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 九条さんと共に過ごす日々が流れていく。

 少ないなりに回数を重ねても、僕のチョイスはよくも悪くも面白味に欠ける、定番のスポットばかり。しかし九条さんは、この町に引っ越してきてからまだ間もないし、外出も殆どしない人だから、一つの一つの場所を新鮮な気持ちで受け止めてくれているようだ。

 帰途に就く頃合いになると、九条さんの方から次回の予定を尋ねてくることも珍しくなくなった。本人に自覚があるのかは定かではないが、彼女の性格は確実に少しずつ変化していた。無表情、平板な声、時に冷たく感じる素っ気ない態度。それらは全くの不変ではあるのだが。

 変わったのは僕も同じだ。

 次に遊びに行く場所をネットでリサーチする。場合によっては、下見のために現地へと足を運ぶ。貯金を下ろして服を新調する。体型を気にして、ささやかなダイエットに励んでみる。

 一言で言えば、生きることに前向きになった。

 両親の不仲は相変わらずだ。ひとたび諍いを始めると、気分が沈むのは避けられない。しかし、以前と比べれば立ち直るのは格段に早くなったし、受けるダメージも少なくなった気がする。

 僕だって変われたのだから、九条さんはもっと大きく変われるはずだ。

 その予感は、九条さんと出会って以来覚えてきた、日々を消費していく高揚感や充実感といった感情を加速させた。

 つまらない小細工を弄する必要はない。この調子で大切に育んでいけば、いつか必ず、望んでいる場所に辿り着ける。

 そう思う一方、最後のひと押しは僕の手で押す必要があるのかもしれない、という思いもある。仮にそうなのだとしたら、鍵を握っているのは、九条さんが抱えている秘密なのは間違いない。

 九条さんはなぜ、人前で感情を表にせずに、限られた場面でしかしゃべらない人になったのだろう?




 あっという間に、夏休み期間も折り返し地点を過ぎた。

「どちらかの家に遊びに行く、というのはどうかな」

 経験の積み重ねが技術を向上させ、九条さんが文章を打つスピードも大分早くなってきた。その影響もあってか、アプリを通じてテキストメッセージをやりとりする機会が、最近になって右肩上がりに増加していた。

 そのアプリを通じての会話で、次回の行き先について意見を出し合っている最中の、九条さんからの提案だった。

「いいね、それ。その選択肢、九条さんに言われるまで、完全に頭から抜け落ちていたよ」

 僕の返信は速やかだった。異性が自宅に来る。異性の自宅へ行く。どちらのケースも、僕にとっては初めての経験となる。冷静に考えれば大変な事態なのだが、なぜか心の揺らぎは殆どなかった。

「九条さんの家に行くのは、厳しい感じかな?」

 九条さんの家では、家族が帰宅後は電話での会話は難しい、という事実を踏まえての確認だ。案の定、彼女は指摘を認めた。

「じゃあ、僕の家まで九条さんが来る形だね。クラスメイトを家に呼ぶのは初めてだから、緊張するなぁ」

「本当に緊張している? 文章だけだと全然伝わってこない」

「電話越しでも対面でも感情が分かりにくい人が、よく言うよ」

 提案が唐突で、内容が衝撃的だった割に、すんなりと約束が交わされた感があった。

 自室で九条さんと二人きりになることの意味は、僕の中で、時間が経つにつれて重要度を増していった。

 二人の関係の転機になる予感に、期待と不安、相反する感情を同時に覚えた。自分勝手な妄想もした。様々なことを空想し、思案するうちに、この機会を、僕たちの関係を一歩も二歩も深める契機にしたい、という思いは確固たるものになった。

 では、具体的にどう動けばいいのか。

 幸か不幸か、そのビジョンが見えるよりも早く、九条さんが訪問する当日を迎えた。




「お土産を持っていくね。本当にちょっとしたものだけど」

 約束の時間の半時間前に九条さんから連絡が来たと思ったら、そんなことが書いてあった。事前に約束をしていない行為を独断で実践する。僕が知る中では初めてとなる行動パターンだ。

「ちょっとしたものだから」とわざわざ断っているので、ハードルを上げるのもどうかと思い、「了解」とだけ返しておく。いつもとは違う九条さんに会えるかもしれない。緊張を凌駕する勢いで期待が高まっていく。

