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手持ちの食料は五日目の昼に尽きた。
「賞味期限切れ」
自らが手にした袋に刻まれた文字を指差して、九条さんが指摘した。昨日の日付だ。
僕は頷き、持っている袋を見せる。さらに一日前の日付が記されているのを目の当たりにして、九条さんの瞳の面積は少し大きくなった。説明を求めるような眼差しに、僕は頬をかく。
「ごめん。今九条さんが食べているものよりも賞味期限が新しいものは、もうないんだ。パンのストック自体も、今食べている分でおしまいで。……ごめんなさい。食料のこと、もう少し早めに九条さんに報告しておくべきだった」
無言が小屋の中を満たした。思い出したように八月の熱が主張を強め、首筋に汗をにじませる。
「別にいいよ、一日や二日くらい。なまものじゃないんだから」
九条さんはさばさばとそう答えて、袋を開けてパンを一口かじる。九条さんに倣って僕もパンを食べながら、
「問題は、食料をどう調達するかだよね。自給自足は無理って昨日で分かったから、買いに行くしかないわけだけど。お金なら持っているし」
「店、このあたりにあるの?」
「多分ないんじゃないかな。少なくとも、歩いていける範囲内には。そうなると必然に、電車を利用して買いに行くということになるね」
僕たちは再び黙り込む。山の中で寝食するようになって、今日で五日目。僕は久しぶりに人前に出ることに不安を覚えているが、それは九条さんも同じなのだろう。
人間世界から距離を置いても、生きていくためには、結局は少なからず人間に頼らなければならない。考えてみれば当たり前の事実なのだが、いざ直面すると、暗澹たる気持ちになる。自分の浅はかさ、甘さ、先見の明のなさ。そういったものをまざまざと思い知らされたようで。
食事中、僕たちは殆ど言葉を交わさなかった。不愉快ではないが騒々しい蝉の合唱と、涼やかだが単調な川音の取り合わせは、今日はどこかちぐはぐで調和しない。買い出しについて本格的に話し合うのは、本来であれば一日か二日前に食べきっておかなければならないパンを、全量胃の腑に収めるまで待たなければならなかった。
互いの体を嗅いでみたが、不快な臭いは感じ取れなかった。ボディーソープやシャンプーは使っていないとはいえ、体は毎日川に入って洗っているのだから、当然といえば当然だ。
ただ、僕たちは仮にも五日間、ささやかではあるが文明から遠ざかって生活をした。臭い・臭くないの基準が一般常識からずれているのでは、という一抹の不安はあった。僕が心配性だからではなく、九条さんも同じ懸念を抱いているらしいと、出発に先立っての会話で判明した。もっとも、僕に比べればないに等しいレベルらしく、
「うじうじしていても仕方ないから、出発しよう。不審がられるようだったら、買い物を断念して帰って来ればいいだけなのだから」
どこか開き直っているようにも聞こえる、さばさばとした口調で投げかけられたその一言が決め手となった。財布だけを持参し、僕たちは駅へと移動した。
駅舎に足を踏み入れたときはそうでもなかったが、電車に乗り込むときは凄まじく緊張した。
結論からいうと、誰も僕たちを訝しげな目で見なかった。五日間、常識から外れた世界で暮らしていたのだから、多少なりとも普通とは違っているはずだが、怪しむ人間は一人として現れない。日焼けしすぎた肌も、アイロンをかけていない皺だらけの衣服も、彼らは異常だとは認識しなかったようだ。
文明世界に受け入れられたことを喜ばしく思う一方で、拍子抜けでもあった。俗世から逃れたいと願い、実践した僕たちなのに、長期間でこそないが、そう短いわけでもない期間、距離を置いていたのに、こうも呆気なく是認されるのか、と。「世界から隔絶して生きていく資質はお前たちにはない」と言われたようで、軽くショックだった。
二十分ほど揺られて降り立ったのは、乗り込んだのと同じ自宅から最寄りの駅、ではなく、団地に近い小さな駅。顔見知りに遭遇するリスクを極力排除する。近くに食料品店がありそう。二つの条件を満たすということで、この駅を選んだ。
ごていねいにも駅舎を出てすぐ目の前に、無駄に巨大な案内看板が出ていたので、スーパーマーケットにはいとも容易く辿り着けた。駅前から五分少々という立地も、大量に買い込むつもりでいる身からすればありがたい。比較的大きな店舗で、品揃えの観点からも満足できそうだ。
入店した当初は、不安感は小さいとはいえなかった。顔見知りに出くわし、面倒な展開になるのではないか。行方不明者として、顔写真つきで情報提供を求めるチラシが貼られているのではないか。そう懸念していたのだが、後者に関しては完全な杞憂、前者に関してもどうやら心配は無用だと判明し、肩の力が抜けた。
