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 それから先は記憶に曖昧なところが多い。警察の世話になることが確定したのを機に、気持ちが切れたのが要因の一つ。世間知らずの十六歳には、次から次へと襲いかかってくる、諸々の手続きの名称や意味や必要性が満足には呑み込めなかった、というのも要因の一つだ。普通から逸脱した未熟者の僕は、大人が敷いたレールの上を盲目的に歩くしかなかった。

 下された判決は、懲役十年。

 類似する過去の事件と比較して、重い判決なのか軽い判決なのかは知る由もない。僕は裁判の中で、九条さんの父親を殺したことは悪いとは思っていない、反省するつもりもない、と一貫して主張した。それが判決に与えた影響は大きかっただろう。九条さんは裁判の中で、自らが父親から受けた仕打ちについて洗いざらい話し、僕の無罪を望んだ。それが判決に与えた影響は小さくなかっただろう。その結果として、僕は懲役十年の実刑判決を受け、刑に服した。

 服役中のことは、あまり思い出したくない。

 たとえば、僕が事件を起こした年にクラスメイトだった高木さん。彼女は言葉づかいや態度に攻撃的なところがある人だったが、刑務所の中で様々な形で接した受刑者の半数以上は、彼女とは根本的に気質が異なる、並外れた邪悪さの持ち主だった。僕とは絶対的に相容れないものを感じた。

 職員の立場の人間は、僕がいくら模範的に振る舞おうと、犯罪者というフィルターを介して僕を見た。それが当たり前だと理解してはいたが、悪人ではないと自負している僕としては、寂しいものがあった。しかし、めげることなく、根気強く日々を一日、また一日と消化し、模範囚として刑期を務め上げた。

 二十六歳。一般的には、大人への移行を完了していなければならない年齢なのだろう。しかし、貴重な青春時代の後半を丸々棒に振った、世間知らずな未熟者の大人である僕は、出所後は親元で暮らさざるを得なかった。彼らに対する嫌悪感は服役前と大差なかったが、頼る相手はもはやその二人しかいなかった。

 あれだけ仲が悪かった両親は、僕が重大事件を起こし、否応にも団結しなければならなくなったことで、夫婦の絆がある程度修復されたらしい。僕が十代のころはパートナーに注がれていた不満や怒りの矛先は、共通の敵である僕に向けられるようになった。といっても、正面を切って攻撃するのではなく、腫れものに触るように接することで、息子に対する自らの気持ちを婉曲に表明する、という方式が採用された。

 迷惑をかけて申し訳ない、大罪を犯した僕を扶養してくれるだけでもありがたい、という気持ちを持ちながらも、心のどこかで二人を軽蔑していた。心の底から申し訳ないとか、ありがたいとか思ったことは、一瞬たりともなかった。

 早く家を出たい。出来損ないなりに一人前になって、自立した生活を送りたい。

 そう強く願うようになったころ、ふらりと僕のもとを訪れたのが、




「裕也」

 僕の名前を呼ぶ声に、キーボードを叩く十指は止まる。

 振り向くと、戸口に女性が佇んでいる。豊かな黒髪が華奢な肩に垂れ、サマーセーターの純白と好対照だ。色白の顔に浮かんでいるのは、三十六歳相応の落ち着いた笑み。

「翡翠。もしかして、ずっと見てた?」

「うん。『違うかなぁ』って独り言を言いながら、何度も首を傾げていたあたりから」

「それ、書き始めたばかりだから、結構前だね。声をかけてくれればよかったのに」

「仕事をする裕也を見ていたかったの。今日の裕也、なんだか集中力が凄くて、ああ、なんかいいな、って思ったから」

 仕事中でも書斎のドアを開け放しているのは、翡翠に要望に基づく処置だ。集中していて微動だにしない後ろ姿。適切な一語を見つけあぐねてうんうん唸っている後ろ姿。頬杖をついてディスプレイを見ながら考えごとをしている後ろ姿。とにかく、僕の後ろ姿を眺めるのが好きなのだそうだ。僕としても、いい意味で緊張感が保てるのは歓迎だし、好意的な視線を背中に感じるのは嫌ではない。少し休憩がしたいときや、話がしたくなったときに、互いが気軽に出入りできるというメリットもある。翡翠は僕の仕事の邪魔は絶対にしないから、迷惑に思ったことは一度もない。同業者からすれば異質なのかもしれないが、僕はなんの問題もなくやれている。

