突然の手紙
ある日ブリオ男爵邸へ、突然一通の手紙が届いた。差出人はバルゲリー公爵だ。
バルゲリー公爵家とは、数年前に奥方がご利用になるロンバルディア製の香水を納めた事が縁となり、以来ブリオ一族の商会を愛顧にして頂いている。ただ何か入用であれば、いつも商会の方へ手紙が来るというのに今回の手紙は、何故かブリオ男爵邸に届いた。それに手紙もどこか、いつもと違うように思える。
――ああ、そうだ。筆跡がいつもと違うではないか。
アロイスは、封筒に書かれている文字が、普段と違う事に気が付いた。これ迄のものは教科書のように整った文字で書かれていたが、今、彼の手元にあるものは、右にやや大きく膨れ上がった文字で随分と癖がある。
商会への手紙など、公爵本人が書くはずがない。おそらく誰かに代筆させているのだろうが、何故か今回に限り筆跡が違っていた。今迄とは別の者が代筆したのだろうか。けれど、どこかこの癖のある文字を見たことがある。そこでふとアロイスは、バルゲリー公爵家が支払いに使用する小切手を思い出した。今回の手紙の筆跡は、小切手に記入されている公爵本人のサインによく似ていた。
まさか公爵のような高貴な方が、商人貴族のそれも男爵家の男に直接手紙を書くことなどあるだろうか。なにせバルゲリー公爵家といえば、初代当主は先王の王弟であり、現当主の妹は国王の正妃だ。更に奥方はロンバルディア王国傍流の王族出身。そのような方からすれば、成金男爵など卑しい身分でしかなく、現に商品を公爵邸へ納品する際に、アロイスは一度も公爵にお目に掛かったことがない。当然のごとく奥方にもだ。
幾つかの疑問を飲み込みながら、アロイスは手紙に目を通した。暫く手紙の文を黙って読んでいたが、そのあまりにも信じられない内容に彼は目を見開いた。
「どういうことだ。何故――」
そこには、貴殿の息女を公爵の従兄甥であるマルモンテル辺境伯の婚約者に望むという、有り得ない一文が書かれていた。
きっと何かの間違いに違いない。アロイスはその旨を失礼にならないよう、慎重に言葉を選び返書を認めた。きっと数日後には、宛先を間違えたとの知らせが来る事だろう。アロイスは椅子に背を預け、静かに息を吐いた。
――数日後、アロイスはバルゲリー邸の応接室で公爵がお出ましになるのをじっと待っていた。
なんと公爵からの返信には、間違いではないので是非とも屋敷に来て欲しいと書かれてあったのだ。どうしてクロエが選ばれたのか、アロイスにはとんと理解ができないでいた。身内の贔屓目で見ても、彼の娘はとてもではないが、名門貴族に望まれるような容姿はおろか教養すら持ち得ない。
これは困ったことになった。アロイスの手の平には、緊張から汗がじわじわと浮き出し、どことなく呼吸も浅くなっていた。こんなにも緊張したのは、いつ以来だろうか。いつもの彼であれば、公爵家の上質ではあるが華美ではない調度品や家具を目ざとく見ては、何か商売に繋げることが出来やしないかと思案するのだが今日に限っては、その余裕がなかった。何せ手紙の内容が天地がひっくり返るほどに信じられないものなのだから。
そうこうしているうちに応接室の扉が軽く四度叩かれた。公爵のお出ましだ。
公爵家の執事が扉を開け、その後ろから壮年の上品な雰囲気を持つ男性が、ゆっくりと室内へ歩を進めソファまで来るとそこへ腰かけた。すると公爵の後ろへ控えた執事がアロイスを紹介し、主人が鷹揚に頷いたのを確認した後、彼はアロイスへ当家の当主ロテール・バルゲリーでございますと主人を紹介した。
「やあ、ブリオ卿。よく来てくれた。しかし、随分と待たせてしまい悪かったね。急に王妃陛下から呼び出しがあったものだから」
王妃が何かとあれば、実家の兄を王宮へ呼び出している事を、貴族社会において知らない者はいない。癇癪持ちである彼女の手綱を公爵が上手く握る事で、何とか王妃としての体面を保つことが出来ている。
「いえ。とんでもございません。お忙しい中、私のような者にお時間を頂戴し、大変恐縮でございます。また殿下にお目にかかることが出来、大変光栄に存じます」
