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第5話 馬鹿か策士か、最弱ヒーロー見参

 音楽が聞こえた。

 ダーン、ダーン、ダーン。単調なリズムは軽薄で、チンケで、粗悪だ。幼稚極まりない。

ずっと昔の子ども番組に出て来そうなヒーローの登場曲に似ている。


「うわ、何なに? なにこれ? ヒーロー登場曲?」


 磨稟はまるで子どものように喜んで音楽を口ずさんだ。


「まるで耳元で鳴ってるみたい。ねえ、この状況で悪党って私なんでしょ? じゃあ、イェリエルを救いに来た正義のヒーローのお出まし?」

「ヒーロー……」


 イェリエルは前もこの音楽を聞いたことがあった。残念ながらその時に現れたのはヒーローではなかった。


(まさか…)


 ―――馬鹿みたいに情けなくて、ちっともわけがわからない男だった。その時のことを思い出したイェリエルは頭を振った。


「あのドアを蹴破って現れるのかしら?―――あはは、そんなはず……」


 磨稟がくすっと失笑したその瞬間だった。

 ドッカーン!!

 閉まっていたドアが瞬時に潰れて全壊した。急な事態に磨稟は失笑したままの顔で完全に固まってしまった。


「え? え? えええ?」


 やがて壊れたドアの隙間から何かが姿を現した。

 それは「ヒーロー」という言葉に相応しい品格をもっていた。教室のドアが小さく見えるほどだ。三学の建物が構造的にドアの大きい造りになっているからまだしも、他のところだったら入る事自体不可能だったと思われるほどの図体だ。

 カラーは同然「リーダー」を象徴する熱く情熱的な赤。一歩一歩踏み出す度、教室は地鳴りがする。それこそ圧倒的な存在感だ。そう。人間ではないとしか言いようのないこの生物の圧倒的な―――


「ブルル」

「馬じゃないいいいいい!」


 教室のドアから入ってきた大きな馬の姿に磨稟は取り乱した。


(いや、まだだわ!)


 イェリエルは息を殺した。たかが馬に驚いてはならない。イェリエルは赤い馬の胴体を慎重にうかがった。今回もやはり赤い馬の体に綱が繋がれており、馬が教室に入ってくると、その綱がずるずると引きずられてくる。


(きっとあの向こうに死体が―――!)


 何もない。


「……あれ?」


 赤い馬の綱に繋がれているはずの死体がなかった。イェリエルは予想外の事態に当惑した。


「ブルル?」


 赤い馬はなにか違和感を感じたのか鼻息を吐き出した。くるりと踵を返して後方を見回す。


「ブルル!」


 赤い馬は急いで教室の外に出た。馬が教室を出た後に残ったのは潰れたドアだけだ。


「「……」」


 イェリエルと磨稟は壊れたドアを無言で見つめた。


「イェリエル。今の何なの?」

「さあ……」


 とにかく今度は死体を見なくて済むと思ったイェリエルは安堵した。そうやって安心した刹那。


「ブル」


 赤い馬が再び教室に現れた。何かを口に咥えている。まず人の形ではない。いや、人だ。関節が変な方向に捻れているが確かに人だ。今も頭から噴水のように血が噴き出しているが、確かに人だ。

 少なくともつい先程までは人だったに違いない。


「「きゃあああああ!」」


 あまりにもおぞましい何かの登場に磨稟とイェリエルは仲良く悲鳴を上げた。


「きゃっ! きゃあ! きゃあああ!」


 前回の血まみれの男も夢に見そうなくらい恐ろしい姿だったが、今の目の前にあるのはそれを超えたレベルだ。トラウマになりそうなおぞましい光景にイェリエルは悲鳴を上げてへたり込んだ。


「あうあうあうあうあう」


 一度見たので耐性ができたイェリエルがこの様だ。磨稟の方は顔面蒼白になっている。魂が抜けてしまったようだ。

 そしてしばらくすると、


「ああ、死ぬかと思った。俺の貴重なRh-の血が…」


 なぜ生きている?!