「全然気づかなかったよ。恥ずかしいな。でもまあ、やましいものを書いているわけじゃないからね」

 僕は部屋の隅にあった予備の椅子を引っ張り出し、僕の椅子の後ろに置く。翡翠は歩み寄ってそこに腰を下ろし、僕は椅子を回して彼女に向き直る。翡翠は僕の体を避けるように上体を斜めに倒し、デスクトップパソコンのディスプレイを覗き込む。どうかしたの、と尋ねようとすると、

「互いの呼び名、名字をくんづけさんづけなんだね」

「うん。あのころの出来事を書いた小説なんだから、当時の呼び名に忠実であるべきだと思って」

「まあ、そうだよね。そうしないと不自然」

 一つ頷き、体の傾きを是正して僕に目を合わせてくる。ぎぃ、と椅子が軋んだ。

「でも、名前を呼び捨てが当たり前になった今では、違和感しかないね」

「そうだね。話をするようになってすぐに捕まって、十年刑に服して出所して、再会を果たしたあとすぐに結婚。だから、期間としては呼び捨ての方が長いんだよね。会っていなかった期間が長すぎたせいで、全然そんな気がしないけど」

「波乱万丈な人生だよね、お互いに」

「そうだね。でも、漸く落ち着いてきた」

「だから、一つの区切りとして、自伝的な小説に挑戦することにした。そうだよね?」

「そういうこと」

 刑期を終えたあと、家族との関係に悩み、自立したいと願う僕のもとに訪問した人物、それが翡翠だった。虐待された経験を持つ人々を支援する団体からの支援を受けつつ、アルバイトで生活費を稼ぎながら、市内のアパートで独り暮らしをしている、と彼女は報告した。僕が置かれている現状について説明すると、「うちに来て二人で暮らそうよ」と屈託なく微笑んだ。支えてくれる人に恵まれた翡翠は、十年という歳月を経て、感情を表に出すのが見違えるほど上手くなっていた。

 九条翡翠が普通の人間に変質を遂げていたことに、多少の困惑はあったが、すぐに受け入れられた。ただ、二人で暮らすという提案には抵抗感を覚えた。彼女が普通の人間になったからこそ、躊躇いがあった。

 十年前の九条さんならまだしも、普通になった彼女と前科者の僕が、釣り合うはずがない。同居しても迷惑をかけるだけだ。九条さんのことは好きだけど、普通になったからといって好きだという気持ちが変わるはずもないけど、普通と異常が一緒に暮らすなんて不可能。好きだからこそ、迷惑をかけたくない。

 しどろもどろになりながらも、僕はありのままの気持ちを打ち明けた。翡翠は微笑みを崩すことなく、適時相槌を打ちながら、話に耳を傾けてくれた。聞き終わると、なにもかもを肯定するように一つ頷き、一層深く微笑んでこう言った。

「十年前は助けてもらったから、今度は私が遠藤くんを助ける番。あのときだって、なんとかなったんだもの。今回もきっといい結果が出るよ。絶対に出る。さあ、行こう」

 双眸から涙が溢れた。好きな人からこんなにも温かく力強い言葉をかけられて、心を動かされない人間はいない。従わない人間はいない。普通から外れていようと、消えない罪を背負っていようと、そんなこととは無関係に。

 こうして僕たちは二人で暮らし始めた。

 普同居生活はなかなか大変だった。翡翠はアルバイトだし、僕は職に就くことすらままならなかったので、生活は貧しかった。それでも、実感の上での大変さの度合いが、「凄く」ではなく「なかなか」止まりで済んだのは、常に寄り添い、支えてくれるパートナーの存在が大きかったのは言うまでもない。

 自然体で笑い、誰とでもしゃべれるようになっても、人付き合いに苦手意識があることに変わりはない。フラッシュバックに襲われることも時折ある。精神的な苦境に立たされたとき、僕の存在を思い出しただけで心は落ち着いたし、そのたびに献身的に慰めてくれるのが嬉しかった。そう謝辞を伝えられたのは、同居を始めて一か月になる日の夜だった。僕が娑婆に出て初めて、誰かに貢献できたと感じた瞬間だった。

 片っ端から羅列していけば際限がないくらい、いろいろなことがあった。

 あのとき途中で終わってしまったセックスは、二人暮らしを始めた日の夜にした。本来ならば最も性欲が盛んな十年を抑圧していた影響で、下品な言い方になってしまうが、溜まっていた。僕の行為には、多少なりとも自分勝手なところがあったと思うのだが、翡翠は鷹揚に是認し、包み込んでくれた。性的快感を得ることよりも、愛する人の存在を、温もりを、最も近い場所から感じられるのが嬉しいのだと、身をもって知った。