 部屋の掃除は完璧にした。服は、背伸びはしないがきちんとしたものを。茶と茶菓子の用意はできている。見られたら失望されかねないものは、全て厳重に引き出しに幽閉した。

 いつでも来い。




「こんにちは」

 インターフォンの音色に呼ばれて玄関ドアを開けると、いつものように黒衣に身を包んだ九条さんが立っていた。シチュエーションが今までとは少し違っても、「君は私を殺すよ」発言から一か月近くが経っても、彼女はなに一つ変わらない。彼女を象徴する特徴である、感情が表れない顔も、起伏に乏しい声も。

 ただ、今日はいつもとは違う点が一つ。

「そのレジ袋……。もしかして、それがお土産?」

「そう。コンビニで買ったから、大したものじゃないけど」

「そんなことないよ」

「中身を見ていないのに、どうして言い切れるの?」

「僕のために買ってきてくれたんでしょ? だったら、それがなにがあっても大したものだよ。僕の場合、誰かからプレゼントを貰う機会が全然ないから、それが嬉しいっていうのもあるし」

「上がってもいい?」

「もちろん。僕の部屋、二階だから」

 先に九条さんを部屋に案内して、キッチンで冷たい茶の用意をする。お土産は、なんとなく菓子のような気もしたが、予定通り茶菓子も準備する。スーパーで買った普通のバタークッキーを、百円均一ショップで売っているようなガラス製の器に盛っただけ。友達が家に遊びに来たことがそもそもないから、こんな種類の茶請けを出せばいい、というのが正直よく分からない。食に対する興味がないという九条さんの特性を、僕は歓迎するべきなのだろう。

「お待たせ」

 グラスを両手に帰室すると、九条さんは座布団の上に行儀よく正座している。それを見て、教室でも、遊びに行った先でも、座っているときの姿勢が美しかったことを思い出した。彼女の前と、僕用の座布団の間にトレイを置きながら、

「なにか気になるものはあった?」

「やばそうなものは抜かりなく隠してあるね。残念」

「隠したっていうか、最初から置いてないから」

 答え合わせに等しい苦笑をこぼしながら、九条さんの対面に腰を下ろす。緊張は、現時点ではあまり感じない。というよりも、想定していたよりも感じていない。茶を勧め、彼女が一口飲んだのを確認してから、グラスに口をつける。

「不在の間に観察させてもらったけど。マンガ、たくさんあるね」

「うん。数少ない趣味みたいなものだから。親にスマホを買い与えられる前から集めている影響だと思うんだけど、電子書籍じゃなくて紙の書籍が多いんだよね。こだわりがあるわけじゃないんだけど、なんとなくそうなって」

「私は引っ越しが多いから、物は持てない。そういう意味では羨ましい、かもしれない」

 引っ越しが多い。

 既に告げられていたが、告げられた当初は過小評価し、早々に失念していたその事実は、暗い予感を運んできた。楽しい時間が始まったばかりという状況においては、水を差す邪魔者でしかない。

「マンガ自体に興味はない、ということ? 好きな作品について熱く語れると思ったんだけど」

 そこで、即座に軌道修正を計ったのだが、

「現実がそれどころじゃないから、フィクションに現を抜かしている余裕はないの。ノンフィクションのマンガもあるとか、野暮な揚げ足取りはやめてね」

 呆気なく、陰鬱な暗がりへと引き戻されてしまう。明らかに、意識的なものだ。今日の九条さんは、自身が抱える闇の存在を意識的に仄めかしている。……話したがっている?

 九条さんが望んでいる展開は、僕が望んでいる展開ではない。さて、どうすればいい?

