『センパイ、惚れ薬です』、と言ってスポドリを渡してくる後輩の話。
◇◇◇
「センパイ、お疲れ様です!惚れ薬です、どうぞ」
「おう、サンキュー」
校舎の外では蝉時雨がやけくその様に降り注ぐ八月、夏休み。五分休憩の合図で、剣道場の床を踏みしめる音と竹刀同士のぶつかり合う音が一旦止み、面と手拭いを外してマネージャーの用意してくれた飲み物を受け取る。そして、冒頭のやりとりは一年後輩のマネージャーである春原緋色が俺にドリンクを渡す際のやりとりだ。
紙コップを受け取って口に運ぶ寸前にピタリと手を止めて春原を見る。
「んん?今何て?」
俺の言葉に春原はきょとんとした顔で首を傾げる。
「え?センパイ、お疲れ様です!ですけど」
「いやいや、その後」
「惚れ薬です、どうぞ。ですけど」
この人何を言っているんだろう?と言う目でじっと見つめてくるので、もしかして俺がおかしな事を言ってしまっているのではないかと思ってしまうが、すぐに思い直す。おかしいのは春原だ。
「だよな。言ったよな。聞き間違いじゃないよな。どう見ても普通のスポドリだろ。スポドリだよな?なんで何も答えないんだよ」
春原はニヤリと意味ありげな含み笑いをすると、傍らに置いたストップウォッチに目をやる。
「あと一分でーす」
その声を合図に皆足早に各々の面へと向かう。当然のことながら手ぬぐいを巻いて面をつけた状態で休憩終わりを迎える必要がある為だ。遅れた人は遅れた秒数の早素振りを行う必要がある。
「あれ?飲まないんですか?休憩終わっちゃいますよ?」
ニヤニヤと安い煽りをくれてくるので、グイっと一気に紙コップを飲み干す。うまい。スポーツドリンクが渇いた身体に染み渡る。
「効きました?」
「いや?別に普通」
そして五分休憩が終わり、稽古は再開――。
「春原、もしかしてお前俺のこと好きなの?」
部活後、水を飲みに水場に向かうと洗い物をする春原とはち合わせたのでそう聞いてみる。彼女は露骨に怪訝そうな顔をして半歩距離を取りつつ俺を見る。
「えっ、何ですかその俺様系の問い掛けは。自信過剰にも程がありますよ」
「……俺様系って」
言われてみれば、少女マンガのライバル男みたいな物言いをしてしまっている事に気が付き若干恥ずかしい。
「だって『惚れ薬』とか言ってくるんだから、惚れてほしいって事だろ?」
「だからセンパイの事が好きだ、と?」
「そんなに飛躍した論理は展開してないと思うんだけどなぁ」
キュッと蛇口を止めると、タオルでスポドリの入っていた容器を拭きながらジッと白い目を俺に向けてくる。
「別に。ただ面白そうだから言ってみただけですよ。大体センパイ好きな人いるでしょ」
「えっ、何でそれを」
春原の言うとおり、俺は同じ剣道部の君島鞠乃の事が好きだ。白い剣道着と紺の袴がよく似合う、黒髪長身のまさに大和撫子と言った風貌の彼女に好意を抱く男子は俺以外にも沢山いることだろう。
「そんなの見れば分かりますよ。まぁ鞠乃先輩かわいいですもんね」
「……見ればわかるって、そんなに……ですかね?じゃあもしかして君島にも……」
動揺しているせいか、つい敬語になってしまった。
「あはは、あれだけチラチラ見ていればバレてるかもですね~。なんならもう告白してみたらいいじゃないですか。惚れ薬お分けしまましょうか?」
「いや、いらんわ。つーか何なんだよその惚れ薬って」
「惚れ薬は惚れ薬ですよ。相手が自分を好きになる素敵なお薬です」
得意げに胸を張る春原は、正直言って胸はあまりない。
身長は多分平均より低く、髪型は何て言うんだろう?ショートカットなのか?くりっとした大きな瞳でよく笑う少年の様な雰囲気の残る少女だ。
「……えーっと、そのお薬は合法なの?」
「いいえ?」
絶句。仮にそれが本当の話だとして、そんなの人に飲ませるなよな。
気が付くとそんなやりとりで大分時間が経っていたようで、他の女子部員が春原を呼びにやってくる。
「緋色ー。何やってんの~。部室閉めちゃうよ」
