序章
クロエ・ブリオには前世の記憶が、些かではあるがあった。なぜ前世の記憶がある。そうはっきり断言しないのかというと、あまりにも偏った記憶しかないからとしか言いようがない。
クロエは前世の自分が誰で、家族が何人いたのか、どこの国の生まれかも知らなかった。ただ覚えている事は、ようやく見習いが終わろうかという経歴の菓子職人であったということと、慢性的にひどく疲れていたという事。あとは菓子の知識と製法くらいしか覚えていないからだ。唯一覚えている国といえばフランスだったが、どうもぼんやりとある前世の記憶では、住んでいた国とは違うようで、なぜか前世の自分はその他国の菓子を必死に勉強していた。けれど必死で勉強をしていた割には、あっさりと三年でその職を辞したのだった。
好きなものは仕事にしてはいけないと、十代の頃に趣味を仕事にした伯父から言われていたけれど。好きなことが仕事になるって最高じゃないかと思い、前世のクロエはその道を突き進んだ。途中でその道の先達から大変だと、女がずっとできる仕事じゃない。厳しいよ。卵ひとつ床に落としただけで怒鳴られるんだから。重いものも持たなきゃいけないし、働く時間はとても長いよ。給料だって雀の涙だし、悪いことは言わないからやめときな。そう言われても気にしなかった。若い世間知らずの人間が持つ、特有の自分だけは大丈夫だという根拠のない自信を持っていたからだ。
しかしその世界に足を入れてみると、先達の忠告が身に染みた。午前六時から午後の九時まで働き、自分の練習はその後で始める。睡眠時間はどんどん削られていく割に給料は少ない。社会保険は勿論のことないし、残業代なんてもってのほか。みんな長時間労働だからか、現場はいつだって張り詰めた雰囲気だ。あれ、私は何の為にこの仕事に就いたのだろうか。
あれほど好きだったお菓子が大嫌いになった。もう作りたくない。純粋に食べることを楽しみたい。あそこのお店のあのケーキは、材料になになにを使っていて、おそらくあの手順で作っているんだろうな。シェフはどこどこの出身だから、きっとあの有名店と同じ味だな。そんなつまらないことを思いながら、お菓子を食べたくなかった。ただただ純粋にお菓子を楽しみたい。作るのも食べるのも。これとこれを掛け合わせるなんて、このお菓子はなんて美味しいんだ。作った人は天才だな。なんて、そんなふうに単純でいたくなった。
そうこうしているうちに、前世のクロエは何かが理由で若くして死んでしまった。正直にいってなにがあったかは覚えていない。ただ一つ覚えていることは、死ぬ間際に次に生まれ変わるのならば、好きなだけお菓子を作れる裕福な家庭に生まれたいと願ったことだけだ。
そうしてその願いが届いたのか、クロエはクロエ・ブリオ男爵令嬢として生まれ変わった。今世の生家は家格が低い割に資産は潤沢にあるという商人貴族だった。
だからクロエは決めた。誰に何と言われようと好きなお菓子を好きな材料で好きに作ると。
だってこんなにも好条件のもとに生まれてきたのだもの。好きなことを好きなだけして生きていきたいわ。どうせどなたかお婿さんを貰うのだろうし、家格が低い我が家に来る男なんて、どうせ金目当てにきまっているのだから。家業を潰すような愚か者でない限り何でもいいのよ。そのかわり私は好きにさせていただくわ。
そう決めたクロエは、今日もせっせと菓子作りに励むのだった。