 幸いにも、話を逸らす絶好の口実をすぐに発見した。九条さんが身じろぎし、衣擦れとは似て非なる微かな物音が立ったことで、触れるべきなのに触れずにいるものの存在に気がついた。

「そういえば、コンビニでなにを買ってきたの? お土産ということだけど。ちょっと気になるな」

「ああ、これ。くり返し言うのもなんだけど、本当に大したものじゃないから」

 そう断った上でレジ袋から取り出したのは、袋入りのキャンディ。個包装されたものが三十個ほど入っていて、味はミルクとチョコレートの二種類。パッケージにはそう記載されている。

「キャンディか、なるほど。九条さん、いつも食べているもんね」

「飴、美味しいのに、遠藤くんは食べないから。そんな余裕もない人なんだなと思って、憐れんで買ってきたの」

「いやいや、そのくらいの余裕はあるから。僕にプレゼントしてくれる、ということでいいんだよね」

「もちろん」

 九条さんは大袋を開け、個包装を一つ取り出し、僕の手に握らせた。この場で食べろ、ということらしい。さっそく包装を破き、純白の球体を口に放り込む。

「うん、甘い。美味しいよ」

「たかがコンビニの飴ごときで喜ぶなんて、食生活が貧しいのね」

「美味しいからくれたんじゃないの?」

「声が変だし。くぐもっているっていうか」

「それはキャンディを食べてるからでしょ」

 頬が緩むようなやりとりが終息すると、部屋は沈黙に満たされた。僕が口を閉ざしたのは、口の中にキャンディが入っていてしゃべりにくいから、などという微笑ましい理由からではない。九条さんがなにかを欲するような目で見つめてくるのだ。

「九条さん、どうかしたの?」

 真正面から問うと、そっぽを向いた。しかしすぐに顔の向きを戻し、再びまじまじと見つめてくる。

「なにか言いたいことがあるなら言ってくれていいよ。今は家に家族もいないし、二人きりなんだから」

 言い終わるか言い終わらないかのタイミングで、人差し指が僕の顔に突きつけられた。その行動の意味は、瞬時には掴めない。二・三秒を経て、顔というよりも口元が対象だと気がつく。

「キャンディ、九条さんも食べたいんだったら食べれば。九条さんのお金で買ったものなんだから」

 九条さんは予想外の行動をとった。僕たちの目の前に置いてある、クッキーの器と茶のグラスが載ったトレイを、壁際まで退かしたのだ。そうすることで生じたスペースを、膝行して僕に近づく。

 なにかが始まる予感に、僕はキャンディを舐める舌でさえも、一ミリたりとも動かせない。

 出し抜けに、顔が急接近した。存在感が、匂いが、吐息が肉薄し、そして、

「その飴、私にもちょうだい」

 唇に唇が重なった。

 厳重な扉を、激しさはないが愚直にこじ開けようとする力を感じる。いつの間にか背中に両腕を回され、退くに退けない。突き放すのは躊躇われる。だからといって頭を後ろに逃がせば、半ば不可抗力的に顔が上を向き、口内に留まっているキャンディが喉の奥へと転がり落ちそうだ。丸呑みしてしまえば、なにか決定的な損害がもたらされる気がして、意識的に全身の力を抜く。間髪を入れずに、ぬるぬるしたものが侵入し、キャンディを唾液ももろとも奪い取った。上下の唇を圧していたものがゆっくりと離れる。無意識に瞑っていた瞼を開くと、銀の糸を引きながら遠ざかる薄桃色が見えた。

 その唇を、九条さんは利き手の指先でゆっくりと拭う。指先に付着した唾液を唇になすりつけたような、そんな動きにも見えた。

 僕の顔を見つめながらキャンディを噛み砕く。数秒前には確かに僕の口の中にあった、チョコレート味の球体が破砕される音が静寂の中で響く。

 口の動きが止まる。僕から顔を背けることなく、九条さんは言う。

「遠藤くんの唾液、チョコレートの味がする」

 寒気が背筋を駆け上がった。風邪をひいたときのような不快感はなく、むしろ性的快感に近いものを覚えた。九条さんは相変わらず無表情だが、なんらかの表情を浮かべたがっているような、そんな気配が窺える。

 九条さんは床に視線を落とし、キャンディの袋に手を入れた。個包装を取り出して破り、真珠にも似たミルク味の球体を取り出す。迷いのない、あらかじめそうすると決めていたような滑らかな動作で、それを口に含む。口内で動いたらしく、キャンディと歯がぶつかって音を奏でた。

