第6話 三学の最後を彩る英雄
終わった――。
粉々に壊れていく壁を見ながら磨稟はこれ以上どうしようもないことを悟った。
(いやだ)
ここで終わらせるわけにはいかない。彼女は体を起こそうとした。
「う、うう」
次いで強烈な目眩に襲われた。一体どういうことなのか、身体をちゃんと起こすことができない。
(劉璋の憑依が解けた?)
憑依を制御する名牌カードが強制的にフリーズされたせいだ。
(いや。だめ。このままじゃ私は……!)
―――あの眩しさに心を奪われたのはいつのことだったろうか?
磨稟は昔から幼く見える自分の容姿にコンプレックスをもっていた。子どものように小さな身体はいつも周囲の視線を惹きつけた。そんな自分を隠すため必死だった。三学に入れば誰もそんな自分を無視できないだろうと思った。
だが、三学は徹底した競争社会。
みんな他人を引きずり下ろそうと血眼になっている。三学で磨稟の「小さな身体」は、いじめの恰好の餌食となった。
(みんな、みんな私の前で跪かせてやる)
彼らのいじめはむしろ磨稟にとって強い動機づけとなった。磨稟は必死で自分を磨き続けた。その甲斐あってか、2学期に入ると次期頭領候補に指名された。そして1年生でありながら幹部として活動することができた。
―――そんなとき、イェリエルに出会った。
イギリス人の血を引く彼女は学校の誰より目を引く存在だった。彼女は髪と白い肌が人の目につかないよう、いつも覆い隠していた。
磨稟は、イェリエルが自分のようにコンプレックスをもっているのだと思った。いつも自分の姿を隠すイェリエルの行動は確かに磨稟のそれと似ていた。だが、それについてイェリエルはこう答えた。
[面倒くさいからなんだけど?]
そのとき、磨稟は自分とイェリエルが全く違うことに気づいた。イェリエルはただ周りの視線を煩わしく思っていただけだ。
彼女は堂々としている。コンプレックスなどない。
磨稟はこれまで味わったことのない敗北感を感じた。
こんな予感がした。きっとイェリエルは誰よりも絢爛に輝くだろう。磨稟は決して彼女の上には立てないに違いない。
そしてその次に屈辱を感じた。
イェリエルなんて―――消えてしまえばいいのに。
―――事件が起こった。
磨稟はただ命令を受けて動いたまでだ。在野から蜀に帰還した先輩がイェリエルと関係があるとは夢にも思わなかった。そしてイェリエルは暴走した。
事故を起こしたイェリエルは在野になった。
眩しい光を放つ少女が「クズ」になったのだ。絶対に勝てないと思っていた少女が自分より下になった。磨稟はそのことにこの上ない喜びを感じた。これで自分の上に立つものはいない。
自分はあのイェリエルより優れている。そのことにプライドを感じた。誰かの上に立つ喜びを味わった。
やがて、「劉璋」になった。
これまで磨稟を見下していた者たちが、彼女の機嫌を取るために頭を下げた。この小さな身体はもはやコンプレックスなどではない。みんなの上に立つ幼い君主、それが磨稟だった。
これ以上「代理」では満足できなくなった。
魏の曹操、呉の孫権と同じ座につくために、磨稟は「劉備」の名に挑んだ。
―――そして彼女は、以前イェリエルに出会ったとき以上の敗北感を味わうことになった。
「あ、うう……」
嫌だ嫌だ嫌だ。
イェリエルが飛び立つ。それは「劉璋」の墜落を意味する。他の者たちに屈辱感を与える道具である小さな身体が、何の取り柄もない、ただの足手まといになってしまう。
「いや……」
壁から開放されたイェリエルが磨稟を見下ろした。
「……磨稟あんた」
磨稟は思わず強く目を瞑った。
「見てなさい。私はあんたなんかに絶対負けないんだから」
イェリエルの口から出た言葉は劉璋をけなす言葉ではなかった。
「あんたは私を甘く見過ぎた。蜀が滅ぶ? 笑わせないでよ。私は自分のやり方で蜀を治める。あんたが文句言えないくらい立派にね! 私はイェリエル・乃愛、挑戦は避けないわ!」
―――わかっている。
イェリエルは下を向かない。いつも上を見ている。彼女に羽がはえた瞬間、誰よりも空高く羽ばたくだろう。
磨稟はイェリエルがそんな少女であることをずっと前から知っていた。
「あ……」
磨稟の体から力が抜けた。
結局、イェリエル・乃愛は磨稟の予想通りの人物だった。
(本当に負けたわ……)
既にわかっていたことだ。
イェリエルの声を聞いた瞬間、磨稟は予定されていた敗北が現実のものとなったことを悟った。
(結局負けたんだ)
悔しい。負けたという事実に憤りを感じた。
