第7話 男は異世界に行った
「あん?」
次の瞬間、男は景色がぐるぐる回るような妙な感覚に包まれた。
―――ではなく本当に回っていた。
瞬時に視界が真っ逆さまになり背中に大きな衝撃を感じた。男は何が起きたかわからないまま目をぱちくりさせた。
「投げた?」
青い空が見えた。空色のキャンバスはとても美しい。放心状態の男は青空に輝く星屑を見た。まるで幼い頃に田舎で見たような銀河のように空を彩るおびただしい数の星の光、その幻想的な光景は筆舌に尽くしがたいほど美しかった。
―――その直後、男は何かがおかしいことに気づいた。
「昼間に星の光?」
同時に、男はそれが「星」ではないことを悟った。
それは正確には「太陽に照らされた、星の光のような髪の毛」だった。
猫の帽子が落ち、金色の髪の毛が露わになった。少女の動きに沿ってなびく髪の毛はまるで大地に落ちた銀河のように見えた。
「―――!」
男も、簡孫糜トリオも動けなかった。地上に放たれた星の光のように美しい少女―――イェリエル乃愛は落ちた帽子を拾った。
「風紀委員は学校で発生しうる不合理な事態を防ぐためにいるんじゃないの? その風紀委員がこんなに間抜けだとは」
彼女の声には情けなさがにじんでいた。
「あんたたちに従う気は微塵もないわ」
彼女はその場にいる全員を罵った。それでも、誰一人彼女に言い返すことはできなかった。―――反論する気も失せるほどに目の前にいた少女は美しかった。そんな皆の様子を見るとイェリエルは舌を鳴らした。
「……帽子を脱ぐとこれだから嫌なのよ」
イェリエルは長い髪をまとめると帽子をかぶった。星の光が消え、再び猫が現れた。コホン。帽子をかぶり空咳をした後、イェリエルは男を見下ろした。
「どう? ステータスも低い一般生徒に投げられた気分は、玉璽代理人さん? いいザマね」
男は状況をのみこめていないようだった。イェリエルはそんな男を嘲笑った。
「ルール違反がばれたなら仕方ない。でもそれはともかく、ついでに教えてちょうだい、玉璽代理人の風紀委員さん」
まだ呆然としている男を赤兎馬が無理矢理起こした。やっと正気に戻った男はしわくちゃになったコートをはたいた。
「ルール違反、ルール違反て、うるさいのよ。守れるような内容じゃなきゃ守りようがないわ。守れもしないルールを無理矢理作っといてそれに従えと言われてもできるわけないでしょうが」
イェリエルは簡孫糜トリオを、正確には「蜀」の文字が刻まれた腕章を睨みつけた。
「在野の近くにある共用エリアを昼休み直前に占領し、当然のように価格は二倍。誰が見ても在野に対する嫌がらせじゃない?」
「ああ、その」
「私たちが勉強している校舎からあの店以外の共用エリアに行くには、残りの昼休みじゃ全然足りないの。この学校はものすごく広いんだから。だからって二倍の価格でものを買わなきゃならないの? ふざけないでよ。何で豚みたいな蜀の懐に入る小遣いを私たちが払わなきゃいけないわけ?」
男はイェリエルの言葉に一言も反論できないまま目を瞬かせた。
「だから、当然一矢報いたいと思うじゃない? くそっ、お前ら! これでもくらいやがれ!ってね。それはとても、大いに、極めて当たり前のことじゃない? っというわけでちょっぴりルール違反したの」
イェリエルは名牌カードを指の上でくるくるを回した。そこにはまだハッキングアプリによって 【所属 : 蜀】に偽造された情報が表示されていた。そしてイェリエルは、とびっきりの清々しい笑顔で言った。
「在野を馬鹿にしないで」
爽やかな笑顔とは違って、その眼光はナイフのように鋭かった。
イェリエルは名牌カードを握りしめた。特殊な材質でできたカードは力を入れて握っても全く折れなかった。また手を放すと、まるでバネのように名牌カードが空に弾き飛ばされた。
「私たちはあんたたちのオモチャじゃないの」
彼女はカードをキャッチするとポケットに入れ、簡孫糜トリオを睨んだ。そうして初めて、正気に戻った簡孫糜トリオは顔を左右に振った。
「……この学校の生徒である以上、ルールを守るのは当然よ。問題児だらけの在野の分際でよくも不満を言えるわね」
玲火は目の前にちらつく星の光の幻をかき消そうと声高に反論した。
「そうだよ! あたしたちが生徒である以上、校則は絶対的なルール。それをどう利用しようが自由なんだから」
玲火に続いて萌乃が一言添えた。
「そんなことにいちいち反抗したところでカッコ悪いだけなのにねぇ。だから所詮在野なのよねぇ」
最後に暖蜜がおっとりとした口調で容赦なくイェリエルを攻撃した。イェリエルは彼女らに向かって鼻で笑った。
「今、蜀の幹部はあんたたちなんでしょ? あんたたちが最高幹部である時点でわかりきってるのよ。君主である「劉備」はもちろん、「五虎大将軍」も目覚めていないなんて! 遅くとも去年の年末には決めておくべき今期の劉備が不在だなんて話にならないわ! 魏や呉の足元にも及ばないくせに、唯一自分たちよりも弱い在野をことあるごとにいじめるなんて。あ〜みっともないったらありゃしない」