「あっ、待って。すぐ行く!」
バタバタと慌ただしく片付けをすると、春原緋色はちらりと俺を見て微笑む。
「では、センパイ。お疲れさまでした」
「おー、お疲れさま」
◇◇◇
夏休み中も週に三回部活はある。毎日暑く、風通しの悪い剣道場の中で重い防具を着て竹刀を振るう俺たちの生命線はドリンクサーバーのスポーツドリンクだ。
「センパイ、お疲れさまです!惚れ薬です!」
「おう、サンキュー」
受け取り、躊躇無く飲み干す。今日も渇いた身体にスポドリが染み渡る。
「あら、反応が無いですね。面白くない」
「だって普通のスポドリじゃん」
「まぁ、味はそうですね。味は」
「飲んだことあるのかよ」
「そりゃまぁ。自分で味見くらいはしますよ」
「自分で飲むとどうなんの?」
「自惚れます。『うん、わたしかわいいっ』て。センパイはどう思います?」
「なんだそりゃ」
そんなやり取りをしているうちにあっと言う間に一分前。五分休憩終了。
「お前最近春原ちゃんと仲良いよな」
着替えていると友人からそんな話を振られて眉をひそめる。
「別に普通だろ。特別良くはないと思うんだけど」
「ほぉ。休憩時間とかずっとしゃべってるのにそんな物言いか。部活の後二人で話してるのも見てんだぞ」
「それはその時偶々だろ。別にいつもじゃないし」
俺の抗弁も虚しく、友人の飯野は悔しそうに、うらやましそうに首を横に振りながら嘆きの声を上げる。
「いいなぁ~。俺も春原ちゃんに『センパイ♪』とか呼ばれてぇなぁ~」
「さすがにその位は普通に呼ぶだろ」
と、言った後で考えてみて春原はこいつのことを『飯野先輩』と呼んでいることに気が付く。だから何だという話だけど。
「かわいいよなぁ、春原ちゃん。ちっちゃくて妹系って言うか、小動物系って言うか」
かわいいかかわいくないかの二択で言えばまぁかわいい方だろう事は分かる。自分の容姿を棚に上げて人の容姿にとやかく言うのはどうかと思うけど、誉めているから許してほしい。
「お前さ、飯野に惚れ薬盛った?」
「え?何でですか?盛りませんけど」
部活後、水場で後片付けをする春原に問い掛けるときょとんとした様子で首を傾げられた。
「あぁ、もしかしてアレです?わたしの事かわいいとか言ってました?あははは、こう見えて意外とモテちゃうんですよね~、わたし」
「すげぇな、惚れ薬効果あんじゃん」
自分で飲むと『自惚れる』と言う設定をあげつらった皮肉だが、春原には通じなかったようで得意げに頷く。
「でしょう?だからセンパイも鞠乃先輩に飲ませた方がいいですよ。早くしないと誰かに取られちゃいますよ?ほら、一杯あげますから。多分今着替えてますよ」
そう言ってこれから洗おうとしていたドリンクサーバーから残ったスポドリを紙コップに注いで俺に差し出してくる。
「そんな紙コップ持って更衣室行ったらなんか変態っぽいじゃん」
「大丈夫ですって。中身が黄色かったらちょっとアレですけど」
「……お前そういう事言うなよ。黄色いスポドリだってあるんだから」
「あははっ、ごめんです」
「緋色ちゃ~ん。片づけ手伝おうか~?」
戻りの遅い春原を心配してやってきたのは君島鞠乃だ。
「鞠乃先輩!大丈夫ですよ、センパイが手伝ってくれて……」
言いながらピンと閃いた顔をしたかと思うと、わざとらしくパンと手を叩き声を上げる。
「あっ!そうだった、忘れてた!アレ!ちょっと取ってきますね」
チラリと俺に目配せをしながら春原緋色は足早に駆けて行く。水場に残ったのは俺と君島。気を使って二人にしてくれたのは火を見るより明らかだ。
「あ、あー……。はは。げ、元気なやつだよな、春原」
引きつった笑顔でそう言うと、君島はクスリと笑いしゃがむ。
「ふふっ、ね。緋色ちゃんはいつも元気だよね。これ、洗えばいいの?」
濡れないように制服の袖をまくり、ドリンクサーバーを洗う。
剣道は男子も女子も一緒に練習する。バスケとかバレーみたいに男女で分かれていないから、元々君島とも全く話さないと言うわけでも無い。