 そして、挑発的な、意味深長な、蠱惑的な微笑み。

 どこかぎこちなく、変化量こそ僅かだったが、純粋に、確固として、彼女は微笑んだ。僕に宛てて微笑みかけた。

 張りつめていたものが切れた音を、僕は僕の中で聞いた。

 最も近かったときと比べると、九条さんの顔は遠い場所まで行ってしまった。しかし依然として、膝同士は接している。だから、身を乗り出しさえすれば顔を間近に見られる。唇の僅かな隙間から漏れる、そこはかとなく淫靡な香りが、あからさまに僕を誘惑する。楽しくて気持ちいいことをしましょう。そうささやきかけてくる。

 今度のキスは僕の方からした。九条さんは唇を簡単に開放した。舌を侵入させ、純白の塊を探索したが、その必要は早々になくなった。九条さんが唾液ごとこちらに渡してきたからだ。液体の量は、一回目のキスよりも多かったと思う。

 唇を離したのも、キャンディを噛まずに呑み込んだのも、唾液がこぼれそうだったからだ。飲み干したものは、ミルクの味が微かにした。同時に、ミルクとは似て非なる甘味も感じた。

 口元だけをごく控えめに微笑ませた顔で、九条さんは僕を見つめる。味の感想を述べたのだから、僕も述べるべきだ、ということなのだろう。しかし僕は、彼女のように沈着冷静ではいられない。心の高ぶりを抑えられない。

 再び上半身を九条さんへと近づける。衣服越しに胸部の膨らみを柔らかく掴み、三度目のキスをする。そのまま押し倒し、黒衣の裾に手をかけた瞬間、

「やめて」

 投げかけられたのは、この上なくシンプルで明確な、拒絶の言葉。

 信じられない気持ちで九条さんの顔を見返す。肉体的に圧迫されている最中であるかのように、明瞭な苦しみが表れた顔が僕を見つめ返した。

「それだけはやめて。お願いだから」

 裾からゆっくりと手を離す。起き上がろうとする素振りを見せたので、二秒の逡巡を挟んで、離したばかりの手を差し伸べる。彼女は躊躇うことなくそれを握り、僕の力を借りて上体を起こした。

 熱は完全にではないが、冷めていた。

 狐につままれたような心境だった。手に掴まるとき、躊躇うことなく掴まったし、僕の手から手を離すときも、突き放すようには離さなかった。僕自身を拒絶したわけではない。しかし、行為は断固として拒んだ。これはなにを意味しているんだ?

「私の秘密について話そうと思う。声をかけてから今日までの間で、遠藤くんが話を聞かせるに値する人間だと分かったから」

 感情がこもっていない、淡々とした物言いは、普段と変わりない。しかし今回は、なんらかの思いが、感情が、顔の表皮のすぐ下に潜んでいる気配が感じられる。感情を表に出せないのではなく、なんらかの要因によって阻害されているだけなのだと、今さらながらに気がつく。

「まずは、見てもらうと分かりやすいと思う」

 九条さんは自らの服の裾に手をかけ、一気に胸までまくり上げた。

 痣と切り傷があった。一つや二つではなく、十や二十どころではなく、数え切れないほど無数に。服に隠れていた領域一面に、と表現しても大げさではないだろう。

 服をまくり上げたまま、体を回して背中をこちらに向ける。背面も似たような状況だ。痛々しいという言葉では、到底足りない。しかし、それ以上に相応しいと思える言葉は、僕の辞書のどこにも記載されていない。

 黒いベールが下ろされ、九条さんは体ごとこちらを向く。しゃべり出すまでの数秒の間は、明らかに、語ることへの躊躇いに起因するものだった。

「私、父親から虐待を受けているの」

 虐待。

 その二文字を耳にしても、その言葉がなにを意味しているのかを理解するまでには、数秒を要した。ひとたび理解すると、体の芯から温度を奪われるようなおぞましさを感じた。

 その感情を追いかけるように胸に浮かんだのは、九条さんは家族が在宅のときは僕と電話で話をするのが難しい、という申告。

 僕はこれまで、僕との会話を盗み聞きされたくない、もしくは、親しくしている異性がいることを悟られたくないから、家族が家にいるときは電話で話をしないように心がけているのだと思っていた。しかし、まさか、そんな重大で深刻な事情があったなんて。

 僕は返す言葉が見つからなかった。対照的に、九条さんはあくまでもいつも通りに、無感情に、淡々と発話する。

「事情を少し詳しく説明させてもらうね。伝えるべきことを充分に整理できていなくて、分かりにくいところもあるだろうけど」

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