17
両手で地面を押して上体を起こす。そこから立ち上がるまでには、十秒を超える休息を挟まなければならなかった。左脇腹の痛みにふらつき、転びそうになったが、なんとか持ち堪えた。走ればより強く邪魔をしてくるのだろうと思うと、絶望が重苦しくのしかかってくる。しかし、屈するわけにはいかない。
九条さんの父親は、早くも細道のほぼ半分を消化している。
追いかけようと駆け出した直後、石につまずいた。足元が悪いという情報が頭の中から消えていたので、正真正銘の不意打ちだ。顔から地面に倒れそうになったが、反射的に両手をついてその事態を回避する。蹴りを食らった直後のような呼吸。
負けてたまるか。
両手を力強く握り締めて立ち上がる。息を整えながら両手に目を落とす。右手には鶏卵よりも一回り大きな歪な形の石が、左手には数個の小石と土が、それぞれ握られている。
石。これを武器にして立ち向かうしかない。
敵は僕をいとも容易く退けた。赤子の手を捻るように、いとも容易く。石ころ程度の武器を得たところで、実力差は埋まるのか? せめてリーチの長い得物でも得ないことには、一矢を報いることすら難しいのでは?
敵はそろそろ細道を上りきろうとしている。
石をジーンズのポケットに突っ込み、僕は駆け出した。
最初の足で大地を踏み締めた瞬間、左脇腹が刺されたように痛んだ。奥歯を噛み締めてそれをやり過ごす。無理矢理走る。痛みは大地を踏み締めるごとに律義に襲いくる。いい加減、大人しくしてくれてもいいだろうに。舌打ちをしたくなったが、痛みを抑えつける、駆ける、二つの行為に専念する。痛んでいるのは僕とは別の体の一部分だ。僕の体が悲鳴を上げているわけではない。我ながら意味不明な理屈だが、多少なりとも気を紛らわせるだけの効果はあった。ささやかすぎて泣きたくなるが、それでも足は動き続けている。ある種の惰性が僕の体を運んでいるのだ。その現実が勇気をもたらしてくれる。限界を超えて運動を行うエネルギーになる。
敵は細道を上りきった。車までの距離はそう長くはない。しかし、絶望はしていない。まだ間に合う。手遅れになる前に追いつける。さあ、走れ!
上り坂を上るのはきついだろう、という覚悟はあった。しかし、これは駄目かもしれない、と思ったのは一歩目だけで、二歩目からは存外スムーズに進めた。河原の凹凸に満ちた地面と比べれば、さほど困難な道ではないのだと気がつく。痛みも多少なりとも減じた。加速する。たちまち痛みがぶり返したが、無視して走り続ける。僕は九条さんの自宅の場所を知らない。走り去られれば絶望だ。その前に、なんとしてでも追いつかなければ。
道を上りきった。車は、依然として元の場所に停まっている。エンジンは作動していない。
その車の前に、九条さんを肩に担いだ九条さんの父親がいる。たった今、ゆっくりと地面に下ろした。叫ぼうとしたが、声が出ない。息が切れているのか、心が慌てているのか。舌打ちし、二人がいる方に向かって走り出す。直後、なにかを踏みつけた。ある程度の硬度を持つ小さな物体で、罅が入ったような音がした。足を退かして地面に目を落とす。そこにあったのは、キャンディの個包装。
天啓が舞い降りた。
僕の左手は、いくつかの小石とそれに付着した土を握り締めたままだ。躊躇いはあったが、すぐに振り切った。一個に然るべき処置を施し、一個を残して足元に捨て、残った一個を車を目がけて投げつける。小指の先端ほどのそれは放物線を描き、ボンネットの中央に直撃して音を奏でた。
後部座席のドアに手をかけた九条さんの父親は、肩越しに振り向いた。顔に湛えられているのは、漣一つ立っていない無表情。体を回して僕に向き直る。
「これは驚いた。賞賛に値する気力の持ち主という他ないが――果たして、君にとってよい選択かどうか」
その言葉を無視し、大地を踏み締めて九条さんの父親との距離を詰める。足を止めたのは、敵の正面約五メートルの地点。
「無駄口を叩く体力もないのか。それとも、私と同じで、無駄なことをするのが好きではないのか。どちらにせよ、私が君に言えることは、ただ一つ。これ以上邪魔をすれば、君の肉体は取り返しがつかない状態になるよ」
