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しゃべらない少女に戻った九条さんに代わって、僕一人が、井内さんの要望を叶えるために行動した。決して積極的な気持ちにはなれない頼みではあったが、井内さんの心根の善良さに報いるべく、可能な限り誠意をもって。
小屋の中を見せたし、河原にも一緒に下りたし、山中の散歩コースにも案内した。トイレはさすがに見せなかったが、拠点から少し離れた場所に穴を掘って、そこに排泄してスコップで土をかけている、という説明はした。案内や説明の傍ら、どのようなスケジュールでどんなふうに山での日々を過ごしているのか、ある程度具体的に語って聞かせたのだから、我ながらサービス精神旺盛という他ない。九条さんは望んでいないだろうな、と頭の片隅で思いつつも、やめられなかった。なぜかやめられなかった。
井内さんは一貫して、控えめな感情表現に終始した。感心したときに声を漏らす。説明の言葉に対して頷く。時折なにか質問をする。示される反応はおおむねその三種類に分類でき、差し出がましい真似は一切しない。井内さんの性格を考えれば至極真っ当な態度ではあるのだが、どこか違和感がつきまとう。
案内役として振る舞う中で、僕は最悪の事態として、僕たちが寝泊まりしている環境で寝泊まりしたいと言い出すのではないか、と恐れた。井内さん本来の性格を考えれば絶対に有り得ないが、そもそも、僕たちの生活の拠点を見たがった時点で、本来の彼女からはいささか逸脱している。
しかし、それはさすがに心配しすぎだったらしい。
「案内してくれて、ありがとう。当たり前とは少し違う生活を見られて――どう言ったらいいんだろう。語彙が貧しくて、ぴったり当てはまる言葉が浮かばないんだけど――うん、楽しかった」
目ぼしい場所は一通り案内し終わった、と告げると、井内さんはそう感想を述べた。相手に不快な思いをさせないように、単語や言い回しを逐一選びながら言葉を紡いでいく対応を、井内さんはあまり親しくない人間が相手の場合によく見せる。心を開こうとしない九条さんとの対話のさいには、このしゃべり方をすることが多かった。
「もしなにか困ったことがあったら、おじいちゃんの家まで訪ねてきて。もしかしたらクラスメイトが遊びに来るかもしれないって、おじいちゃんには伝えておくから。もちろん、二人がこの場所で生活をしている事実は伏せて」
「いいよ、そこまでしてくれなくても。他人に迷惑はかけたくないし」
「気持ちは分かるけど、でも、万が一のときのために住所だけ教えておくね。わたしの携帯番号も」
多分、世話になることないだろうな。そう冷ややかに思いながら、メモ帳アプリを立ち上げて必要事項を刻みつける。
「じゃあ、わたしは帰るね。次に会えるのは夏休み明けかな? 体調には気をつけてね」
僕、九条さんの順番に微笑みかける。僕の頷き方はぎこちないものになった。九条さんは無表情を崩さない。井内さんは胸の前で右手をひらめかせ、帰っていった。
空にはまだ、日没の兆候はいささかも認められない。蝉たちの主張が普段にも増して強く、日が沈めば鳴きやむ事実が信じられない気持ちにもなる。そして、永久不変のように単調な川の川音。
「今日の井内さんの訪問、どう思う?」
戸を開け放した小屋の中、窮屈な戸口に並んで腰かけ、遠くに微かに見える川の流れを見ながら、僕は切り出した。井内さんの後ろ姿が見えなくなるのを見届けてから、もう十分は経っただろうか。二つの点を結ぶ距離を埋めた沈黙は、あまりにも長すぎた。
「気持ち悪いよね。率直に言って」
川から僕へと視線を転じての返答だ。
「井内さん、もともと過保護というか、お節介というか、そういう人ではあった。でも、不可解という表現は大げさにしても、イメージと行動との間にずれがある気がして」
「それは僕も思った。特殊な状況を目の当たりにしても、相手の心情を慮って好奇心を抑えつける人だと思うんだけど」
問題は、なにが原因でいつもとは少し違っていたのかということだが、残念ながら全く見当がつかない。沈黙しているということは、九条さんも同じらしい。
「放っておくしかないんじゃないかな。井内さん、もうここに来る意思はないみたいだし」
九条さんはおもむろに呟いた。知らず知らずのうちに俯いていた顔を彼女へと向けると、視線は再び川へと注がれている。
「……ああ。そういえば、今度会うのは夏休み明け、とか言っていたよね。わざわざ宣言した以上は、自分から反故にする人ではないだろうし」
「そうだね。人生でたまにある例外的な出来事だと見なして、忘れるしかない」
ある種の決意表明のような言葉を最後に、会話は途絶えた。図ったようなタイミングで蝉の大合唱がやんだので、聞こえるのは川音のみとなった。蝉の声よりもずっと涼やかな音色のはずなのに、鳥肌が立つように肌に汗が浮かび上がった。
死のように暗い夜が今日も僕たちを包んだ。
夜に鳴く夏の虫たちは本日も、飽きもせずに演奏に精を出している。なんという名前の虫が鳴いているのだろう? 生態は? 乏しい知識をかき集めて、その話題について九条さんと話した夜もあったが、機会も、費やす時間も、日を追うごとに減少していった。虫が鳴いている状況に慣れ、当たり前の日常となったからだ。