 2人は突っ込みを入れる気力すらなかった。


「俺は生徒会長の天月だ」


 人呼んで血まみれの生徒会長である。


(どうして関節が元通りなの? あっちこちに捻れていたはずよ。男ってやっぱり、ば、化物だわ)

(もしかしたらこの人は本物の人間じゃなくて、私が心の中でつくり出した架空の人物じゃないかしら? たしかそういう小説があったような)


 だが、単なる血まみれのレベルではない。磨稟とイェリエルは大混乱だ。天月はくしで適当に髪をといて前髪を上げた。


「とにかくだな。……あ、音楽消すの忘れてた」


 天月はポケットから名牌カードを取り出した。


「ごめんごめん。俺の名牌カードは持続型だから一度発動させると消すまでずっと聞こえるんだよ。OFF……っと」


【名牌技:皇帝-英雄讃歌】

――OFF


 幼稚極まりないヒーロリズムが消えた。


(名牌技? ただ耳元で音楽が鳴ることが玉璽代理人の優越さを証明する名牌技ですって?)

(ああ……名牌技って意外に大したもんじゃないかも。あは、あははは。はははは)


 磨稟とイェリエルの混乱が止まらない。手鏡を取り出し顔の状態を確認した天月は満足した。


「完璧だな」


 全く完璧ではない。血まみれの怪物が血まみれの人間になったくらいだ。

 天月はへんてこなコートの襟を正し、磨稟とイェリエルの方を見た。


「時間もないし、すぐ本題に入るとするか」


 突然天月の雰囲気が変わった。馬鹿そうに見えるが人を圧倒する何かが感じられる。

 磨稟は慌てて気を取り直した。


「せ、せ、せ、生徒会長がこ、こ、ここに来た理由なんてわかりきってるわ」


 声がひどくぶれている。磨稟はすぐさま口をつぐんだ。

 尋常ではない天月の登場に平常心を失ったのだ。蜀を治める頭領の威厳が台無しだ。磨稟は混乱した心を落ち着かせるため、深呼吸をした。


 ―――震えがだんだん治まっていく。

 完璧だ。そう思った磨稟は口を開いた。


「あ、あと、す、数分しか残ってないのに、じゅ、じゅ、受験生が、し、試験場に着いてないじゃない」


 震えが止まったと思ったのは磨稟の勘違いだった。


「う、うう、う! と、と、とにかく! どうせあんたも在野でしょ? わ、私たちが何かしたと思って来たんでしょ!?」


 磨稟は地団駄を踏むかのように、力いっぱい叫んだ。震えを止めるために必死になっている様子が哀れだ。


「何言ってるんだ?」

「……え?」

「自慢じゃないが、俺たち生徒会は誰一人としてこの事態に気づかなかったんだ! ただ、なんで現れないんだ? って思ってただけだ!」


 確かに自慢ではない。

 天月はとてつもなく面倒そうなしかめっ面で鼻くそをほじくった。


「でも、匿名希望の誰かさんがメッセージで情報提供してくれたんだよ。蜀が何かしでかした可能性がある。早く確認しろって……。まあ、だから面倒だけど一応来てみたってわけさ。ふふふ。これで生徒会は対処能力がすばらしいって、定評を得られるぜ」

「……」


 磨稟の表情が強張った。相手の無能さに言葉を失ったようだ。どうして男どもはいつもこうなんだろう。ため息をついた磨稟は妙な視線を感じた。


(……この男!)


 天月の顔は依然として馬鹿面をしている。だが、その眼光だけは妙に鋭い。磨稟はとてつもない警戒心を感じた。


(もしかして私のペースを乱して自爆を誘っている? なんて恐ろしい……!)


 常識はずれの乱入+赤い馬。

 何かのトリック(?)による死体の真似ごと。

 相手を恐怖で震え上がらせる血まみれの外見。

 鼻くそをほじる間抜けな姿。

一つひとつが全て相手の平常心を乱す行為だ。


(これが全部計算ずくの姿だとすれば……もしかすると曹操以上の怪物かもしれないわ)


 磨稟は緊張して唾を飲み込んだ。


「まず、イェリエルが動けない理由はお前の名牌技のせいか?」

「そうよ。これが自慢の……」

「益州の壁とかなんとかっていうあれだな。見えない壁なのか?」

「……!」


 教えたこともないのに名牌技の名前を知っている。磨稟は自分の背中がぐっしょり濡れているのを感じた。


(冷や汗だなんて。この私がたかが男に怖気づいたっていうの?)


