16
目が覚めた。朝特有の、早くも厳しいなりにどこか柔らかな日射しが、横たわる僕の足元を照らしている。映像ではなく、仄かに感じる温かさで、その事実が分かった。
小屋の戸は開いていて、隣には誰もいない。
今日で五日目の朝を僕たちは迎える。そのうちの三日は九条さんの方が目覚めるのが早く、一日はだいたい同じくらいだった。一日だけ僕の方が早い日があったが、そのときも、起こすべきか寝かせておくべきか、横になったままぼんやりと考えている間に九条さんも目を覚ましたから、まあ同時といってもいいだろう。
彼女は早起きだから、僕が目を覚ます時間帯に小屋に不在だとしてもなんら不自然ではない。だから今日も、違和感は一切覚えなかった。
寝そべったまま四肢を目いっぱい伸ばす。それから、我ながら間の抜けたあくびを続けざまに二つ三つ。夜間、あるいは午睡をしている間、戸を開けっ放しにしていると気分が落ち着かなかったが、今となっては全く気にならない。この生活にも随分と慣れたものだ。
……どこからか規則的な音が聞こえてくる。頑丈ななにかに、それよりも柔らかいが、ある程度の硬さを持つなにかをぶつけている、とでも説明するのが適当な音だ。十中八九、奏者は九条さんだろう。しかし、それにしても、こんな朝っぱらからなにをやっているんだ?
耳を傾け続けているうちに、規則的だと思っていた音には、時折二・三秒程度の間が挿入されていることに気がついた。その間はいかにも作為的で、邪な企みの気配さえ漂っている。堪らなく嫌な予感がする。
九条さんはどこにいるんだ?
頭の中で結論を導き出すのを断念し、上体を起こす。視界に飛び込んできた映像に、僕の肉体は氷結した。
小屋の外に物が散乱している。キャンディの大袋を中心にして、散らばった個包装。複数枚の衣類。食べ物の空き容器や空き袋や残飯。全て、昨夜僕たちが眠りに就いた時点で、小屋の中に置いてあったものだ。
戸口に積み上げていたものが、戸を開けた拍子に外へと崩れ落ちた、というレベルではない。明らかに、蹴飛ばされている。そうでなければ、引きずり出されている。これほどの規模の狼藉が行われた中で、のうのうと眠っていた自分が信じられない。
散乱した物は、一方向に向かって漠然とした線を描いている。立ち上がり、それを辿るように小屋を出る。
何気なく、あるいは気配を感じて、道の右手を振り向く。銀色の車が停まっている。見覚えのない車だ。自動車に関しては全くの無知なので、車種は分からない。僕の両親が乗っている自家用車と比較すると、厳かで洗練された印象を受ける。明確な定義は知らないが、高級車の範疇に属する一台なのかもしれない。現在地界隈に住んでいる人間が日常的に利用している車、という雰囲気ではない。
ふらつく両脚を叱咤しながら、雑多な物で構成された道の上を直進する。進路は無論、正体不明の打音が断続的に響いている方角だ。川音が聞こえる方といっても、やはり正しい。物音は河原から聞こえるのだ。小屋からも川の流れと河原の一部分は見えるが、異常そのものは視認できなかった。自らの足で現場まで下りて、自らの目で確かめるしかない。
河原へと下りる道の下り口まで来て、双眸が異常を捕捉した。
見知らぬ男性がいる。僕たちがアスレチック遊具と見なして何度か上ろうとしたが、結局一度も踏破できなかった、ところどころに歪な凹みがある東京ドームといった形状の、直径と高さが共に二メートル強の大岩。それの側面の一点を目がけて、右手で鷲掴みにしたなにかを叩きつけている。打ちつけるリズムは一定だが、時折掴んでいるものを掴み直していて、それが不規則に生まれる間の正体らしい。
男性が手にしているものは丸みを帯びている。見た瞬間は石かと思ったが、色が違えば形状も違う。そもそも、球体ではない。石と比べると、全体の形状は圧倒的に複雑で、大きい。男性の右手、男性が手にしているもの、男性の足元の地面。それら全てに鮮やかな赤が飛散している。血だ。人体から迸り出てまだ間もない、鮮血。遠目からでもペンキではないと一目で分かる、鮮やかすぎるほどに鮮やかな赤。岩に断続的にぶつけられているのは、
「九条さん……!」
叩きつける運動が停止し、男性がこちらを向いた。視線が交わり、悪寒が背筋を駆け上がった。寒気、ではなく、悪寒。文字通り、悪性の寒気が。
男性は無表情だ。九条さんのような、表層に浮上する余地がある全ての感情を巧みに抑えつけた結果ではなく、天地開闢から最後の審判の日まで完全なるゼロ。陳腐極まりないが、機械のような、という形容以上に相応しい形容は思い浮かばない。
