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父親が私を虐待するようになったきっかけは、はっきりしている。母親と離婚したことよ。父親は大企業に勤めていて、経済的に恵まれているんだけど、中年になっても女遊びをやめられない人で。それが原因で離婚が決まって、養育費を捻出できる余裕があるということで、私は父親のもとで暮らすことになった。それが今から四年前、小学六年生のとき。
父親、母親、私、三人全員の合意のもとでの決定だった。離婚するというのも、私が父親のもとで暮らすというのも。父親は確かに女癖は悪いけど、家族に暴力を振るったり暴言を吐いたりする人ではなかった。自分の父親がいかがわしい行為をしていたというのは、もちろんショックだった。だけど、反省も後悔もしているようだし、過ちを犯した事実に目を瞑れば、優しいお父さんだし。同じ経験をしたことがない人には理解しづらいと思うし、経験者の中でも私は少数派に属するのかもしれないけど、当時は父親に対する嫌悪感はないに等しかった。末永く三人で暮らしていけるなら、それに越したことはない。だけど、離婚は避けられない情勢になった以上は、それがベストの選択だ。そういう認識だった。
父親がなぜ私を虐待するようになったかというと、それは、私の母親とよりを戻すことに失敗したから。私は後から知ったんだけど、父親は離婚後も母親にたびたび復縁を迫っていたらしいの。でも、一度裏切られた母親は、父親の人間性をどうしても信用できなかったみたい。夫からの要求を断固として拒んで、これ以上接触してくるようであれば警察沙汰にするとまで言って、永久に縁を切った。それを境に、父親は私に対して日常的に暴力を振るうようになったの。
八つ当たりのようなものだったんでしょうね。プライドが高い人だから。思い通りにならなかった屈辱とストレスを、反撃も抵抗もされないような、自分よりも弱い存在にぶつける。ありがちといえばありがちなケースなのだろうけど。
あまりにも長くなりすぎるから、具体的にどんな被害を受けたのかを列挙するのは控えるね。一言で言えば、容赦がない。痛いし、苦しいし、さっき遠藤くんが見たように、ある程度長く体に残り続ける類の虐待もある。それでいて、外からは見えない場所を的確に狙って傷つけるだけの、悪魔的な理性も兼ね備えている。ただ、ふとした拍子に垣間見える可能性もあるだろうから、普段は極力肌を露出しない服を着るように心がけてはいるんだけどね。無関係の人間に知られると、お節介とか、同情とか、正義感とか、いろいろ面倒くさそうだから。遠藤くんはきっと、私がいつも黒くて肌が隠れる服ばかり着ているのを見て、暑苦しいやつだと内心では思っていたでしょう。夏なのに夏らしくない服装を愛用しているのは、そういう理由があるからなの。夏なのに冬用の制服を着ていた理由も、それと同じ。黒い服ばかりを選んでいるのは、単に私が好きな色だからなだけで、虐待と直接関係はないんだけど。
遠藤くんのために言っておくと、性的な虐待は受けていないから。さっき見てもらったように、私は貧相な体をしているから、性欲のはけ口としては魅力的ではないんでしょうね。何度も言うように、父親はお金だけは持っている人だから。女としての魅力に乏しい私でわざわざ性欲を解消するくらいなら、有り余っているものを有効活用した方が得策だ、という判断なんだと思う。胸を踏みにじられたり、股間を蹴られたりしたことはあるけど、それらはあくまでも肉体的な苦痛を与えるための行為。それ以上の酷いことはされていないから、心配しないで。
もう察しはついていると思うけど、私が感情表現が乏しいのは、間違いなく虐待の影響。殴ったり蹴ったりしている最中に、父親は「なにへらへらしているんだ」という意味のことをよく言うのね。で、それを理由に、ますます激しく殴ったり蹴ったりする。私が感情を殺すようになったのは、不条理な制裁から我が身を守るため。虐待されるおそれがない場面でも感情を出さないのは、癖になってしまった、という説明が一番分かりやすいかな。出すのが怖いような、出し方が分からないような、出すのが面倒くさいような……。ぴたりと当てはまる言葉を見つけるのは難しいけど、とにかくそんな感じ。私としても、人並みに感情を出していきたいとは思っているんだけど、どうしてもそうなってしまう。コントロールしたくてもコントロールできない。
みんなの前でしゃべらないのも、それと同じ理由から。学級委員長の井内さんは、話を聞いているだけでもいい人なのが伝わってくる。転校当初によく話しかけてきた高木さんは、仲よくなれたら楽しい人だと思う。でも、感情を表に出さないのと同じで、癖になっているからしゃべれない。しゃべりたくても、無理なの。