 磨稟は唇を噛み締めた。この男は油断ならない。イェリエルを相手にしたとき以上に磨稟の神経が研ぎ澄まされた。


(時間は……あと6分。6分だけ耐えれば私の勝ちよ)

「あと6分か」

「―――!!」


 磨稟は息を呑んだ。


「あ、あ……!あなた、私の心を……!」

「へ?」


 天月は全てが面倒だという顔で鼻をほじり続ける。磨稟は喉がカラカラになっていく感じがした。


(間違いない。この男、今私の心を読んだ。あの変な音楽が名牌技だって言ったのはフェイクかしら? たしかにあんな情けない名牌技なんてあるはずない。つまりこの男―――献帝の能力は読心系!)


 天月がすっと視線を向けると磨稟はビクリと反応した。

 読心術系の能力者に小細工は聞かない。残るはたったの5分30秒。だが、時間が経つにつれ焦りを感じるのはなぜか磨稟のほうだった。

 そしてこの状況でイェリエルは―――。


(何あの子? どうしたっていうの?)


 わけがわからないという顔で磨稟を見ていた。


(警戒してるの?)


 今磨稟は天月を必要以上に警戒している。ただその理由がなんなのかイェリエルには見当もつかなかった。


 ―――そして肝心の天月は、

(6分。どうするっかな。あ、あと5分か)


 何も考えていなかった。それに読心術なんて優れた能力は最初からありもしない。


「劉璋、この壁だが……」

「……! 知ってるだろうけど、この壁に弱点なんてないからね! む、無敵よ!」


 磨稟の声が少し震えている。言葉もどもっている。


「知ってるって何を? 俺が?」

「し、しらばっくれちゃって。どこまで私をバカにするつもり?!」


 天月は、一体何を言っているんだという目で磨稟を見た。


「うむ。まず壁から解除したらどうだ? 試験を邪魔するなんて、これはれっきとしたルール違反だぞ」

「イェリエルが今回試験を受けるチャンスを得たのも、ルール違反だけど? 目には目を歯には歯を、ルール違反にはルール違反を。理屈を言うならそこからよ」


 天月は口をつぐんだ。すると今度はイェリエルがすぐさま反論した。


「たしかに私が多少無理な方法を使ったのは認める。でもそうでもしなきゃ、チャンスなんてなかった。磨稟、あなたは確かに劉備検定試験の受験を認めたわ。約束を破るのは一勢力のトップとして問題があるんじゃない?」


 磨稟はイェリエルの主張を鼻で笑った。


「問題? 問題ですって? 私には全く見当たらないけど?」

「あんた……!」

「それにあなたにだけは、絶対に劉備の試験を受けさせない。だってあなたは蜀を嫌っているんだから」

「なんですって?」


 在野のため。それが今イェリエルが劉備の試験を受けようとしている理由だ。


「劉備の試験でクズの価値を証明する? まあ、いいわ。それができればきっとあからさまに在野を見下す生徒はいなくなるでしょうよ。いや、あなたなら劉備の試験に合格するに違いないわ。あなたの望み通りにね」


 磨稟はイェリエルのやり方を認めた。そして―――


「でもね、劉備は蜀の君主よ」


 ―――そしてイェリエルが必ず向き合うべき問題を切り出した。


「私は男が嫌い。虫酸が走るほどね。だから男を差別している。蜀でも私のやり方に不満をもつ子たちは大勢いるわ。でも嫌いなのは仕方ないでしょう? 誰だって好き嫌いはあるんだし。それにあなたは在野が好きで、蜀が嫌い。蜀が嫌いな劉備だなんて冗談にもほどがあるわ」