「保存がきかないものも、今日食べきる前提で買っておきたいね。野菜とか」
「そうね。バーベキューパーティーでもしたい気分」
「確かに肉は食べたいけど、バーベキューはさすがに難しいかな。持ち運びとか資金の問題とかを考えると、余計な調理道具は買えないし。でも、長期戦になりそうだから、道具類は最低限揃えておきたいかも」
「追手が来たとき用に、ナイフとか」
「物騒だね。でも、一本あれば便利そうではあるよね」
冗談交じりの会話が復活したのをきっかけに、僕たちはあっという間に本来の調子を取り戻した。自分たちが置かれた状況も忘れて、軽やかな気分で商品を選んでいく。
ホームに降り立った僕たちは、商品が詰め込まれたレジ袋を平等に二分して持った。
「九条さん、大丈夫? ちょっと重いんじゃない」
「重いけど、それは遠藤くんも同じだから。さあ、帰ろう」
ハードルを一つ無事に乗り越えられたような、そんな実感があった。今現在の現在地の空模様のように、雲一つない青が心を満たしている。蒸し暑さも、蝉が奏でる騒音も、掌に食い込むレジ袋の重みも、全く気にならない。今や我が家となった小屋に帰るまで、それでも満足できないならば心ゆくまで、現在や未来のことについて九条さんと語り合いたかった。
駅舎を出て、八月の凄烈な直射日光からの歓待を受けた直後、僕たちは立ち止まることを余儀なくされる。
「あっ、遠藤くん。九条さんも」
駅舎の出入り口のすぐ外、自動販売機の脇のベンチに、井内彩音さんが座っていたのだ。遊園地で出会ったときのような、高校生の少女が夏場に着るのに相応しい衣服に身を包んでいる。膝の上にオレンジジュースの缶を置いていて、プルタブは開いている。
見開いた目で僕と九条さんの顔を交互に見ている。驚き、混乱し、当惑していることをこれ以上ないくらい分かりやすく示している表情であり、仕草だ。
それは僕も、いや僕たちも同じだ。僕たちが暮らしている町とこの駅は、物理的にかけ離れている。平凡な眺めの河原があるだけの、近くにコンビニの一軒さえもないような不便な土地を、ごく普通の女子高校生がわざわざ訪れる理由が分からない。
恐る恐る、九条さんの顔を横目に窺った。凍りついていた。無表情なのはいつも通りだが、そこに筋肉の強張りがプラスされている。五日間寝食を共にしてきた僕には、その微妙な差異がはっきりと見極められた。
井内さんは見分けられなかったはずだ。しかし、この邂逅が僕たちにとって非常に深刻な意味を持っていることに、僕のリアクションを見て気がついたらしい。ジュースの缶をゴミ箱に捨てて立ち上がり、距離を詰めてきた。
「遠藤くんに九条さん……。意外な組み合わせだから、びっくりした」
井内さんの視線は、依然として僕と九条さんを往復している。表情は、驚き、混乱し、当惑したまま。実に常識的なリアクションであり、追及だ。非常識な生活を送っている僕たちを困らせるリアクションであり、追及でもある。
こうなってしまった以上、僕たちがとれる行動はある程度限定されてくる。全てを台無しにしても構わないならば話は別だが、その選択が得策だとは逆立ちをしても思えない。
「そうだよね。学校では話をしたことすらないし、井内さんが驚くのも無理もないよ。九条さんとは、ちょっとしたきっかけで仲よくなって、夏休みに入ってからは一緒に遊ぶことが多くて。今日もそうなんだけど」
「そうだったんだ。二人が仲睦まじくしている姿、想像したことすらなかったけど――うん、そうだね。よくよく考えてみれば、お似合いのコンビかもしれない。二人とも物静かで、雰囲気がどこか似ているから」
井内さんは二度三度と頷く。心から納得したというよりも、自分で自分を納得させようとしているような、そんな印象を受ける。
井内さんの視線が、おもむろにレジ袋へと移動した。最初は僕が持つ袋、次いで九条さんが提げた袋へと。まずい、と瞬間的に思ったが、まずいものを提げていると自覚するのがあまりにも遅すぎた。
「食べ物をたくさん買ったんだね。買い物に行っていて、帰ってきたところなんだ」
「そうだよ。このあたりに食料品を買える店はないから」
「どう見ても、一度に食べきれる量じゃないよね。他にも誰か友達が待っているとか?」
「ていうか、井内さん。井内さんこそ、こんなところでなにをしているの? 僕たちのことを怪しんでいるみたいだけど、井内さんも負けず劣らず怪しいよ。こんな小さな駅に一人でいるだなんて」
僕としては、井内さんも他人には触れられたくない事情を隠していると踏んで、それを俎上に載せることで僕たちから注意を逸らそう、という目論見だった。しかし、井内さんは慌てるどころか、むしろ表情を一段明るくさせ、