高校に入って一年半。ただ二人きりで話す機会となると中々無かったのは事実だ。
「いつも楽しそうに緋色ちゃんと話してるけど何話してるの?」
「楽しそうに……?別にただなめられてるだけじゃねぇ?これっぽっちも中身のある話はしていないぞ」
「そっかぁ。二人だけの秘密かぁ~」
「いやいや、全っ……然そんな事はないから。マジで。本気で。冗談抜きで」
剣道部の洗い物なんて大した数があるわけでもなく、君島もすぐに洗い終わる。周囲を見渡すが春原はまだ帰ってくる様子もない。
春原の話題が中心ではあるが、春原が戻るまでの少しの間俺と君島の二人だけの時間は続いた。どうでもいいような俺の話に彼女は耳を傾け、時折楽しそうに笑った。一言で言えば、最高の時間だった。
その日を境に、少しずつ君島と話す様になっていった。必要なのはきっかけだったのだ。
「はいセンパイ、スポドリです」
俺と君島が話すのを満足げに眺めながら、いつの間にか春原は素直にスポーツドリンクを渡すようになっていた。
「おう、サンキュー」
それからもう少し経つ頃には大分気温も下がり、土曜の練習以外はドリンクサーバーもお役御免となった。君島とアドレスを交換をして、何てことないやりとりを出来るようになった。
車輪が回るような好循環。君島と仲良くなって、部活も気合いが入って、勉強も頑張らなきゃって気持ちになる。毎日が順調の一言。
「や、センパイ。お元気そうですね」
ある部活の無い日、特に誰かと遊ぶ用事も無いのでぶらぶら帰ろうかと下駄箱に向かうと後ろからポンと肩を叩かれる。声の主は春原緋色だ。
「お、春原。おかげさまで……でいいのかな?」
惚れ薬の意図はこれっぽっちもわからないけれど、春原のおかげで君島と仲良くなれたようなものだ。
「ふふん。お礼に飲み物くらいおごってくれてもいいんですよ?」
腕を組み、得意げに春原は笑う。
ファミレスでお子様ハンバーグセットにドリンクとデザートをつけるくらいは感謝していたのだが、春原の希望でコンビニで買って公園で飲むことになる。夏服はとうに過ぎ去り、来月にはブレザーに切り替わる様な時期。
「ほい、本当にこれでいいのか?」
「わーい。ありがと~ございま~すっ」
公園のベンチに腰掛けた春原は、俺からペットボトルを受け取るとピョンと足を伸ばして喜びを表す。春原の希望はペットボトルのスポーツドリンク。
「やっぱり粉のやつと味違いますよね~」
「へぇ、そうなん?」
「あら、バカ舌ですか。飲んでみます?」
「いや、間接キスだから遠慮する」
「うわ、そんなきっぱり間接キスっていう人初めて見た」
白い目を向けつつ僅かに俺から距離を取ったので軽くショックを受ける。
「もうそろそろ告白しちゃったらどうです?脈ありなんですよね?」
「ん~、……あるような、無いような」
「なるほど、つまり不整脈ですか」
「全然ちげぇよ」
ペットボトルのスポドリをゴクリと飲むと、春原は腕を組んで首を傾げる。
「ん~、そうですねぇ。あっ、じゃあこうしましょう。わたしを鞠乃先輩と思って告白してみて下さい」
「何でだよ。誰がするか」
「何で、と言いましたね?センパイ。トップアスリートもよく言いません?練習で出来ないことが本番で出来るようになることはないとかなんとかかんとか。つまりそれです。さ、とにかくやってみましょうよ。ほら、ほら」
多分、『やるわけねぇだろ』とかそんな風に俺がお茶を濁すのを予想しているんだろう。だが、春原の言うことも確かに一理ある。
「春原」
「春原じゃないですよ。鞠乃ですよ、センパイ」
ペットボトルを片手に余裕の笑みを浮かべる春原緋色。
「好きだ」
緊張や、戸惑いや、照れが現れる前に機先を制する。剣道で言えば出小手の様な一閃。
「……えっ」
春原は短く驚きの声を上げると、顔を赤くしながら慌ててそっぽを向く。
「へ、へぇ……。ややややれば出来るじゃないですか。センパイ」