この警告も無視し、ジーンズの右ポケットに右手を突っ込む。鶏卵よりも一回り大きな石。僕の貴重な武器。
「ポケットの膨らみは、河原で拾った石かな。なんとも心もとない武器だが、現状、調達可能な中で最強の武器ではあるだろうね。さあ、ポケットから手を出して、車から離れて。さもないと、たとえ君が攻撃を仕掛けてこなくても、私の方から攻撃することになるよ。それで構わないのかな?」
僕は無言を返す。九条さんの父親は表情一つ変えずに頷く。歩み寄ってくる。ポケットの中の僕の右手に注意を払いながら、隙のない足取りで。
敵は恐らく、最後にもう一度、僕の意思を確かめようとしたのだろう、手を伸ばせば触れられる距離で足を止めた。蹴りを放つのでも、拳を振るうのでもなく、己の顔を僕の顔へと近づける。
その瞬間を狙って、口に含んでいた小石を吹きつけた。
弾丸はものの見事に眉間を直撃した。
敵は呻き、攻撃を食らった部位を手で押さえる。体勢は大きく崩れている。頭部は、殴りつけるのに好都合な高さまで下りてきている。ポケットから取り出した石を振り上げ、敵が防御態勢を取るよりも一瞬も二瞬も早く、渾身の力で後頭部へと振り下ろす。鈍重な衝突音。濁ったような呻き。堪らずといったふうに片膝をつく。間髪を入れずに、もう一撃。九条さんの父親は地面に突っ伏した。無防備な後頭部が眼下にある。もう一発、二発。それから先は、体は半ば自動的に動いた。
「死ね! 死ね! 死ねぇっ!」
溢れ出す感情に任せて吐き散らす声は、紛れもなく自分のもの。それでいて、別人が発しているような気がする。全身が熱い。石を強く握りすぎている右手。土の食感が不愉快な口腔。激しく動いたことでぶり返した脇腹の疼痛。痛みや違和感や不快感はあちこちで生じているのに、体は支障なく動いている。打撃は恐ろしく正確で、集中攻撃を食らっている部分は窪んでいるように見える。九条さんの父親は、最初こそもがくように四肢を動かしていたが、いつからか完全に動かなくなった。
僕は敵の死を一途に願う一匹の怪物と化し、凶器を振り下ろした。振り下ろして、振り下ろして、振り下ろし続けた。
猛攻は、石が右手から離れたことで終わった。唐突な、どこか呆気ない終幕だった。握力が失われたのでも、自らの意思で手放したのでもない。血で滑って手中から抜け落ちたのだ。
石を見下ろすと、広範囲にわたって赤く汚れていて、灰色が露出している面積の方が少ないくらいだ。右手に視線を移すと、こちらも真っ赤に染まっている。九条さんの父親の後頭部も同じような有り様だ。実物なんて一度も見たことはないのに、ザクロの実みたいだ、と思う。
実質以上に疲れた体に鞭打ち、九条さんの父親の体をひっくり返す。白目を剥き、口の片端から一筋の血が垂れている。一瞬躊躇って、胸に手を宛がう。鼓動は、確認できない。
九条さんの父親から手を離す。その隣、仰向けに横たわる人の傍らに屈み、
「九条さん、九条さん」
肩を弱く揺さぶる。触れた瞬間、生きている人間の柔らかさと温度が感じとれたので、声は微かながらも震えを帯びた。本当は力いっぱい揺さぶりたかった。フィクションの世界の取り乱した人のように振る舞いたかった。しかし、そうすれば九条さんを苦しめることになる。
恐る恐る、という形容が適当な力で揺さぶり、時折手を止めて顔を見つめる。そのくり返しの中で時は過ぎていき、
突然、九条さんの右手が一瞬痙攣した。思わず息を呑み、まず彼女の右手を、次いで顔を凝視する。額の傷は痛々しく、毒々しいが、出血は止まっている。視線を注がれたことに反応したかのように、かさついた唇が震えた。
瞼が開いた。深い眠りから目を覚ましたときのような、緩慢な開き方だ。三分の二ほど開いたところで瞼は止まり、瞬きを挟んで全開にされる。僕の姿を捉え、瞳が見開かれる。たちまち潤いに覆われた。その変化に、僕の目頭は急激に熱を帯びる。
「九条さん、大丈夫なの? 額の傷……。あんなにも打ちつけられて、今は止まっているけど、あんなにも血が出ていた」