「わたしの母方のおじいちゃんの家がこの近くにあるんだけど、一昨日から泊まりに来ているの。このあたり、静かで、空気がきれいで、リフレッシュできる環境でしょ。だから、毎年夏休み期間中に一度は来ているんだ。おじいちゃん孝行にもなるしね」
駅から道を道なりに歩くと、三叉路に辿り着く。右の道へ進めば河原だが、左へ行けば集落があるという。井内さんの祖父の自宅は後者にある、ということか。
「駅前まで来ていたのは、ジュースを飲むため。遠藤くんがさっき言ったように、このあたりには食料品店がないから、甘い飲み物が欲しくなったのに家にないときは、ここに来れば一番早く手に入れられるの。飲み終わったし、そろそろ帰ろうかと思ったら電車が到着して、駅舎から遠藤くんと九条さんが出てきたからびっくりしたっていう、そういう経緯」
わたし、おかしなこと言ってる? 井内さんの眼差しはそう問うている。僕は心の中で首を横に振る。井内さんは嘘をつくような人ではない。一学期の間学校生活を共にしたから、それは理解している。
「二人はここでなにをしているの? というよりも、なにをしようとしているの、と訊いた方がいいのかな。詮索して申し訳ないんだけど、正直、凄く気になる。もしなにか困っていることがあるなら、力になりたい気持ちもあるし」
井内さんは気がついている。僕たちがこの地を訪れたのはピクニックをするためではないと、感づいている。わざわざ電車に乗って現在地まで来た理由を、心の底から知りたがっている。
僕と九条さんは顔を見合わせる。泣きたい気持ちを懸命に堪えているようにも見える顔を見た瞬間、九条さんは同級生の前ではしゃべらない人だったことを思い出した。
僕一人の力で困難を切り抜けるしかないのだ。
「……実は」
覚悟を決めて、僕は話した。井内さんには話せない深い事情があって、二人揃って家出をしたこと。河原近くの小屋で寝泊まりをしていること。小屋での暮らしは今日で五日目になること。
九条さんが虐待を受けていたことなど、打ち明けると話がややこしくなりそうなことは、全て伏せた。もしくは、当たり障りのない形に改変した上で伝えた。基本的には、僕一人の判断で言葉を選びながら。時折は九条さんの顔色を窺い、僕だけが読みとれる無言のメッセージを参照しながら。
完全なるアドリブだった割には、無難にやれたという手応えはある。大きな失敗を犯さないように、危ない橋を渡らないように心がけたのが功を奏したのかもしれない。
「そっか。遠藤くんたちはそういうふうに過ごしていたんだね。そっかそっか」
井内さんは小さく何度も頷く。感心しているふりをして考えごとをしている、といった様子だ。
親に迷惑をかけてこそいるが、犯罪行為をしていない以上、なにをしようが個人の自由だ。説教に耳を貸す義務も、是正勧告に従う義務も、僕たちにはない。そのことが分からない井内さんではないはずだ。ただ、他人と会話をする意思が皆無の九条さんとの対話を諦めなかったように、井内さんにはお節介なところがある。人並み以上の正義感を持った人でもある。その性格が吉と出るか、凶と出るか。
井内さんはおもむろに僕の顔を正視し、こう述べた。
「遠藤くんたちが生活の拠点にしているっていう、小屋? もしよければ、わたしにも見せてくれないかな」
一瞬、時間の流れが止まったような感覚が僕を包んだ。
「興味があるの。普通とは違う暮らしというのがどんなものなのか、この目で見てみたい。親しくもない人間に生活の場を見られたくない気持ち、よく分かる。よく分かるんだけど、それでも見たいの。軽く案内してもらうだけでもいいから、お願いできないかな?」
その眼差しは真っ直ぐで、邪な企みを秘めているとはとても思えない。
僕は多分、九条さんの意向を窺うべきだったのだろう。ただ、井内さんからは全く邪念が感じられなかったし、「軽く案内してもらうだけでも」という一言、なによりもそれが効果的に胸に響いた。
「分かった。そこまで言うなら、案内するよ」
だから、そう返事をした。
したあとで、激しく後悔することになる。
九条さんは僅かながらも眉根を寄せ、眉尻を下げていたのだ。
井内さんも僕の視線の動きに釣られる形で、九条さんの顔を見た。これというリアクションがなかったのを見るに、井内さんの目には、見飽きるほどに見慣れた無表情にしか映らなかったらしい。しかし、五日間生活を共にしてきた僕には分かった。分かってしまった。
九条さんは、失望し、落胆し、恐怖し、緊張し、不安がっている。井内さんに干渉されることに。そして、その先の未来に。