 磨稟は腕組みをしてふんと鼻で笑った。


「それとも、蜀が魏や呉に滅ぼされても構わないってこと? 今は他の勢力に押され気味だけど、私は1年間耐える自信がある。勢力を全部失ってしまえばそれでお終いだから、私だって死にものぐるいでしがみつくしかない。でもあなたは蜀が滅ぼうがどうしようが、眉一つ動かさないはずだわ」


 イェリエルはなんと答えていいかわからなかった。


「あんたは蜀のリーダーとしては失格。完全に失格よ。そんな子にまんまと君主の座を渡すとでも思うの?」


 磨稟の一言は効果があった。

 痛いところを突かれた。確かにイェリエルは劉備になった後のことは全く考えていなかった。


「あなたに劉備の試験を受ける資格なんてない。それとも自分に資格があるって自惚れてるわけ? 蜀を嫌うあなたに?」


 さらに30秒ほどが過ぎた。

 YESというたった一言の答え。イェリエルにはその一言が言えなかった。自信満々にYESと答えられるほどイェリエルは図々しくない。

 磨稟はそんなイェリエルを見て口の端をつり上げた。


「―――面倒だな。時間稼ぎもそれだけできたらプロだな」


 二人をあざ笑う男がいる。


「「はあ?」」


 天月はポケットから名牌カードを取り出した。輝く金縁のカード。「王」を意味する最高等級のカードだ。前面には皇帝のローブをまとった天月が描かれている。


「在野のやつらが蜀のシステムに不満を抱く理由もまあ理解できる。誰にだって立場の違いはあるしな。在野のお前が蜀の立場を気にする理由なんてあるのか?」

「なにそれ? 無責任過ぎるじゃない!」


 磨稟の質問にきちんと答えられずにいたイェリエルがカッとなって叫んだ。


「はあ? 無責任? 本当に無責任なのがどういうことが教えてやろうか?」


 天月は指の上で名牌カードをくるくると回した。回転していたカードを掴み直し、鋭い目でイェリエルを凝視する。


「お前があんなどうでもいい詭弁に、時間を無駄にしていることだよ」

「えっ?」


 蜀のために?


「おかしな話じゃねえか? 蜀がどうなろうとお前が気にする必要がどこにある? うん?」


 詭弁だ。天月はそれを一瞬で撃破した。


「あのチビが言っていることはもっともらしく聞こえる。蜀の立場で考えればお前が劉備になることは確かにありがたくないことかもな。で? だからなんだ?―――それを言うなら蜀は在野を反面教師として利用しちゃいけないんじゃないか? お前らも在野の立場を配慮してやるべきだろう?」


 くっ……。磨稟の眉間にシワが寄った。イェリエルの心を揺さぶるために準備した罠が、この男の一言で簡単に潰されてしまった。


「たかがあんな詭弁に揺さぶられるなんてな。目を覚ませ。お前はまだ蜀の劉備じゃない。今から蜀の未来を気遣うなんていう差し出がましいことは、する必要ないんじゃないか?」


 天月は正面からイェリエルを見つめた。星の光のような彼女の髪は、太陽の光にも遮られることなく、絢爛に輝いた。地上に降り注いだ銀河。それはたしかに人を惹きつける力がある。

 劉璋とは違う。それに曹操とも。


「お前は在野ござ一派の行動隊長イェリエル・乃愛だ」


 それは明らかにイェリエルだけの力だ。


「お前の後ろには、お前のことを信じている在野の問題児たちがいるんだ。自分の立場に責任を持て。そうでなきゃ、お前はただの無責任なバカだ」


 ―――この男、一体何者だろうか?