それでいて、九条さんとの類似性を感じる。無表情という一点がものを言っているのだ、と最初は思っていたが、そうではないとすぐに気がつく。顔の造作自体が似ているのだ。
男女の差、年齢の差をものともせずにそう感じたということは、つまり――。
膠着状態はどれくらい続いただろう。
男性がおもむろに手を離したので、九条さんの体は地面に崩れ落ちた。気を失っている人間の倒れ方だ。先ほどまで髪の毛を鷲掴みしていた手で、僕を手招きする。一連の動作の間、顔の向きはずっと僕だ。挙動自体に特に違和感はないが、無表情なのは一貫しているから、機械の印象、そしてそこから派生したおぞましさは拭えない。底が知れない、とはまた違う、今までに体験したことがない系統のおぞましさ。普通に生きていれば決して遭遇することのないおぞましさ、なのだろう。異種族や宇宙人を相手にしている感覚、とでも表現すればニュアンスが近いかもしれない。
怖くないといえば嘘になる。しかし九条さんがそこにいる以上、行かないわけにはいかない。唾を飲み込んで覚悟を決め、下り道を進む。
男性は不気味なまでに静かな佇まいで僕を待ち構えている。人語を解さない怪物ではないのは、救いといえば救いだろう。ただ、あまりにもささやかすぎて大した慰めにはならない。
大小の石をしっかりと踏みしめながら歩み寄り、三メートルほどの距離を置いて男性と相対する。
背後に見える岩に付着した赤は、近くから見ると思いのほか毒々しく、しかも広範囲に飛び散っていて、心臓が凍えた。少なくとも僕が到着するまでの間は、男性がイレギュラーな動きを見せることはないと踏んでいたから、移動中は九条さんに注目する時間を長くとった。移動を完了するまでの一分足らずの間、彼女は身じろぎ一つしなかった。
男性は漆黒のスーツを着込み、臙脂色のネクタイを結んでいる。背は高いが高すぎず、中肉。加齢に伴う顔の皺は隠しきれていないが、老け込んでいるわけではなく、四十過ぎといったところか。顔立ちを一言で表すならば、理知的。こういう人が上司にいれば、心強いだろう。部下にいれば、頼もしいだろう。人込みの中に紛れさせれば、働き盛りのありふれたサラリーマン、という先入観を持つ人間が大半を占めるに違いない。大雑把にいえば、普通の人間だ。
ただ、その顔に貼りついているのは、無表情。普通という印象を吹き飛ばし、木っ端微塵に破壊する、機械のごとく完全無欠な、それゆえに歪んでいて空虚な無感情。
男性に向かって声を発するには、もう一回、唾を飲み下す工程を挟む必要があった。
「九条さん、全く動いていないけど、無事なんですか」
「無事だよ。命があるという意味では無事だ。殺してしまっては無意味だからね」
男性は即答した。機械の音声ではない。しかし、ありふれた中年男性の声と評するには、いささか冷たすぎる。感情がないのと冷たいのは必ずしもイコールではないはずだが、感情以上に人間味がない。話が通じる人間かもしれないという期待は、たった一言で根幹から揺らいだ。
「私に訊きたいことが複数あるようだから、質問の内容を推測して答えさせてもらうよ。私はこの子の、九条翡翠の父親だ。この場所に来た目的は、娘を家に連れ戻すため。この子の頭部を岩に打ちつけたのは、私の許可なく長期間家に帰ってこなかったことと、連れ戻そうとした私に抵抗したこと、二つの行為に対する制裁の意味からだ」
父親。顔の造作が似ていたのでもしやと思っていたが、やはりそうだったらしい。
九条さんを虐待していた張本人。九条さんに僕との逃避行を決意させた元凶。その人間が、加虐者が、被虐待者本人を連れ戻しに来た。
「君の疑問に答えた見返りに、私の疑問にも答えてもらうよ。君はうちの娘とどういう関係なのかな?」
「その前に、一つだけ。どうして、九条さんの居場所が分かったんですか」
「ああ、そのことか。娘が行方不明になってから、娘のクラスメイトの何人かと極秘裏に、なおかつ個別に面会して、『娘が家出をした。娘に関する情報を得たら、どんな些細なことでも構わないから、私に報告してほしい。私が君に依頼したことは誰にも告げないでほしい』と伝えて回ったんだよ。見つけた暁には相応の報酬を支払う、という取引を交わした上でね。情報の提供者が誰なのかは、伏せさせてもらうよ。彼女とはそう約束したからね」
井内さんだ、と直感した。