「私は平気。頭が痛いけど、そう酷くないから。だから、平気」
声が微かに震えているものの、口調自体は思ったよりもしっかりしている。僕を心配させまいと、症状をいくらか過小に申告しているのだろう。ただし、しゃべるのに支障はないし、命に別状はない。
「よかった。ああ、よかった……」
その一言が、僕の現在の想いの全てだった。
「遠藤くんこそ無事なの? ……父親は?」
「殺したよ。ついさっき、僕が殺した。心臓が止まっていることも確認したから、確実に。ほら」
すぐ隣に横たわっている人体を、というよりも肉塊を指差す。九条さんはそれを数秒間、時が止まったかのように微動だにせずに見つめ、全てを理解した顔で深く頷いた。
「ごめんね。もしかしたら、別の道があったのかもしれないけど……。九条さんと九条さんの父親、両方が生きたままでも九条さんが幸せになる道があったのかもしれないけど、自分を抑えられなかった。吐き気を催す悪人とはいえ、殺してしまった。謝罪も反省も改心もできない状態にしてしまった。本当に、ごめん」
「謝るのは私の方だよ。私を長年苦しめていた人が死んだと知って、気がついた。私はずっと、私の代わりに父親を殺してくれる人を探していたんだって」
にわかに、声に含まれる潤いの成分が高まった。呆気なく、涙が溢れ出す。九条さんの瞳からも、僕の瞳からも。
「でも、怖くてできなかった。ありとあらゆる意味で怖かったから。巻き込んでしまって、損な役回りを押しつけてしまって、ごめんなさい。遠藤くんは無関係なのに、こんなことになってしまって」
「いいよ。もういいよ。過ぎたことなんだから。九条さんの悲願が叶って、僕も嬉しいよ」
言葉が途切れる。どちらからともなく、僕たちは抱き合った。鉄臭さが混じった体臭が、呼気の微弱な風圧が、断続的に洟をすする音が、間近にある。体温や肌の柔らかさがダイレクトに伝わってくる。言葉にならない思いや感情が、全身全霊で僕へと送信されている。
僕はそれらの全てを受け止める。送信者と同じように滂沱と涙を流しながら、全身全霊で。
互いに泣きやんだのが、密着状態を解除する合図となった。
「九条さん。今から僕は自首するつもりだけど、その前にしてほしいことはない?」
言葉は、自分でも驚くほど滑らかに口から出た。返答は、質問の内容を事前に把握していたかのように迅速だった。
「セックスがしたい。次はいつ会えるか分からないから」
「九条さんも、この生活は終わりにしなければならないと考えているんだね」
「ええ」
またしても即答だ。どこか吹っ切れたような、それでいてやけくその開き直りではない、晴れやかな即答。
「父親という異常が消えた以上は、そうするべきだから。禊をして、それから、普通の人間として生きていく」
僕たちは再び抱き合い、唇と唇を重ね合わせる。
禊とは、司法に身を委ねることなのか、性行為を指すのか。頭の片隅で一瞬疑問に思い、全てを忘れて肉欲に身を委ねた。
結局、セックスはしなかった。というよりも、するには至らなかった。
互いに服を部分的にはだけて、いわゆる前戯に該当する行為をした。いよいよ本番に移ろうかというときになって、九条さんが頭痛が酷くなったと訴えたのだ。
本人は軽症だと申告したとはいえ、頭部に散々打撃を加えられたあとだ。性欲に我を忘れ、彼女を労わることを後回しにするという僕の対応は、恥ずべきものだったと遅まきながら自覚した。情けない気持ちで胸がいっぱいになったが、今僕がするべきは、自責し、自省することではない。九条さんを少しでも楽にしてあげることだ。
互いに衣服をきちんと身につけて、九条さんに肩を貸して小屋まで移動する。遺体はその場に放置した。もしも誰かが通りかかったとしても、僕たちに逃走の意思はないのだからデメリットはない、警察に連絡を入れる手間が省けるからむしろ助かる、という判断だった。
九条さんを寝かせ、症状が治まるのを待つ間、ふと胸に浮かんだのは、井内さんに復讐する、という選択肢。