だが、妙なことに―――とても奇妙なことだが―――つい先程まで感じていた悲惨な気分が消え失せた。自分の小さな身体がどうとか、そんなことがちっぽけなことのように感じられた。
「格好つけるのはいいんだけど時間見ろよ」
「え? あ、あああっ! もう1分も残ってない。ど、どうしよう! どうしよう!」
さっきまで堂々としていた少女が慌てて悲鳴を上げた。顔の表情がネコのようにコロコロと変わる。
「心配ない。赤兎馬に乗ればすぐだ。10秒もかからない」
「……え? あ、あれに乗るの?」
今度は顔面蒼白になった。
「当然だ。安心しろ。遅刻なんてしないさ」
「そ、そ、そそそういう問題じゃなくて、ちょ、ちょっと? ど、どこ触ってるのよ? い、いやだ。死にたくない。う、うわああ!!」
「ブル、ブルル(死にやしませんよ。失礼ですね)」
磨稟はため息をついた。
劉備の資格条件は簡単だ。
『一定以上の器と、他人のために心から動ける人徳を備えた者』
試験に落ちた時、イェリエルを思い浮かべたのは当然だった。
皮肉なことに、イェリエルが在野に行ったのは、他の誰かのために心から憤ったからだ。
「イェリエル」
「え?」
イェリエルはびっくりしたように磨稟を見た。
「ツルッと滑って試験に落ちちゃえ。ば~か!」
するとイェリエルは怒ったようにしかめっ面をして言った。
「誰が落ちるっていうのよ? 見てなさい。劉備になって徹底的にあんたをこき使ってやる。ありとあらゆる雑用を押し付けてやるんだから」
「……できるもんならやってみなさい」
自由に羽ばたいてしまえ。
このまま、負けたままで終わらせはしない。
―――いつかきっと、きっとイェリエルに本当に勝ってみせる。
突然、勝ちたいという純粋な気持ちが湧き上がった。
「……そうか」
磨稟は気付いた。
競争を通じてお互いを高める。これが真の意味の競争だ。三学が追い求める競争のあるべき姿とはこういうものなのだ。
ようやくそれがわかった磨稟は、少し疲れたように苦笑いを浮かべた。
「さあ、じゃあ行くぞ。行こう、赤兎」
「きゃ、きゃあああ!? ちょ、ちょっと? ちょっと待ってよ!―――助けてえええぇぇ!?」
二人の姿が一瞬にして消えた。しばらく悔しそうに鼻をすすっていた磨稟は、教室に何か落ちていることに気付いた。
「あ、猫耳帽だ」
イェリエルがいつも髪の毛を隠すために使っていた帽子だ。磨稟はそれを見ながらしばしどうするか悩んだ。
「……まあ、強烈なデビューを飾るには最高でしょう」
そしてそのままにしておいた。
★ ★ ★
残り5秒というところで受験者が教室に滑り込んだ。
受験者がなかなか入ってこないので、生徒たちは「やっぱり所詮在野だな」と言いながら小馬鹿にしていた。totoに賭けた生徒たちは「あ〜、この在野のクソ野郎!」と憤慨した。そして受験者が入ってきた瞬間、彼らは皆言葉を失った。
執務室にいた曹操こと、姫貴ですら息を呑むほどの「美しさ」だった。
「七海」
「あ、うん?」
我を忘れて見とれていた七海は、ハッとして答えた。
「これから私の前で唾を飲んでもお金は取らないわ」
「……えっ?」
ドケチらしからぬ宣言に七海はさらに驚いた。姫貴はやけに真剣な表情でモニターを凝視しながら口を開いた。
「……そんなことしたら、今後あの子に会うたびにこっちがお金を払わないといけなくなるわ」
「……ああ、わかる気がする」
星の光が輝いた。地上に星が降り注いだらこう見えるのではないかと、姫貴はそう思った。
姫貴は自分の名牌カードを見た。彼女のカードには数十分前、誰かに送ったメッセージが表示されていた。
【劉備検定試験。蜀側から妨害の兆候あり。注意願う。匿名より】
「貸しを作って後で利用するつもりだったけど……。今回はその美しさに免じてチャラにしてあげるわ☆」
銀髪少女はなんの未練もなく保存されていたメッセージを削除した。
★ ★ ★
「なんか頭がスースーする」
試験会場の椅子に座ったイェリエルは何か足りないような違和感を感じた。だが、すぐに気のせいだろうと思ってやり過ごした。
「ギリギリセーフだな」
イェリエルを教室まで送り届けた天月は、すぐにまた赤兎馬にどこかへ連れて行かれた。彼がいなかったらイェリエルはここまで来れなかっただろう。
「ありがとう」
いつかこの言葉を直接伝えよう。この学校一の無能に―――。
「とりあえず今は」
イェリエル乃愛、彼女自身の戦いを始める時だ。
―――その日。
三学は新たな劉備を迎えた。