井内さんは祖父の実家に遊びに来ていて、駅前で僕たちを偶然見かけた、と説明していた。僕たちが暮らしている拠点の場所と生活の様子を、彼女の性格を考えれば、異例ともいえるほど強く知りたがったことに、僕も九条さんも違和感を覚えたが、これで謎が解けた。純粋な好奇心に突き動かされたのではなく、他者に依頼されていたのだ。
裏切られた。井内さんは善良な人だと信じていたのに、俗世では最も信頼がおける人間だと思っていたのに、金に目が眩んで僕たちを売るなんて……。
怒りでも悲しみでもなく、徒労感にも似た脱力感に襲われ、膝を折りそうになる。
かろうじてそれを堪えられたのは、横たわる九条さんが視界に映っていたからに他ならない。
「体調が悪いのかな? 差し障りがないなら、私の質問に答えてもらいたいのだが」
感情の読み取れない声がいけしゃあしゃあと促す。僕は声の発信者の顔を睨むように見据え、
「友達です。僕と九条翡翠さんは、友人同士です」
「友人のためを思って、逃亡を助けた。逃亡の理由も、事前に聞かされているから把握している。そういうことかな」
「ええ。離婚した妻との復縁が絶望的になったのを機に、あなたから虐待を受けるようになった、それが耐え難い、と話してくれました。逃亡を提案したのは、僕からです。九条さんは多少驚いたり、戸惑ったりはしていましたが、反対意見は唱えませんでした」
「なるほど。主犯は娘でも君でもなく、共犯というわけだね」
クラスメイトに聞き込みをしてまで探すくらい、我が子の奪還に執念を燃やしているのだ。首謀者は自分だと告白するさいには、決して弱くない恐怖を伴った。しかし、予想を裏切って、九条さんの父親は表情にも声音にも一切変化を表さなかった。それが逆に薄気味悪く、おぞましい。
「君は翡翠から話を聞いて、同情を覚えて、私のもとからの逃亡を提案したんだね。実に素晴らしい、賞賛に値する行動だが、私は君の計画を支持するわけにはいかない。親には我が子を扶養する義務があるし、翡翠は人前に出しても他人様に迷惑をかけるだけだからね」
「扶養って、体にあんなむごたらしい傷が残るまで痛めつけることが? そんなの、おかしいだろ」
口のきき方が乱暴になっている自覚はある。そのことが九条さんの父親の態度を硬化させる危険性も、もちろん認識している。それでも、止められなかった。自分なりにブレーキをかけたつもりだが、どう考えても充分ではない。
当たり前だ。九条さんを蔑ろにされたのだから。相手は九条さんの体に傷を刻みつけ、心にトラウマを植えつけた、最低最悪のクズ野郎なのだから。
「食事も満足に与えられなかった時期があるとも聞きました。必要なものを与えないことの、どこが扶養なんですか。扶養者として、保護者として、どう考えてもあなたは失格だ」
「私がしたばかりの発言を、もう忘れたのかな? 翡翠は他人様の前に出しても迷惑をかけるだけだ。そう言ったはずだよ。五日間も共同生活を送ってきた君なら、分かるだろう。翡翠は異常な人間だ。人前でろくにしゃべらない、感情を表に出さない、異常な人間なんだ。私が翡翠にすることは全て、異常性を矯正するための教育であり、躾。分かるかな、君」
「異常性を矯正するため? 九条さんがそういう人間になったのは、あなたが虐待をしたからだろう。順序が逆じゃないか。九条さんにもともとそういう傾向が少なからずあって、それを治療しようとして、ということなのだとしても、暴力という手段を選ぶのは間違ってる。言っていることもやっていることも、あなたはなにからなにまでおかしい。おかしすぎる」
「九条家には九条家のやり方があるのだよ。娘の一介の友人でしかない君に、私に異を唱える権利などない」
「いや、あるね。だって、あなたのしていることは歴とした犯罪だし、僕は九条さんの友人だ。たとえ親に当たる人だとしても、そんなことをする人間に九条さんを委ねるなんて、絶対にできない。死んでもお前なんかに渡すものか」
「……そうか。どうやら、これ以上話し合っても不毛なようだね」
九条さんの父親の雰囲気が、少し変わった。瞬時にして百八十度変わったのではなく、来るべき豹変の時に備えて準備を開始した、というような。
「では一応、最後に尋ねておこうか。君の決意を無視して、私が娘を連れ戻そうとした場合、君はどう対応するつもりかな?」
「阻止します。全力を尽くして」
「予想通りの返答だね。そういうことであれば、私からの提案なのだが」
九条さんの父親はスーツの内側に右手を差し入れた。反射的に身構えたが、取り出されたのは、漆黒の革製の財布。その喜劇じみた分厚さを見た瞬間、彼がなにをしようとしているのかが分かった。九条さんの父親は財布の札入れを、中身が見えるように広げて僕に向け、