 イェリエルも磨稟も、天月という男について全くつかむことができなかった。


「劉璋、それにお前は大事なことを隠しているな?」

「何よ? 私が一体何を隠したっていうの?」


 磨稟はこれ以上この無能なバカのペースに巻き込まれまいと、力いっぱい抗った。


「星少女が劉備の試験に合格するだろうと言ったな? 在野を大事に思い、現在の蜀の方針に反旗を翻す星少女を玉璽が認める……。つまりそれは―――本当は星少女が君主になっても玉璽にとってはどうってことないって意味だろ?」

「―――!」


 大きく揺さぶられた。これ以上形成が保てない。無能な馬鹿が容赦なく構図を揺るがす。

 磨稟は唇を噛みしめた。天月を意識し始めたときから、背中の汗が止まらない。


「玉璽は紛争の歴史を繰り返す。そんな胸糞悪い聖物が、蜀に一方的に不利なやつを君主にするはずない」


 磨稟は、すぐに、自分が天月から感じ取った不吉さが錯覚ではないことに気づいた。


「お前はお前なりに蜀のことを想っていただろうよ。でも今お前が並べ立てている聞こえのいい言葉からは、ただ星少女に自分の座を明け渡したくないっていう執念しか感じられない」

「なんですって―――?!」

「それでは判決を言い渡す」


 献帝は一種の呪いである。

 他の玉璽代理人と違ってすべての能力値が低い。本来なら誰もつこうとしない座、それが生徒会長の献帝だ。

 昨年末、その座に自ら立候補した稀代の馬鹿がいた。

 魏に入学した「単于」の後継者より、「曹操孟徳」にふさわしいと噂された天才だ。当時彼はこう言ったという。


[曹操よりあっちがずっと面白いだろ?]


「―――有罪だ」


 天才から稀代の馬鹿に成り下がった男が、磨稟の前方を遮った。

 これ以上どんな言い訳だって通用しない。それを悟った磨稟はうなだれた。


「……あんたの能力ってやっぱり読心術?」

「はあ? 何言ってるんだ? 献帝の名牌技はテーマ曲一つだけだよ」


 天月は磨稟の言葉を否定した。


「もともと、何かを隠したいやつはべらべらとよく喋るものだ。じゃベリ過ぎたんだよ、お前は」


 磨稟は彼を睨みつけた。そうすることしばらく。彼女は諦めたように肩をすくめた。


「はいはい。そうね、あなたの言うとおり。全部いい訳で、ただ統領の座を明け渡したくない、それだけよ」


 磨稟は自分の罪を認めた。でもそれだけだ。


「で? だから何? 有罪? はいはい、仕方ないわね。天下の生徒会長様の判決だし? 私は大人しく過ちを認めて壁を解きますよ。―――ただし、壁の解除に4分はかかるけどね」


 磨稟は、ここで引き下がるつもりは一切なかった。

 イェリエルは何かに気づき素早く時計をみた。


「試験開始まで2分しか残ってない! 磨稟、あんた……!」


 イェリエルが睨みつけると、磨稟は涼しい顔で口笛を吹いた。


「そんなふうに睨んでも仕方ないんだけど? 最初から長時間維持する目的でこの壁を張ったんだから。それだけ解除にも時間がかかるってこと♡」


 嘘だ。イェリエルはそう思ったが証明する術がない。磨稟は、イェリエルを絶対に試験場に行かせないつもりなのだ。


「私は玉璽が決めた『劉備』より、蜀をずっと上手く率いる自信がある。だから劉備なんていらない。出てこられちゃ困るのよ。そういうわけで、壁の解除には4分がかかりま~す。あははは」