彼女は金に目が眩んでクラスメイトを売った、守銭奴の裏切り者だ。クラスが誇る優等生も、金の魔力の前では姑息な俗人なのかと思うと、身内が万引きで捕まったと知らされたように情けなかった。それ以上に、腹立たしかった。
夏休み最終日の前日まで祖父の家にいる、と彼女は言っていた。近くに高校生が遊べるような場所はない。自宅を訪問すれば高確率で会えるだろう。武器は石しかないが、体格も体力も平均的な十代半ばの女子である井内さんを殺すには充分だ。なんなら家の中で刃物を調達してもいい。やろうと思えば、比較的容易に目的を達成できるはずだ。
九条さんに提案してみようかとも思ったが、それに待ったをかけた存在がある。理性だ。井内彩音を殺したら、お前は絶対に後悔するぞ。やめておけ。九条翡翠の父親だけにしておけ。そう口うるさく警告するのだ。
井内さんは「おじいちゃんの家」と言っていた。妻を亡くして一人暮らしをしているのか、祖父が一家の代表格なのでその呼称を用いただけなのか。それは知る由もないが、井内さんがそう明言したからには、最低でも彼女の祖父は絶対に住んでいる。井内さんを殺すことになれば、その遺体を、殺害現場を、ひょっとすると殺害シーンまで、彼は見ることになるかもしれない。多感な年ごろになっても遊びに来てくれる、祖父想いの孫娘が生命の危機に晒されたのだ。高齢で体力が衰えていようが、敵が体力と腕力を兼ね備えた若者だろうが、殺害を阻止するべく全力を尽くすのは間違いない。自らの命に代えてでも、僕を殺してでも、その事態を阻止しようとするはずだ。
つまり、井内さんを殺すためには、井内さんの祖父も殺さなければならない。
シミュレーションを開始したが、始めて早々、驚くほど気乗りがしていない自分に気がつく。
勝負自体にはまず間違いなく勝てるだろう。ただ、現時点で、僕は井内さんの祖父の顔を知らない。そんな相手を殺すといっても、気持ちが入らない。
それだけではない。殺意をぶつけることで新たな殺意を生み、その殺意に殺されないために再び殺意を行使する。いくら好意的に解釈しようとしても、馬鹿げた連鎖だという思いは拭えない。馬鹿げているという思いを抑圧してまで、実行に踏み切る意味を見出せない。
いくら善良な心根の持ち主といっても、井内さんは学生の身だ。大金を提示されれば、悪事に加担する方向に気持ちが傾いたとしても、なんら不思議ではない。そもそも九条さんの父親は、井内さんに依頼するさいに、娘を見つけ出した暁には肉体的に痛めつけた上で連れ戻す、とは言わなかったはずだ。九条さんを日常的に虐待している事実は厳重に隠したはずだ。ある意味では、九条さんの父親に騙された被害者だ、ともいえる。
そもそも井内さんは、情報を提供しただけだ。どう考えても、九条さんの父親ほどの大罪は犯していない。
考えれば考えるほど、井内さんを殺す理由は消えていく。井内さんに対する殺意は薄らいでいく。
この感情は、永久に胸に仕舞っておこう。理性の言い分に全面的に従おう。今後井内さんと会うことがあったとしても、なにも言うまい。ないもすまい。
やがて、症状はほぼ治まった旨を九条さんが申告した。互いに、性欲はもう覚えていないようだ。僕は人を殺めたことで、九条さんは宿敵が葬り去られたことで、心が一時的に異様なまでに昂進し、それが性欲を刺激しただけだったのかもしれない。
僕は携帯電話で110番した。九条さんの眼差しに見守られながら、経緯を説明する。台本もなにも用意されていない割には、簡潔かつスムーズに必要事項を伝えられたと思う。
いよいよ逮捕が間近に迫ったことで、水面下に押し込められていた恐怖が噴き上がって来る、ということはなかった。僕たちは一言もしゃべらずに警察の到着を待った。別れの言葉も、儀式も、なにもない。僕たちの関係はこれで永遠におしまいではないと、心の奥では理解していた。蝉の声、川音、うだるような暑さ。この五日間、僕たちがさんざん親しんできたものたちは、僕たちをそっとしておいてくれた。
駆けつけた警察の人間の対応は、存外ていねいだった。
僕たちは別々の車両に乗せられ、最寄りの警察署へ向かった。




