ある夏、水辺にて。
私はその頃、生まれ育った実家に里帰りしていた。
季節は夏。
私の田舎では、盂蘭盆会、というやつを7月の頭程から行う。普通は8月の中頃で、盆休みもその辺になるものだから、お盆に帰らない訳にも行かず、毎年有休を使って里帰りしているのであった。
その年は特に暑く、エアコンも扇風機も力不足と言わざるを得ない状況だった。
だから私は、よく暑い暑い家を離れて森の中を散策していたのだった。森の中というのもまあ暑いと言えば暑いのだけど、外とは違い、なにか澄んだ空気がある。これが日本の空気か、などと思いながら、ワンピースと帽子、という如何にも夏だという格好で森の中を散策していたのであった。
「霧子や、毎日毎日、どこへ行ってるのかえ?」
ある日の夕食、おばあちゃんが尋ねてきた。
私は特に隠し立てする理由も無いので、
「森ですよ、だってここはとても暑いもの。森は過ごしやすくていいですね」
それを聞いた祖母は、
「そうか……森は古くから“出る”というからねえ……気をつけなさいよ」
と言った。
その時の私は、そんな事あるものですかと笑い飛ばしたくなるような快活な気持ちであったのだけど、わざわざおばあちゃんを悲しませることもないな。と思い直し、
「そうですね。気をつけることにします」
とだけ言った。
それを聞いた伯父は(お盆ということもあり親戚が多く帰ってきていたのだ)、
「霧子ちゃんは素直でええなぁ。うちのガキどもに爪の垢を煎じて飲ませたいわ」
などと言っていた。爪の手入れはきちんとしているから垢なんてないと思ったけれど、まあ黙っていた。伯父はビールで酔っていた。
ちりん、ちりんと風鈴がなった。その音は、私の中に深く響いた。
その日も私は外に出ていた。
日焼けしないよう、日焼け止めを塗り、森の中を歩く。まずは家の裏から。
木のトンネルをくぐり抜けようとした時、後ろから声をかけられた。
「おねえちゃん、また森に行くの?」
親戚の男の子だった。
「そうだよ。君も一緒に行く?」
そういうと彼は少しはにかみながら、
「俺、秘密の池と小川を見つけたんだ。誰にも教えてないんだよ。でも、おねえちゃんが良ければ……」
その様子はとても愛らしかった。
私は思わず、
「ふうん、それはいいね。見せてよ、誰にも教えないからさ」
そういうと、彼は顔を真っ赤にしながら、
「ついてきて」
とひとこと言って森の中を歩き始めた。
森でよく遊ぶ人は、悪路でもひょいひょいと歩いていってしまう。彼も例に漏れず、森の歩き方に長けていた。私は時折彼の背中を見失いかけつつも、どうにかついて行くことが出来た。
山道だろうか、なかなか急勾配の坂(私は普段のようにワンピースとサンダル、帽子というラフな格好だったので、登るのにひどく骨が折れた)を登った先に、その池はあった。
小さいけれど、鏡のように澄んだ水を湛えるその池は、まるでおとぎ話か夢の中にしか無いもののようだった。
私が感動で押し黙っていると、少年は
「どう?すごいだろ?」という目でこちらを見てくる。無言のままも良くないと思い、慎重に言葉を選んで話し始める。
「これは……凄いね。とっても綺麗だ」
「だろ?」
私はスマホを持ってこなかったことを残念に思った。
泳ごうかとも思ったけれど、濡れた体を拭くものもないしな、と断念した。
池のほとりで座っていると、小魚がいるのが見えた。銀色のそれは、木漏れ日に照らされ、きらきらと輝いていた。宝石のようであった。
「おねえちゃん、こんどは川を見に行こうか」
その声に誘われ、私は川を見にゆくことにした。
池の反対側にその川はあった。
これもまた小さいけれど澄んだ水で、珍しい魚はこういうところに居そうだと思った。
少年は、私の逡巡を他所に着ている服のまま水の中に飛び込んでいた。怒られそうだと思ったが黙っていた。水を差すのも良くないと思った。
そして30分あまり経った時。
池の表面が、なにも無いはずなのに揺れていた。
不思議に思った時、ゆっくりと大蛇が姿を表した。気品ある動きで陸の方に上がり、私と男の子を眺めた。
そしてもう1匹の蛇も姿を表すと、その2匹は絡みつき始めた。私はギリシャ神話に出てくる、ヘルメスの杖を思い浮かべた。あれも杖に2匹の蛇が絡みついていたな、と思いながら。
私達は自然と、大蛇2匹から目を逸らしていた。
今から考えたら、私達が居ると分かっていながら蛇は出てきたのだろうから、そんな必要も無かったのかもしれない。けれど、何故か背を向けていた。これが、畏れなのだろうか。超自然的な存在への畏怖。
蛇の逢瀬は、10分にも、1時間にも思えた。
その間、私も彼も押し黙っていた。
ズルズル、というものを引き摺るような音がした。蛇が池へと帰っていくのだと思った。
そこからの記憶は曖昧だ。私が覚えているのは、家の居間で目が覚めたこと。どうやって帰ってきたのかはどうしても思い出せなかった。
あの場所を教えてくれた男の子にもこの話をしてみたけれど、黙ったままでなにも言わなかった。
覚えているのは、私ひとりかもしれない。
もうこれは何年も前の出来事になるのだけれど、いまだに鮮明に覚えているのは、美しい池と、絡み合う大蛇の姿であった。
あの蛇は妖怪、はたまた神だったのだろうか。どうもそんな気がしてならない。
私はそれからはなにも変わったことは無かった。と言いたいけれど、時折不思議なものを見るようになった。
それは水の要素を含む“何か”で、言語では表現し難い要素を秘めていた。
けれど、その話はここでは深くするまい。
最後に、あの美しい池のことだけれど、どうやっても見つからなかった。
誰も知らない池。教えてくれた男の子も、いつかの年に行方不明になったと聞かされた。
きっと何かに攫われたのだと思う。
私も、攫われないように気をつけながら日々を過ごしている。そんな話。