 獄中生活での果てしない無聊を慰めるべく、雑文を書き綴った経験を活かそうと、僕は作家を志した。もともと文才などない。道のりは決して平坦ではなかったが、翡翠の温かく心強い支援と、十年間で培った忍耐力が実を結んで、大衆文芸系の新人賞を受賞できた。デビューしたてのころは鳴かず飛ばずだったが、今では二人が暮らしていけるだけの稼ぎを得るまでになった。翡翠もアルバイトは続けているので、現状、生活にはある程度余裕がある。新婚のころは考えられなかったことだ。

 生活に余裕が生まれたことで、翡翠と共に歩む人生はますます楽しくなった。今はまだアパート暮らしだが、僕がもっともっと結果を出せば、マイホームも夢ではないだろう。子供が欲しいとは互いに思っていない。今はただ、二人きりの時間を満喫したかった。

「そういえば翡翠、思い出したんだけどね」

 僕はおもむろに切り出した。

「僕たちが出会った日、翡翠が僕に放った第一声、『君は私を殺すよ』だったよね。結局、あれはどういうつもりで言ったの?」

 僕はきっと真剣な顔をしているのだろう。スイッチをオンからオフ、あるいはオフからオンにしたように、翡翠も真面目な顔つきになった。

「裕也は予知能力は本物ではない、と考えていたよね。私が自殺願望を抱いているから、自分を殺してくれる人間を探していて、同じ孤独な境遇にいる裕也に白羽の矢を立てた、という説を唱えていた。その前には、単に友達になりたかったからだ、と考えてもいた」

「よく覚えているね。翡翠のおかげで思い出したけど、うん、確かにそうだ。僕はそう考えたし、その考えを翡翠に伝えた。翡翠から自殺願望を取り除きたいというのが、僕が翡翠と一緒に遊ぶようになったきっかけだったね」

「途中からは、私の自殺のことは全然意識していなかったよね。裕也も、私自身も」

「結局、真相はどういうことなの? 僕に『君は私を殺すよ』という言葉をかけた真相は」

「裕也と友達になりたい気持ち、自殺の危機から救ってほしい気持ち、両方あったと思う。でも、それが一番の動機ではなかった。当時は言語化できなかったんだけど」

「うん」

「私の異常性を肯定してくれる人が欲しかったの。教室では生徒とは一切しゃべらない転校生から、下校途中にいきなり、『君は私を殺すよ』なんていう意味不明な言葉をかけられたとしても、異常だと否定したり拒絶したりしない、そんな異常極まる人間と出会いたかった」

 二十年の時を経て明かされた事実は、今までに予想したどの可能性とも違っていた。それでいて、二十年前、その言葉をかけられた瞬間に、その正解が分かっていたような気もする。

「異常性を認めてほしいのと、友達になりたいのは同じようなものじゃないか、と思ったかもしれないけど、私の中ではイコールではなかったの。私、父親から虐待されていたでしょう。異常性が肯定された事実を、つらくて苦しくて死にたくなる毎日を乗り越えるための糧にしたかったんだと思う。常に寄り添ってほしい、救いの手を差し伸べてくれる人になってほしい、ということではなくて。だけど、後日裕也が思いがけない提案してくれて、人付き合いが苦手なくせに私はそれに応じて。紆余曲折あって、こうして二人で生きている」

「ということは、予知能力は嘘だったんだね」

「当たり前でしょう。深く考えずに口にした予想が偶然当たったことならあるけど、そんなのは誰にでもあることだし、みんなと比べて的中率が高いわけでもない。予知能力なんて、最初からなかった」

「……そっか。そうなんじゃないかって予想はしていたけど、本人の口からきっぱりと否定されると、変な寂しさがあるね」

「失望した?」

「いや、全く。僕たちの仲人役を務めてくれたんだから、むしろ感謝してる。翡翠がミステリアスな人だったからこそ、柄にもなく積極的になれたんだと思うし」

「今ではすっかり普通の人間になってしまったけど」

「そうだね。でも、普通とか普通じゃないとか、どうでもいいよ。二人でいられるなら、それでいい。それだけでいい」

 翡翠は深く頷き、椅子から腰を上げる。

「そろそろ休憩にしない? キャンディを食べながら、リビングでいちゃいちゃしようよ」

「そうしよう」

 差し伸べられた翡翠の手を握り、椅子から立ち上がる。寄り添いながら僕たちは書斎を出て行く。

 今日は何味のキャンディを食べよう?

 選択肢は、ありあまるほどある。

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