イェリエルは肩をすくめた。彼女の目は簡孫糜トリオ、ひいては蜀に対する嘲笑で満ちていた。
「在野がいたのがせめてもの救いね? ストレスを解消したくても思い通りにならないなんてご苦労さまなこと」
「こいつ……!」
玲火は理性を失った。目の前に風紀委員がいようがいまいが関係ない。この場でイェリエルを叩きのめしてやる。玲火はそう決心した。
「いいわ、じゃあ潰してあげる。まずはその口から黙らせてやるわ」
玲火は自分の名牌カードを手にとった。名牌技が発動する。
「口腔硬化!!」
「―――!」
イェリエルの口が封じられた。
「脚部軟化!」
一瞬にして足から力が抜けると、イェリエルはその場にへたり込んだ。そんなイェリエルを見ながら玲火は思い切りせせら笑った。
「名牌技に手も足も出ないくせに! 次は地面を這いつくばらせてやろうか? あは! そうね、手を後ろに組んだまま前に宙返りするのはどう? 少しくらい怪我しても構わないわ。劉璋も手段は選ばず連れて来いって言ってたしね」
「そこまでだ」
そんなに大きな声ではなかった。威厳のある声でもない。その声が響いた瞬間、イェリエルは驚いた。
「えっ……?」
口が開いた。さっきまで体を制御していた名牌技が一瞬にして解けた。イェリエルが起き上がると玲火は息を飲んだ。
「あんた一体何を―――!?」
玲火は男と目が合った。その瞬間、玲火は息が止まるような感じに襲われた。まるで心臓を握り潰されるような気分だった。
逆らってはいけない。
主君である劉璋からも感じたこのない妙な感覚に玲火は圧倒された。
「ふーむ」
男は血で固まった頭を掻いた。慣れた手つきで名牌カードを操作し、そして【占領状況】アプリを起動した。
「……確かに蜀の勢力に変わっているな。いつ変わったんだ? 朝までは間違いなく共用エリアだったのに」
男は簡孫糜トリオに視線を向けた。冷たく、全てが煩わしいというような虚ろな目だった。しかし、その目に見つめられた瞬間、簡孫糜トリオは妙な寒気を感じた。玲火はその感覚を吹き飛ばすように慌てて首を振った。
「そ、それがどうしたのよ? エリアを占領するのに誰かの許可を得ないといけないルールはないはずよ? 風紀委員がいちいち管理しているわけでもあるまいし! も、文句ある?」
「ないさ。エリア占領はこの学校におけるメインの教育システムの一つだ。それにいちいち文句をつけるのは面倒だ。ただ―――」
男は名牌カードをコートにしまった。
「昼休み直前にエリアを占領して自分たちよりも弱い在野をいじめるガキみたいに幼稚な嫌がらせは見てられない」
「ガキ―――?」
その言葉が「劉璋」に向けられたものだと気付いた玲火の表情が険しくなった。しかしそれよりも男の言葉が早かった。
「それに在野、在野うるさいんだよ、お前ら。それを聞く在野がどんなに胸糞悪いか考えたことないのか?」
「はんっ! 在野の連中なんて気にする必要がどこにあるのよ?」
玲火は視線をイェリエルのほうに向けて嘲笑った。
しかし、その答えを聞いた男は突然変わったデザインのコートを脱いだ。
コートの下の現れた腕章の色は無色。そこには魏、呉、蜀、いずれの文字も刻まれていない。
それが意味するのは単純なことだ。
この男もまさに、所属の無い「在野」であることを意味する。
その事実に誰よりも驚いたのはイェリエルだった。
「な、なぜ? あんた玉璽代理人って言ってたじゃない?」
「あん? 在野だからって玉璽代理人になれない決まりでもあるのか?」
無い。ただ、誰も在野所属には玉璽代理人になれる機会を与えようとしない。だから在野は玉璽代理人にはなれない。これが一般的に知られている常識だった。
男は脱いだコートを肩にかけた。そして血がついて乱れた髪をかきあげながら、簡孫糜トリオを睨んだ。
「俺も在野。そしてお前らは面前で俺を侮辱した。ごく個人的な理由でイラついているため判決を言い渡す。そこのお前、名前は?」
「……在野所属2年5組出席番号21番、双葉イェリエル乃愛」
イェリエルの名前を聞いた男は首を縦に振った。
「ハーフか? ということは、その外見は玉璽代理人になって生じた「変異」ではなく、元からそうだということか。では……、イェリエル乃愛 」
イェリエルは顔を上げて男の目を見た。
(ハッキングの事実はもう発覚している……)
下手をすれば退学だ。それでも、異常な性的趣味のチビに陵辱されるよりましだ。イェリエルは努めてそうやって自分自身を慰めた。
(ごめん、テカチュウ、ござ一派のみんな。私がこの学校からいなくなってもしっかり戦って……)
「無罪」
(……いくのよ。遠くから応援……。……? ……うん?)
