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 一時間後に駅前で待ち合わせると約束を交わして、九条さんは遠藤家を辞した。逃避行に必要な荷物をとりに帰るためだ。

 虐待されていると告白されたあとだけに、一人で家に帰すのは不安だったが、父親は現在仕事中で自宅には不在だという。勤務中に一時帰宅するおそれはまずないということだったので、最終的には安心して送り出せた。

 何日か分の着替え、歯ブラシセットなど、必要と思われる物品を次から次へとショルダーバッグに放り込んでいく。クローゼットの深奥から引っ張り出してきたこのバッグを使うのは、修学旅行があった中学二年生のとき以来だ。うっすらと埃を被ったその姿は、逃避行を前にした自分と重なるようで、淡い切なさに胸が締めつけられた。

 逃避行のプランについての具体的な協議はしていない。ただ、不満を抱きながらも安穏と暮らしてきた僕にとって、これからの生活は極めて厳しいものになる、という覚悟はしていた。食事、寝床、トイレ。その全てが昨日までと同じままではいられないだろう。具体的にどう違ってくるかも、その対処法も、現時点では想像もつかない。

 あまり考え込みすぎると、脱出不可能な暗黒に心が囚われてしまいそうだ。なるたけ無心を心がけて、荷造りに専心する。

 後戻りできないという意識が、そう強くはないが、ひっきりなしに心に訴えかけてくる。それに影響されて、持っていくものの選定には、奇妙なまでに強いプレッシャーが伴った。それでいて、文明の利器を通じて九条さんに相談しよう、という方向に気持ちが向かわないのが、奇妙といえば奇妙だった。

 選んだり、迷ったり、物思いに耽ったりしているうちに、待ち合わせ時間が近づいてきた。ぱんぱんに膨らんだショルダーバッグを肩にかけ、一階に下りる。

 玄関ドアを潜ったところで、屋内を振り返った。この家には二度と帰ってこられないかもしれない。そんな思いが過ぎったが、切なさが込み上げることはない。

 仕方ないよ、と思う。この家は、あまりにも嫌な思い出が多すぎる。一方で、これから踏み切ろうとしている行動に支障が出かねないから、無意識に抑圧しているだけなのかもしれない、とも思う。

 なにはともあれ、行かなければ。待ち合わせ時間は刻一刻と近づいている。九条さんが待っている。

 ドアを閉ざし、施錠する。スポーツバッグの肩紐をかけ直し、我が家に背を向ける。振り返ることなく、目的地に通じる道を進んでいく。




 予想していた通り、九条さんが先に待ち合わせ場所に来ていた。黒一色の服装、無表情、どこか素っ気ない態度。ただ一つ違うのは、持っているバッグが大きめのものに変わっていること。

 九条さんのもとへと歩を進めていると、なぜか泣きそうになった。雫がこぼれそうになるのではなく、ただただ目頭が熱い。待っている彼女が、あまりにもいつもと変わりなかったからか。それとも、ベーカリーから漂ってくるパンの香ばしい匂いが、憎らしいまでに平和を感じさせるせいか。

「お待たせ。ごめんね、いつも待たせて」

 九条さんの目の前で足を止めた僕は、泣きそうになっていた過去などなかったかのように、彼女に微笑みかけた。

「ううん、別に。私が勝手に早く来ただけだから」

「準備、ばっちり?」

「恐らくは。はい、切符」

 差し出したものを受け取る。渡したのと反対、バッグを持っている方の手には、九条さんの分の切符が握られている。

「ありがとう。それじゃあ、移動しようか」




 電車の中で、僕たちは沈黙している。

 空き時間を利用して、今後について話し合うべきなのかもしれない、という思いはある。ただ、不特定多数の人々の前で話すには、いささか不適当な話題だ。

 多少なりともストレスを感じる環境の中に身を置き、未来に対する不安と緊張と向き合う時間も、今の僕たちにとっては必要なことなのだ。自らに言い聞かせるように心の中で呟き、現在の無言状態を肯定する。前回乗ったときよりも乗客は少ないにもかかわらず、電車が揺れるたびに肩と肩が触れ合うくらい近い距離に九条さんが座ってくれたこと、それが唯一の明白な救いだった。

 前回電車を利用したときに思いを馳せたことで、しゃべるたびに感じた甘い匂いの正体が判明したのは、電車の中だったと思い出した。

 九条さんの膝に置かれているバッグの中には、恐らくキャンディも入っている。それを食べれば、あるいは食べるか否かを尋ねるだけでも、僕たちの間を漂う重苦しい空気は多少なりとも緩和されるはずだ。九条さんはその選択肢に気がつかないのではなく、緊張感に呑まれてしまい、実行したくてもできないのかもしれない。

 あのころに比べて、今僕たちが置かれている状況は重苦しい。そんな現状に一筋の光を投げかけるだけのポテンシャルを、キャンディはその小さなボディに秘めている。ただ、九条さんがその菓子に親しむ習慣は、彼女の感情を殺した人間が生み出したのだと思うと、やるせない。僕たちの人生に意味などあるのだろうか? そんな領域にまで意識は拡大していく。

