに光が眩しかったのを覚えている。私は一生自分を許せないだろう。白い花瓶に飾られた、一輪挿しの花びらが一枚、風もないのにはらはらと、冷たい床へ舞い落ちて、アザミは全身で泣いた。


表情のない看護婦に頭を下げて病院を後にした。空は曇り、世界は色を失った。寂しげな目をした猫が塀の上でにゃあと鳴き、塀から飛び降りてアザミにすり寄ってきた。斑尾の尻尾をピンと立て、彼女の脚に体をこすりつける。


アザミがかがんで頭を撫でると嬉しそうな顔をしたが、すぐに飽きてしまったらしく、アザミから離れて歩き出した。


アザミは寂しげな目で猫を見送っていたが、何となく気になって後をつけてみることにした。


猫は住宅街の中にある、古びた公園の中へと入っていった。周囲を3メートル程の木々が取り囲み、ブランコと滑り台、砂場があって、その砂場で子供が二人遊んでいる。猫は木の上に登り、尻尾を垂らしてまた寂しげな目で遠くを眺めている。いくら呼んでも一向に降りてきそうになかったので、アザミは諦めてブランコに座りゆっくりこいだ。


「ただいま」と砂場の女の子が、ドレスを着たロングヘアーの人形を持って言った。「おかえりなさい、フランちゃん。学校は楽しかった? うん、とっても」


男の子はロボットを手に、砂の山と戦っている。「ブギャー、ブシュー、ドカーン」


「テストはどうだったの? 100点だったわ。先生にほめられたの」女の子は泥で汚れたお皿に葉っぱを並べる。「まぁ、えらいわねぇ。ごほうびにオヤツあげないといけないわ。どうぞ、召し上がれ。わぁい、ありがとう、お母さん」


「バババ、ヒューン、うわぁ、なかなかやるな」


「お父さんお仕事がんばっているかしら? 今日はいっぱいごちそう作ってあげなきゃ」女の子はピンクの大きなお皿に、湿った砂をドサッといれた。「ハンバーグとケーキとごはんとオムライスでいいかしら?」


「とおっ、てやっ。スーパーミサイル発射。オーケー、発射して下さい」


「これで良しっと。あとはお父さんの帰りを待つだけね」


「すごいっすごいっなんて強いんだ。うわぁ助けてくれ」


「おそいわねぇ、お父さん。ザンギョウかしら?」女の子はそう言って男の子の方を見る。「もう帰ってくる時間よ」


男の子は砂の山を崩すのに夢中だ。


「ちょっとケンちゃん。もうご飯の時間だよ」


「ブーン。バシュッ、バシュッ」


「ねぇ、帰ってきてよ」


「うるさいなぁ、今忙しいんだよ」


「ご飯いらないの?」


「ドヒューン。こちら砂組、応答願います。とても強いロボットが。うわぁ、どうした、どうした」


「もういいわ。フランちゃん。わたしたちだけでいただきましょ。まぁなんておいしいんでしょう。こんなおいしいもの今まで食べたことないわ」


女の子はそのまま人形と、葉っぱや砂の晩餐会を楽しんでいたが、日が暮れるにつれ、鼻をすすったり、手で目のあたりを拭うようになった。


男の子は夢中で山を崩している。


女の子はすくっと立ち上がり、手に持っていた人形を男の子目掛けて投げつけた。「リコンよ、もうリコンだわ。二度とケンちゃんなんかと遊んであげないから」


女の子はそのまま走り去り、男の子はわけも分からず唖然と女の子を見送るだけだった。


やがて男の子もひとりになったことに気づき、泣きべそをかきながら公園を後にした。


公園には木の上の猫と、アザミと、砂にまみれた人形だけが残った。アザミは砂場の人形を拾い上げ、砂を払って袖で拭いた。それでも汚れが取れなかったので、砂場で軽く洗って、砂場の縁にお皿と一緒に並べておいた。そしてまた泣いた。




 数日後、アザミはしっかりとした足取りで早朝の路上を歩いていた。ひとりだけ流れに逆らって、人々を避けながら、足早に目的地を目指す。手にはしっかりと茶色の封筒が握られている。度々腕に巻かれたスウォッチに目をやり、苛々と信号が青に変わるのを待った。


するべきことがあった。それがどんな意味を持ち、どんな効果をもたらすのか分からなかったが、伝えたいことがあった。あそこはそれをするのにうってつけの場所だと感じた。


「要するに僕の写真に不満があるわけだろう? だったら君が撮ればいいじゃないか」サダモトタカシはタクシーの後部座席で、携帯電話の奥にいる妻に向かって言った。「君の頭にあるヴィジョンと違うから文句を言ってるわけだろう? だから僕の作品にケチをつけるわけだ。だったら君がそのヴィジョン通りのものを撮って見せてくれ。撮り方なら教えるからさ」


サダモトが目を見開く。路地を歩く人々の中にアザミの姿を見たからだ。


「ああごめん。何でもないよ。つまりだ、その写真こそが僕が今出来る範囲の全てなんだ。それで本を出す。君には黙っているつもりだったんだけどね。もし駄目だったら、つてを頼ってどんな仕事でもやるつもりさ。撮りたくないものも撮るし、気に入らない構図でも文句は言わないよ。とにかく今日は教室最後の展示会だ。少しだけでも顔を出さなくちゃならない。あぁ、すぐ帰るよ。キャンセルしようとしていたくらいだからね。帰ってからゆっくり話し合おう。あぁ、でも僕は」


無情な電子音が電話が切られたことを示している。サダモトは舌打ちして携帯をしまった。「プロの写真家としての僕は、全く信用されてないようだな」


それにしても、さっきのはアザミだったのだろうか? だとしても彼女が向かっていたのは展示会とは逆方向だった。出会うことはないだろう。僕に会えると思って来たが、いなかったので帰っているところなのかもしれない。まさか金か? 多めに渡したはずだ。あれじゃ足りないというのか? そういう女ではなかったはずだが。或いは作品を届けに来たのかもしれない。大変な状況だったろうが、教室の中では一番真面目だったし、センスもあった。彼女の性格からすると、そっちの方が可能性が高そうだ。彼女のスペースは空けてある。ファインダーを通してでしか、世界と繋がることが出来ないことを、彼女はよく分かっていた。兎に角一度顔を出して、あまり長居はしないでおこう。僕らは出会わない方がいい。お互いのためにも。


「そこで降ろしてもらえます?」


サダモトはそう言い料金を払ってタクシーを降りた。ショッピングモールの搬入口に周り、パスを見せて中へ入る。ちょうど設置も終わっている頃だろう。イベントコーナーへと向かう。


サダモト写真教室展示会と書かれた看板があり、生徒達が集まっている。


「やあ、おはよう。綺麗に出来上がってるね」


「先生」と生徒達が振り向き、中の一人が言った。「おはようございます。あの」


「ん、どうした?」


「さっきアザミちゃんが来て作品を貼っていったんですけど」


やはりか、とサダモトは思った。「そうか。彼女の分は空けてあったろ?」


「それは、はい、空けてありましたけど。本当にこれでいいのか確認して欲しいんです。こういう芸術かもしれないし」


サダモトは生徒に連れられてアザミのために空けてあったスペースへと向かった。


「これ、いいんですか?」


そこには、お腹の胎児を写したレントゲン写真が貼ってあり、タイトルには「あなたとわたしのふたりの罪」と乱暴に書き殴られていた。












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