言い終えて急に身体中から変な汗が噴き出てくる。
「あ、あぁ。そうだな」
「もしセンパイの告白が上手くいったら――、」
顔を背けるどころか、完全に俺に背を向けていた春原はぼすっと無遠慮に俺に寄りかかり言葉を続ける。
「また何か奢って下さいね」
顔が見えないから、春原がどんな表情でそう言っているのかは分からなかった。
そして結果から言うと、俺が君島に練習の成果を発揮することは無かった。
「だから言ったじゃないですか」
公園でブランコを漕ぎながら、春原緋色は隣に座りうなだれる俺を咎める。
君島鞠乃に彼氏が出来たのだ。相手は隣のクラスのクラス委員で、君島もクラス委員。ある日の放課後、委員会帰り。彼は意を決して君島に告白をして、彼女は戸惑いながらもそれを受けたそうだ。意外にも、人生初告白だったらしい。
「わたしは何度も言いましたよ。早く告白しないと取られちゃうって」
「……あぁ」
俺の煮え切らない返事に苛立ってか、春原はスカートのまま立ち漕ぎに移行する。
「誰だって相思相愛だから付き合う訳じゃないんですよ。相手を嫌いじゃなくて、特別好きな人がいなければ付き合う事だってあるじゃないですか」
「……そうかもな」
「だったらセンパイはわたしと付き合ったっていいと思うんです」
その言葉に思わず顔を上げる。夕焼けの公園。ブランコを立ち漕ぎしている春原の顔は夕日に紅く染まり、スカートは風に揺れる。
何も言えずにじっと見ていると、春原はバツが悪そうにジト目で俺を見て口を尖らせる。
「……何ですか、何か言ったらいいじゃないですか。かわいい後輩からの、こっ……告白なんですから」
次第にブランコは振り幅を狭め、春原はひらりと器用に再び座り、赤い顔でジッと俺を見て言葉を待つ。
多分、嘘や冗談の類でははい。この表情でそれをされたなら、今後人間不信になる自信がある。
友人の飯野の言うように、春原は確かにかわいいと思う。決して大人っぽくは無いし、スタイル抜群と言うわけでもないが、明るく、元気で、性格もいいし、話も合う。
何より、いいやつだ。
「ダメだ」
俺は首を横に振る。
春原の顔が諦めを帯びた笑顔に変わる。でも、そんな顔を長々とさせたくはない。
「今付き合ったら、君島に失恋したから代わりに付き合うって形になっちゃうだろ。だからそれはだめだ。お前に失礼だろ、そんなの」
春原は困惑した様子で首を捻る。
「つまり、……どういうことですか?」
キィと音を立てて俺はブランコを漕ぐ。理由は一つ。
「もうちょっと待ってって事。ちゃんと俺が惚れてからな」
多分顔は真っ赤なんだろうけど、確実に夕日のせいだろう。
春原はぱぁっと満面の笑みで大きく頷く。
「はいっ!任せて下さい」
◇◇◇
「はい、センパイ。惚れ薬です、どうぞ」
「おう、サンキュー」
ブランコを止めると、春原は鞄からペットボトルのスポドリを差し出してくる。小さいサイズ、未開封。
「効きました?」
「いや、別に」
嬉しそうに顔をのぞき込んで来る春原に首を横に振ると、腑に落ちない様子で眉を寄せる。
「おかしいなぁ。わたしには効いたんだけどなぁ。おっと、失言」
言い終えてわざとらしく口を押さえる。
「……何だよ、途中で止めるなよ」
「いいんですか?聞いたらわたしのこと好きになっちゃいますよ?」
「望むところだよ、言ってみろ」
春原は腕を組み、少し考えたかと思うとにっこりと笑う。
「ん~、秘密です!」
「おい!」
――五月の初め頃の話。
「ん、先飲めよ。汗すごいぞ」
まだ慣れないマネージャー業務。平年より何℃高いと朝のニュースでやっていた暑い日に、小さい身体で重いドリンクサーバーを運んできた春原緋色は汗だくだった。
一学年上の先輩に差し出した紙コップは、そのまま春原へと手渡される。
「……えっ。ありがとう……ございます」
両手で大事そうに持ち、ゴクゴクと飲み干す。
その日の練習から、ずっと視線は彼を追うようになった。
きっと、中身は惚れ薬だったんだと思う――。
終