じゃあ、どうして遠藤くんに話しかけたのかというと、私と同じ匂いを感じたから。私ほど変だとは思わないけど、孤独な人なのかな、とは思った。孤独な人なら、今までたくさん出会ってきた。そのたくさんの人たちと比べて、遠藤くんに特別ななにかを感じたわけではない。それなのに声をかけたのは、そろそろ助けがほしかったのかもしれないし、無意識レベルでは特別なものを感じていたのかもしれないし、正真正銘たまたまなのかもしれない。はっきりとしたことは分からないけど――とにかく私たちは会話を交わして、遠藤くんからの提案があって、何度も一緒に遊ぶうちにだんだん仲よくなって、今に至っている。
最後に、飴について。どうして飴を舐める習慣がついたかというと、父親から食事を抜く虐待を受けていた時期があるから。これだけ言っておけば、それ以上の説明は必要ないよね。
案の定長くなってしまったけど、これでおしまい。以上が、私が遠藤くんに伝えたかったことの全て。
沈黙が室内を満たしている。永遠を越えて続いていきそうな、物理的に重苦しい沈黙が。
今まで僕は、九条さんの無口や無表情や愛想の悪さを、個性として肯定してきた。しかしそれは、その裏に隠されているものを見ないようにすることに等しかったのだと、話を聞く中で気づかされた。過ちに気づいたあとでは、彼女の個性を肯定するという行為は、薄っぺらい偽善だとしか思えない。
九条さんは少し顔を俯けるという姿勢で、口を噤んでいる。しゃべり出そうとする気配は、今のところ見られない。なんらかの要因に邪魔されて、しゃべりたくてもしゃべれないのではなく、僕からの言葉を待ち受けているように見える。
鬱々としていて、痛ましげな顔だ。今の九条さんは、明らかにいつもの九条さんではない。
九条さんは無表情で無口ではあったが、人前でも常に堂々としていた。普通の枠から逸脱している自分を恥じていなかった。告白によると、広い意味での引け目は感じていたらしいが、表向きはそうは感じさせなかった。毅然としていた。
それほどまでに強い人を、これほどまでに精神的に落ち込ませる、虐待という、恥ずべき、悪逆非道な行為。
それをどうにかしない限り、彼女が根本的に幸せになるのは難しいだろう。というよりも、絶対に無理だ。
この問題を解決に導くために、僕になにができるだろう?
あまりにも難しすぎて、遠すぎて、真実に肉薄する努力を擲ちたい衝動に襲われた。
しかし、危ういところで踏み止まる。一歩一歩、粘り強く、解決策を模索していく。
九条さんを救うために、僕にできることは、やるべきことは、なんなんだ?
「――逃げよう」
僕のその一言に、九条さんはゆっくりと首を動かして僕の顔を正視した。その顔には、僕と出会って以来最もはっきりと、驚きの感情が表れている。
無理もない。僕自身、自分の発言に驚いているのだから。
ただ、発言自体は間違っていないと、瞬間的に確信していた。そして、発言が意味しているものや、言葉をどう繋げていけばいいのかを、駆け足で理解していった。
この方法ならば、きっと九条さんを救ってあげられる。
確信が深まるのに足並みを揃えて、高揚感が高まっていく。それが語を継ぐ原動力になった。
「虐待を受けていることが、九条さんの全てを狂わせているのなら、元凶から遠ざかればいい。九条さんはお父さんから離れて生活するべきだよ。絶対にそうするべきだ」
「酷く漠然とした提案をするんだね。私から話を聞かされたばかりなのだから、無理もないのだろうけど」
九条さんの物言いには、不安定な期待感が見え透いている。
「仮に遠藤くんの忠告を受け入れるとして、私は具体的にどう行動することが求められているの? アパートでも借りて一人暮らしをしろとでもいうの? お金もないのに?」
「出すよ。必要なお金は全て僕が出す。貯金はそんなにないけど、短期間なら大丈夫じゃないかな。資金が尽きたあとのことは、そのときになったら考えよう」
「私、遠藤くんはもっと、現実的に物事を考える人だと思っていたんだけど」
「非現実の中にいるんだから、解決策が現実的じゃないのは当たり前だよ。九条さんは毎日のように虐待を受けているんでしょ? だったら、今すぐに行動した方がいい。絶対にそうするべきだよ」
「遠藤くんは平気なの? 君の言い方だと、私に付き添うと言っているように聞こえるのだけど」
「そうだよ。そのつもりでいる」
「それ自体に不満はないけど、遠藤くんの家族はどうなるの」
「心配しなくていいよ。何回か話したように、僕の両親は不仲で、毎日喧嘩ばかりで、一人息子の僕には無関心だから、家を出てもなに一つ心配はない。書き置きくらいは残す必要があるだろうけど、友達と泊りがけの旅行に行ってくるとでも書いておけば、それでもう大丈夫だから」
九条さんはこれという反応を示さない。僕はそれを了解のサインだと解釈する。
「慌てすぎるのもよくないけど、やっぱり行動は早い方がいい。お父さんが家にいない時間帯、分かるよね? 不在の隙に荷物をとってきて、どこかで合流して、すぐに移動しよう」
「移動って、どこへ?」
質問の答えは、提案した時点では全く見えていなかった。しかしやりとりを交わす中で、僥倖のようにそれを発見していた。
だから僕は、臆することなく九条さんの瞳を見返しながら、こう答えた。
「河原だよ。夏休みの最初に二人で遊びに行った河原。僕たちが行く場所は、多分そこしかないよ」