 まだ彼女の父親については知らないことだらけだ。だから、彼が憎らしい、ということではない。自分の両親を念頭に、世の中の親は果たすべき役割を果たしていない、大人は無能な暴君ばかりだ、と非難する方向に気持ちが向かうのでもない。この世界は、自分たちの力ではコントロール不可能なものだという認識、それに伴う絶望感、ただそれを覚えている。激しく胸を衝くのではなく、拭っても拭っても拭い去れない類の観念だけに、却って厄介だ。隣に九条さんがいるにもかかわらずこの様なのだから、厄介という表現では弱すぎるかもしれない。

 九条さんは今、なにを思っているのだろう。

 感情表現が極めて希薄な彼女の内心を読み取るのは、彼女と親しく付き合うようになって二十日以上が経つ現在となっても、困難を極める。決して快い気分ではないのだろう。自分自身や僕の未来について考えているのだろう。そんな大雑把な予測が立つのみだ。

 九条さんが逃げる必要に迫られている立場で、僕は手助けをする立場なのだから、僕が彼女に寄り添ってあげないといけない。近い距離に座ってくれたのだって、僕に寄り添いたい気持ちからというよりも、僕に寄り添ってほしい欲求の無意識の表れかもしれないのだから。

 冴えた文言は見つからない。現実から目を背ける方向に誘導するのが得策か否かの判断はつかず、軽はずみに行動に踏み切るのは恐ろしい。ならばせめて、手を握るだけでも。

 そこまで考えは進んだ。しかし、実行に移せない。煎じ詰めれば、他人に気を配るだけの余裕がない、ということなのだろう。想いを寄せる。実際に寄り添う。二つの間には、言葉を並べてみたさいに感じるよりも、遥かに長い距離が隔たっている。

 心境に変化が兆したのは、電車を降りる準備を始めた直後のこと。

 降車駅が近づくと、その駅で降りる予定の乗客が動くのに伴い、車両内の空気も動く。しかし、僕たちが降りる駅が近づいても、僕たち以外には身じろぎをする乗客すら現れない。

 僕たちはこれから、二人きりで生きていくのだ、と思う。

 僕と九条さん。それが僕たちの世界を構成する人間の全てだ。暴力と暴言を厭わない九条さんの父親も、息子のことなんてどうでもいいと思っている僕の両親も、その他の無関係で無能でそのくせ有害な赤の他人たちも、全てが不在。

 それならば、なにを憂う必要があるのだろう?

 ほんの少しだけ、気力が復活した。

 電車がその長大な体を静止させる。九条さんに一声かけようとすると、彼女は自分から僕に目を合わせ、しとやかに腰を上げた。その悠然たる立ち振る舞いに、待ち受けている未来に対する意気込みがいかほどかを見た思いがした。高揚感が穏やかに湧き起こるのを感じながら、僕も立ち上がる。

 ホームには蒸し暑い空気が蔓延していて、顔から汗が噴出した。熱いね、という一言は胸中に封じておく。僕たちが行く場所に、冷房などという気がきいた代物はない。戦いは既に始まっているのだ。




「静かだね」

 駅舎を出て道を歩き始めてすぐ、僕は九条さんに話しかけた。実際はシャワーのように蝉の鳴き声が降り注いでいるのだが、言わんとしていることは瞬時に呑み込んでくれたようで、

「そうだね。前回と同じく」

「二人きりでいられて、誰にも邪魔される心配がなさそうだから、この場所を選んだんだけど」

「説明されなくても、だいたい分かってる」

「じゃあ質問するけど、僕と二人きりでいることについて、九条さんはどう思っているの?」

 静かに電車に揺られている間、話し合いたいこと、確認をとっておきたいことは山ほどあった。その中の一つがそれだった。

「気が置けない相手だから、一緒に過ごしている時間は楽しくて、幸せな気持ちになれる、ということであればもちろん嬉しい。父親から助けてくれる人間が、頼れる人間が僕以外にはいないから、嫌なところもあるんだけど仕方なく、ということであれば、その嫌なところを直していきたいと思ってる。ただ父親から物理的な距離を置くのを手助けをするだけじゃなくて、ありとあらゆる意味で、九条さんの心を楽にしてあげたいから」

 九条さんの足が止まり、こちらを向く。唇が、明らかに発声に備えて半分ほど開かれたが、顔を進行方向に戻して歩き出した。

「ちょっと、質問の返事――」

「体験してみないと分からないこともある。だから今の段階で、私の口から断言できることはなにもない」

「……そっか。まあ、そうだよね」

「でも」

 再び九条さんの足が止まったが、直ちに歩みを再開する。視界に映った一瞬の表情は、微かに笑っているようにも見えた。

「現時点で、遠藤くん以上に、一緒にいて心が楽になれる人はいない。だから、変な心配はしなくていいから」

「……九条さん」

「バッグ、持ってくれないかな。重たいから」

「僕のバッグも重たいし、一人で二つはさすが――いや、やっぱり持つよ」

 九条さんが肩から外したバッグを受け取る。案の定、重い。それでいて、仄かに快くもある。荷物を委ねてくれたのは、大げさに捉えるならば、僕を信頼してくれた証なのだから。