「四十万円、手持ちにある。君に全額差し上げるから、今後娘に一切関わり合わないと約束してくれるかい?」
「ふざけるな……!」
思いがけず、感情を前面に押し出した声が出た。九条さんの父親に脅威を感じながらも、九条さんへの想いを表明できた。そのことが、敵に本格的に立ち向かう勇気をもたらしてくれた。
「お金じゃない。そういう問題じゃないんだよ。なにがあっても、あなたに九条さんを連れて行かせるわけにはいかない。なにがあってもだ」
「金額を十倍にしても?」
「当たり前だろう。無駄なことをするのが嫌いと言っておきながら、余計な質問をするなよ」
間が生まれた。要求を撥ねつけたのに加えて、九条さんの父親の癪に障る可能性がある発言。感情が解放される予感に、僕の全身は静電気を帯びたような緊張感に包まれた。なにか動きがあれば即座に対応するつもりで、心も体も構えをとる。
「そうか、残念だ。それでは、無理矢理連れて帰ることにするよ」
九条さんの父親は娘を軽々と抱き上げ、肩に担いだ。無駄のないスムーズな動きで、少女一人分の体重を苦にしている様子はない。
こちらに向かってきた。僕に暴力を加えようと目論んでいるのかと一瞬思ったが、視線の方向は、上の道へと通じる細道。宣言通り、帰ろうとしているのだ。
私は今から、上に駐車してある愛車に娘を押し込み、私自身は運転席に乗り込み、車を運転して帰る。君が邪魔をすれば、容赦なく排除する。邪魔をしなければ、なにもしない。私は見ての通りありふれた中年男性だが、痩身の女子高生を軽々と扱えるだけの腕力を有している。その私を相手に、果たして目的を遂げることができるかな?
「ふざっ、けるな……!」
咆哮し、拳を振り上げて突撃する。
顔面を殴るつもりだった。敵の左側に回り込み、攻撃の芽を摘むべく伸ばされた右手を避けて、顔面に一発ぶち込む。
敵が動いた。真っ直ぐに距離を詰めてくる。攻撃をされるまでは攻撃をしてこないと高を括っていたから、虚をつかれた。喧嘩慣れをしていないがゆえに、想定外の行動をとられた、ただそれだけで軽いパニックに陥ってしまう。足を止めてしまう。敵は愚直なまでに一直線に迫り来る。射程圏内に入ったらしく、左脚が動いた。その瞬間は視認できた。しかし、軌道を目で追うことができない。速すぎる。空気が切り裂かれる音を聞いたと思った次の瞬間、右脇腹に圧迫感を覚えた。スイカ大の岩を力任せに押しつけられたような圧力に、息が詰まる。両脚に力を込められなくなり、俯せに崩れ落ちる。緑の香りを淡く帯びた空気が鼻孔に到達した。
蹴られた箇所が焼けるように疼く。両手を患部に押しつけているが、痛みは微塵も緩和されない。十秒や二十秒先の未来に立ち上がることなど、夢物語に思える。痛い、蹴られた、痛い、起き上がれない、痛い……。
荒い呼吸をくり返しているうちに、視界を覆っていた薄靄が晴れてきた。僕の四・五メートルほど前方、細道の上り口に程近い地点で、九条さんの父親が地面に片膝をついている。九条さんを肩に担いだまま、足元になにか細工をしている。腰を上げ、肩越しに僕を見やる。一歩横に動いたので、彼の足で隠れていた場所が見えた。何枚かの紙切れが地面に置かれ、拳大の石で重しをしてある。
「ここに置いておくよ。当初の予定通り、四十万円」
光の当たり具合の加減か、九条さんの父親は優越感たっぷりに笑ったように見えた。顔の向きを戻し、細道を上り始める。歩行に連動して九条さんの体が揺れている。僕たちが言葉で、視線で、拳と足で戦っている間、彼女は目を覚まさなかったし、目を覚ます気配もなかった。
仮に意識があり、一部始終を見ていたとしたら、彼女はなにを思っただろう?
分からない。分かるはずもない。九条さんの一番の理解者だという態度で彼女の父親に舌戦を挑んだが、その実、僕は彼女に知悉していない。むしろ知らないことの方が多い。
僕に分かるのは、僕の心だけ。
このまま九条さんが連れ去られてしまえば、僕は絶対に死ぬほど後悔する。
光が遠くへ行ってしまったら、僕の世界が再び暗闇に包まれるから、ではない。九条さんという光が消えてしまう、それが耐え難いのだ。
僕は、遠藤裕也ではなく九条翡翠のために、悪と戦わなければならない。
九条さんの父親が車に辿り着くまでの時間を演算する。車までの距離。大股だが急かない足取り。ロックを解除する時間。ドアを開けて九条さんを乗せる時間。自身が乗り込む時間。
大丈夫だ、間に合う。起き上がろう。




