蟹
「ねぇ、スベスベマンジュウガニって知ってる?」
急な質問に最初何を言っているのか分からなかった。時間差で「知らない」と答えた。姉はこちらも見ないでそうだよねぇ、となんか競走馬の名前みたいだもんねぇと返した。競走馬にそんな名前のついた馬はいないでしょと僕は思っていたが、数年後変わった名前の馬もいる事を知る事になる。
姉と僕の二人で競馬の放送番組を見ていた。日曜日は晴れだと言っていたのに大雨が降っている。両親が結婚当時に買ったと言われる黒色のソファは二人だけでは十分すぎるほどの大きさであり、当時はさぞ立派な我が家の家具の一員として緑山家の家具界の先頭にいた事だろう。けれどそんなトップ家具も常に第一線を走り続ける事は出来ない。結婚から17年経ち、黒いソファに腰を掛けると当時のような包み込まれるような座り心地もなくなり、綺麗だった表面もパキパキと割れ始め中の黄色いスポンジが見え隠れしていた。
それでも現役で役目を果たそうと頑張っているソファに僕ら姉弟は座っている。姉さんは体操座りでテレビを真剣な顔で見ている。競馬中継だ。中学生の僕には茶色や白っぽい馬が緑色の道を走っているだけに見え、ましてやどれが人気の馬とか全然分からなかった。他にテレビはやっていないし、我が家でのルールでチャンネルの主導権は上から順番だったので姉が見たいと言った競馬放送番組を見ざる負えない状況で、勝手に変えてもいいがきっとまたすぐに戻されるだろう。そんな事を考えていると姉さんが、
「もし、この世の中に競馬の蟹バージョンがあって、言うならば競蟹が存在してさ、
その中の一匹に、ワズカニって名前の付いた蟹とオダヤカニって名前のが、いたらき
っと実況を聞いてる人は僅かにワズカニが勝ったのか他の蟹が僅かに勝ったのか分か
んないよね」
僕はその時、なんて返したのか覚えていない。そうだねと同意したのか何言ってるのと心配をしたのか分からない。最も姉さんが行方不明になる最後の会話だから答え合わせは出来ずにいる。今日もまた姉さんの夢を見た。今の僕ならなんて返すだろう。