 助け合って、支え合って、僕たちはこれからの日々を生きていくのだ。




「とりあえず、ここが拠点かな」

 河原に下りる道のほど近く、一軒の古びた小屋のドアを開け放ち、溜息混じりに僕は言う。至るところに蜘蛛の巣が張っていて、床も汚れきっている。正常な衛生観念の持ち主であれば、荷物の一時的な置き場にすることさえも憚られる有り様だ。

「寝泊まりをする場所、という意味?」

「そういうこと。あとは持ち物を置いたり、食事をする場所なんかにも使えるかもしれない。もちろん、九条さんが嫌じゃなければの話だけど」

 言葉を切って顔色を窺う。彼女はお馴染みの無表情で僕を見返し、

「少なくとも、河原で眠るよりはましなんじゃないかな。だから、私は別に」

「安心した。じゃあ、とりあえず中を掃除しようかな」

 落ちていた葉っぱつきの枝を活用して、まずは屋内の蜘蛛の巣を取り除く。床の汚れは、僕が持ってきた替えの衣服を川の水で濡らし、雑巾として使って掃除した。

 九条さんは、作業の邪魔にならない位置に立つという最低限の配慮は見せたものの、手伝おうとはしない。学校での掃除の時間と全く同じ態度に、僕は微笑を禁じ得なかった。ただ、「河原まで行ってシャツを濡らしてきてほしい」と頼むと、言う通りにしてくれた。

「よしっ、完成!」

 作業は三十分ほどで完了した。当初の酷く汚れた有り様を思えば、上出来だろう。九条さんは九条さんだから、賞賛の言葉を僕に送ることはない。ただ、様変わりした屋内の清潔な眺めは、疲労感を忘れさせてくれたし、気持ちも明るくなった。

 蜘蛛の巣が除去された屋内は、二人の人間が脚をめいっぱい伸ばし、並んで寝そべられるだけの物理的なスペースがあると判明した。寝返りを打つとなると相手に配慮せざるを得ない、心もとないゆとりではあるが、嬉しい事実だ。床材は古びていているようで頑丈で、脆くなった箇所や開いている穴などがないことも確認した。

 床に胡坐をかいて小休止をとり、そろそろ外に出ようとしたところで、九条さんが入ってきた。ただそれだけで、薄暗い小屋の中が華やいだ。内部の様子を眺めるのではなく、僕の顔を見つめながら、

「きれいになったね」

「そうだね。元が酷かったから心配だったけど、そんなに広くはなかったから、なんとか短時間で」

「お疲れ様と声をかけろ、とは言わないんだね」

「僕が勝手に始めたことだから。本当はそう言う予定だったけど、恥ずかしいからやめたの?」

「言いたいっていうか、遠藤くんが私に来てほしそうにじっと座っているから」

「そんなつもりはないよ。ただ休憩していただけで」

「疲れているんだったら、どうぞ」

 僕の真正面に跪き、後ろ手に隠し持っていたものを手に握らせる。キャンディの個包装だ。味は、ピーチ。

「ありがとう。やっぱり九条さんは親切だね。声や表情には出ないだけで」

「どういたしまして、と言っておこうかな」

 袋を開け、艶めいた薄桃色の球体を口の中に入れる。甘さを舌に感じた瞬間、部屋で交わしたキスのことを思い出した。九条さんに注目すると、僕の顔をじっと見ている。

 場に漂っている雰囲気が少し変わった。

 視線が重なる。僅かだがはっきりと、九条さんは口の片端を吊り上げた。顔が近づく。僕は目を瞑ったが、逃げない。部屋で体験した柔らかさを唇に覚え、互いの同じ部位が接しているのだと理解する。

 それからの流れは部屋のときと似ていた。即ち、口内に舌を入れられ、動き回られ、唾液ごとキャンディを奪われる。動きの一つ一つが官能的な粘性を帯びていて、なおかつ、一個の芸術作品を作り出そうとするかのようにていねいだ。

「どう? 疲れ、とれた?」

 行為が切り上げられ、僕が瞼を開いたタイミングを見計らって、キャンディを含んだ声で彼女は問う。僕は人見知りの幼児のように頷く。口元を拭おうとした手が、彼女の手を掠めた。半ば無意識に、その手を握りしめていた。彼女は拒絶感を示さない。それでいて、微笑んでいる。注意深く見つめなければ見逃していたに違いない、九条翡翠ならではの、至極控えめな微笑。僕の無意識の行為を肯定してくれたのはもちろん、さらなる行為を希求して、僕の顔を一心に見つめている。口の中でキャンディが転がり、音を奏でた。

 唇を、九条さんの唇に宛がう。交流の様態が穏やかだったのは最初だけで、見る見る激しさを増していき、あっという間に獣のそれになった。

 何回も、何回も、唾液を交換した。互いに相手の体にしがみついて、ピンク色の球体が溶けて無と化すまで。

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