今宵の僕たちの会話は少ない。言うまでもなく、井内さんの一件の影響だ。横たわってからずっと、あれこれ考えている。内容は、僕たちにとって重要な問題から、誰にとっても些細な事柄まで、総じて取り留めがない。思案に集中できていないのだ。眠れないが、周囲は暗くてなにもできないから、仕方なしに考えごとをしている。下手に頭を使役するのが災いして、眠りの世界は徐々に遠ざかっている。それが現状だった。
僕はやがて、隣にいる九条さんを意識し始めた。話し相手や生活のパートナーとしてではなく、十代の瑞々しい肉体の所有者としての彼女を。
狭い空間の中で、体と体が触れ合いそうな近さで横になったり。下着姿で川遊びをしたり。そしてなにより、人気のない山の中で二人きりで暮らすというシチュエーション。性的な関心の対象として九条さんを意識しやすい環境なのは間違いない。意識せざるを得ない環境、という表現の方がより正確かもしれない。事実、この五日間でくり返し意識してきた。不可抗力的な生理的な現象も、当然伴った。ただ、抑えがたいほど強く肉体への欲求が燃え上がったのは、初日の夜だけだった。
その性欲を、あの日ほど激しくはないが、僕は今確かに覚えている。体の芯から突き動かそうとするような激しさがない分、却ってあの日よりも強いような気もする。
あの日、九条さんは僕が行為を及ぼすことを許可すると明言した。それでは、今も方針は同じなのだろうか。
昼間、井内さんを案内していたときのことが思い出される。小屋の中は狭い。この場所で二人で寝ていると僕は説明した。明言した。他意はなかった。僕としては、ただありのままの事実を伝えただけ。しかし、今になって考えてみれば、淫らなイメージを喚起してもおかしくない発言だった、と思う。高校一年生という年齢を考えれば、むしろ喚起して当然。井内さんは普通の範疇に属する人だから、例外ではないはずだ。
例えば今、井内さんがまだ眠っていないとして、今ごろ僕たちが淫らなことをしているのではないかと想像を巡らせるほど、僕たちの暮らしが彼女にインパクトを与えたかは定かではないが――。
僕は今、井内さんが僕たちの様子をリアルタイムで覗き見ていたならば、井内さんが思わず息を呑み、ひとときも目が離せなくなるような、全神経を傾けて関心を注ぎ続けざるを得なくなるような、猥褻極まる肉体的やりとりを九条さんと交わしたい、という欲望を抱いている。
いつの間にか僕の下半身は、形容するのも憚られる、醜悪な様相を呈している。下着の内側が窮屈なので、見ずとも、触れずとも、その事実を把握できた。
寝返りを打ち、横を向いていた体を仰向けにして、目だけで九条さんを窺う。眠ってはいないが、眠りに向かうことに専心しているように見える。僕が目を覚ましていることには気づいているだろうか? 肉欲に半ば心を支配されていることには? 確かなことはなにも分からない。九条さんは、寝る態勢に入っても心が読めない人だ。
「遠藤くん、眠れないの?」
視線を感じたらしく、声をかけてきた。僕に背を向けた姿勢のままだ。
「うん、眠れない。寝苦しいとか、そういうことではないんだけど、結果的に眠れていないっていうか」
「もしかして、井内さんのことが関係している?」
少し考えてみる。その件も影響していないわけではないと思うが、第一はやはり性欲だろう。あまり関係ないかも、と答える。
直後、気がつく。九条さんが眠れないでいるのは、もしかすると僕と同じ原因からなのでは?
「遠藤くん、したいの?」
「どちらかというと――うん」
「前も言ったように、私自身はしてもいいと思っているから」
衣擦れの音が微かにして、静寂が僕たちの世界の支配者となる。
この時点で、僕の性欲は萎えていた。今の九条さんはその気がなさそうだと、言葉を交わしたことによって察したからだ。
九条さんは、キスやそれ以上のことができるような精神状態ではない。その原因は、将来に対する漠然とした不安なのではないか、と僕は想像する。
僕たちの逃避行の未来は予知できない、と彼女は言っていた。そのことと関係があるのか否かは、なんとも言えない。しかし、九条さんの心がそのような状態なのであれば、僕がとるべき行動は自ずと決まってくる。
「九条さん。僕は肉体的にじゃなくて、君の不安を取り除くという形で、君と関わり合いたいと思ってる」
返事はない。身じろぎすらしない。ただ、僕の発言に意識を傾けてくれているのだと、雰囲気から伝わってくる。
「今、僕にできることはない? あるなら遠慮せずに言ってよ」
「遠藤くんにできること、か」
独り言に等しい、隣り合っていたからこそ聞こえたというような、微かな呟き。たっぷりと間を置いて返答が述べられた。
「特にない、かな。もう寝た方がいいと思う」
「……分かった」
小屋の中は静寂に満たされた。
寝よう。仕切り直して、また新たな一日を生きよう。
明日にも訪れるかもしれない、九条さんが助けを必要とする瞬間に備えるためにも。