イェリエルは目を丸くした。
「無罪?」
「無罪だ」
男はもう一度「無罪」を宣告した。
「その代わり、端末をパスした方法について後で詳細に報告すること。それ以上の罪は追及しない。よって無罪とする。以上」
「何―――!?」
男の判決に反発したのは簡孫糜トリオだった。その中でも玲火は鋭い眼光で男を睨みつけた。
「何よそれ? こいつは現行犯よ。今すぐ連れていかれたって反論できないんだから! 蜀のエリアでルールを破ったのに無罪なんてどういうことよ?」
「無罪だ」
男はもう一度はっきり告げた。
「新たなルールを設ける。今日からエリアを占領する際、相手側に二十四時間の猶予を与える。この二十四時間はエリアを占領された側が整理をするための猶予だ。正常に支配権が譲渡されるのは、二十四時間が経過してからだ」
はばかることなく、思いのままに、堂々たる口調で続けた。
「つまり、お前ら蜀が指定した価格が適用されるには少なくとも明日にならないといけない。2年5組出席番号21番イェリエル乃愛は定価で商品を買っただけだから誰も罪を問うことはできない」
「ちょ、ちょっと、それ一体……」
「よって無罪だ」
「……」
玲火はこの男が何を言っているのか理解できなかった。
「……あ、あんた一体何言ってるのよ? あんたなんかにそんなルール勝手に決められる権限なんてないでしょうが!」
たとえ三校のトップでも、「ルール」を勝手に作ることは不可能だ。もしそれが可能なら、蜀は今頃「劉璋」の命令によって女子校になっているはずだ。ところがそれをこの男は、勝手に「新しいルールを作る」と言っているのだ。
「権限ならあるさ。これは前から施行準備をしていたルールだ。上も認めているルールだから後はいつから適用するかの問題だったんだよ。ついでにお前らの勘違いも訂正してやる。俺は風紀委員ではない」
男は赤兎馬のたてがみを撫でた。赤兎馬は気持ちよさそうにブルルルと息を吐いた。
「イェリエル乃愛に無罪を言い渡したのは今俺が代理を引き受けている友達の権限」
男は名牌カードを空高く突き上げた。その名牌カードをはっきりと見た簡孫糜トリオとイェリエルは固唾を飲んだ。
「金色!?」
そのカードは黄金で縁どられていた。
金縁の名牌カードは唯一「王」にのみ与えられる。蜀の劉備、呉の孫権、魏の曹操を除いて、金縁の名牌カードは―――たった一つしかない。
「イェリエル乃愛を『無罪』にするルールを作ったのは俺の権限だよ。この「生徒会長」の献帝、天月太郎のな」
三学の生徒会長の座について初めて与えられる玉璽の資格。
乱世に揉まれて名分だけが残っていたその名前。
「玉璽代理人の『献帝』の名のもとに、本日より『エリア占領』に関する新たなルールを施行する」
―――後漢最後の皇帝、献帝。
イェリエルの瞳の中に男の姿が映った。
馬鹿で、図々しく、無能だ。だが虚ろな瞳にはきらめく光が見える。
「このルールによってイェリエル乃愛に再度無罪を言い渡す」
無能な皇帝の名を受け継いだ男は大声で叫んだ。
「不満がある者はことの経緯を自分の口で直接君主に話し、君主を通じて直接抗議しろ」
―――そうして献帝の判決が下された。
「以上!」
一度下された判決を簡孫糜トリオの力で覆すことは不可能だった。簡孫糜トリオはただ―――
「「「何よそれ―――!?」」」
とんでもない理不尽な事態にただ嘆くことしかできなかった。