アロイスは貴族の礼儀作法に則り、お辞儀をすることで敬意を表した。
王位からは遠いものの王位継承権を持つ王族公爵であり、次期国王の伯父であるバルゲリー公爵に睨まれでもすれば、ブリオ一族など砂粒のように軽く消し飛ぶに違いない。一族の長として、アロイスは何としてでも、この局面を恙無く無事に乗り越えなければならなかった。
「いやいや、ブリオ卿。ここは私以外に誰もいないのだから、そう堅苦しくならずともよいのだよ」
お辞儀をするアロイスに、公爵はそんなものは構わないとソファへ座るよう手で促した。
「では、お言葉に甘えまして」
アロイスがソファへ座ると、すぐさま執事が紅茶と茶菓子をテーブルへ置き、音もなく部屋から退出した。
「いや今回は悪かったね。急なことで、さぞ驚いただろう」
いえ、そのような事はと、アロイスは首を僅かに振った。それはそれは驚いたというのが本音だが、まさか公爵閣下にそのまま伝える事は出来ない。
「私の従兄甥は少々変わり者でね。身分だけを見れば低い順位ではあるが、王位継承権もある。若くして侯爵であるし文句のつけようもない。しかし彼の両親が放蕩三昧でね。何かにつけて金遣いが荒かった。一昨年に先代の侯爵が道楽で参加をしていた自動車レースの最中に事故を起こし、この世をさった事は卿も知っているだろう。小さな別荘と同等の価値がある車と共に天に召されてしまったとね。社交界で随分と噂になったものだ。加えて前侯爵夫人も、ドレスだ宝飾品だ国外に別荘だと贅沢三昧でね。前侯爵が儚くなったというのに喪にも服さず贅沢三昧だ。まあ、それを理由に郊外の城へ謹慎させ、一先ず問題は解決したのだのだが。しかし、どうにもこうにも――」
なるほど先立つものがない為、我が家に目を付けたのかと、この時ようやくアロイスは合点がいった。そもそもが、よくよく考えれば済んだ話だ。ブリオ男爵家には金しかないのだから、それ以外に何があるという。娘を婚約者に乞われ、珍しく動揺をしていたが、何のことはない。そういう事だ。
「卿の息女と婚約を結ぶ事で、当面の資金援助と今後の資産運用をお願い出来ないだろうか」
「娘と婚約を頂かなくとも、お手伝いは致します。マルモンテル侯爵は、我が家にはとても勿体無いお方ですので、そのようなお気遣いはーー」
バルゲリー公爵家に恩を売れるというのは、一時的に損をしたとしても後々の見返りが大きい。わざわざクロエと婚約をしなくとも、ブリオ男爵家にとっては願ってもない話だ。
「いや、このような事を恥を忍んでお願いするのだから、こちらもタダでとは言うつもりはない。それに先ほども伝えた通り、従兄甥は随分な変わり者でね。結婚をするならば、料理、洗濯、裁縫のどれか一つでも出来る女性でないと了承出来ないと言っているのだよ。あいつは誰とも結婚したくないから、そのような無理難題を言っているのだろう」
「それは、また。何とも」
もし本当に望んでいるのだとすれば、随分と変わった好みを持っているものだ。貴族の男性で本当にそのような変わり者がいるのだろうか。しかも一国の君主がだ。
「卿の息女は、その点について問題がないと小耳にはさんだのだ。婚約もすぐに公にはしない。試し期間で一年はどうだろうか。その間に双方が嫌になれば、すぐさま解消する。もちろんのこと卿の息女の意思は最大限に尊重する。もしも縁談が上手くいくようであれば、我が家門の分家の養女とし、見合った身分で嫁ぐといい」
「――そういうことでしたら」
公爵にそのように言われては、男爵であるアロイスが断ることなど出来ず、あれよあれよという間に話が纏まってしまった。しかし貴族としての教養を何も持たないクロエが、果たして侯爵のような領主国家でやっていけるとはいえ思えない。そもそもの身分が釣り合わない。誰かいい男性が現れないものかと妻のルイーズと話してはいたものの、いくら何でも条件が良すぎではないだろうかと、アロイスは狐につままれたような心持になった。帰路へ着く馬車の中で、はてさてどうしたものかと、彼は愛娘の今後を思い深い溜息を吐いたのだった。