「磨稟!」


 磨稟はイェリエルの相手をしながら時間を稼いだ。もう2分しか残っていない。この壁を解く術など、イェリエルにはない。


「くっ―――! くそ!」


 傷ついた拳で再び壁を打ち下ろした。だが、何も変わらない。2分。あまりに短く、あまりに絶望的な時間の壁だった。


「―――劉璋」


 自分の勝利を確信して笑う劉璋に向かって、天月は静かに口を開いた。


「何よ? これ以上何を言ったって無駄よ! この壁は解けない」


 磨稟は天月を挑発した。これは磨稟の最後の手段だ。彼女にももう後はない。


「そうか。穏やかな会話じゃ通じないんだな」


 天月は、本当に残念だというふうに頭を垂れた。そして―――‐


「後漢最後の皇帝の御前だ! わきまえろ! 益州牧!」


 雄々しい号令が響き渡った。

 その瞬間、磨稟は全身を締め付けられる強い気を感じてその場にへたり込んだ。


「え、え…?」


 足から力が抜け、ぶるぶる震えた。磨稟は突然起こった事態に取り乱した。


「献帝はたしかに無能。だが、それでもなお皇帝の名をもつ者」


 天月の鋭い眼光が磨稟に向けられた。磨稟は思わず、

「ひいっ!」と叫んでよろめいた。

 天月が献帝の名牌カードを高く突き上げる。


「三学の頂点に立つ者が有能であれば、紛争事態に悪影響を及ぼす。玉璽としては無能な生徒会長のほうが都合がいい」


 権利はある。だが、何もできない無能な皇帝。それが献帝なのだ。

 献帝のデメリットがすべての能力値を削る。思考レベルも低くしてしまう。普通の生徒より低い能力値になって、ただ流れるがままに生きる。三学を左右する力と権力がありながら、それを使わない。


「だから、無能な道化師なんだよ」


 生徒会長の権天月もそれを受け継いだ。以前の能力がどうであれ、献帝を受け継いだ今はただの無能な人間に過ぎない。


「―――だが無能な道化師といえど献帝は『皇帝』だ」


【APPLICATION―――START.】


 突然、天月の名牌カードでアプリが実行された。通常のアプリとは違う。突如、あちこちに揺らぎ始めたカードの絵を見ながら、イェリエルは息を呑んだ。


(ハッキングアプリ?! 生徒会長がハッキングアプリですって?)


 生徒会長は生徒の頂点に立つ者。三学では無能な職位ではあるものの、誰よりも「ルール」を守るべき立場である。そんな彼がハッキングだなんて?


「見せてやろう。―――皇帝だけができるどんでん返しをな」


【_TUPE B.I.S_】


 その瞬間だった。イェリエルは突然太ももが熱くなるのを感じた。驚いてポケットに手を入れる。


「名牌カードが熱い?」


 イェリエルはすぐに名牌カードを取り出し、状態を確認した。イェリエルが描かれていた名牌カードの前面が、ノイズがかかったように大きく揺らいだ。


「何? どうなって……えっ?」


 壁が見えた。見えるはずのない壁だ。今、その境界付近が、ノイズがかかったように微かに揺れた。イェリエルに一足遅れて壁の異常に気づいた磨稟は息を呑んだ。


「ど、どうなってるの? なんで私の壁が? ……うっ!」


 その瞬間、体が重くなった。磨稟は急な事態に驚いて一歩後ずさる。いや、後ずさろうとしたが、動けなかった。まるで、体が、動き方を忘れたかのようだ。奇妙な不協和音が全身を駆け巡り、吐気がするようだった。


「う、うっ……?」


 ひどい熱にうなされるように、まともな思考ができない。磨稟は、自分の体ではないような、突然の異質感に耐えられず倒れた。


「うむ。手続きを無視した強制的解除だから、所有者に異常をきたしたようだな」


 磨稟は荒い呻き声を上げながら天月を睨む。


「ちょっと! 何をしたのよ! ま、まさか名牌技?」

「だから、俺の名牌技はBGMだけだと言っただろう? 徹底的に無能。この献帝にそんな大きな力なんてあると思うか? ま、名牌カードを使うという点で大差ないがな」


 壁が揺れる。

 ノイズが起こる。


「あっ」


 イェリエルが何をしても越えられなかった壁だ。まるで在野とエーリト集団の間の大きな違いを象徴するかのように見えた壁だ。

 無能な道化師がやってきた。彼は「絶対」を難なく覆した。イェリエルはただぼうっと、揺れる壁を―――その向こうの無能な道化師を見守った。


「一体どうやって……」


 イェリエルは今にも爆発しそうなほど加熱した名牌カードを見た。ノイズの向こうに消えていく文字が見えた。名牌カードだけに使われる特別なプログラム言語だ。その中からいくつか、見逃せない情報が見えた。


―――CPU100%

―――メモリ100%


「―――オーバーヒート!」


 名牌カードに異変が生じた原因が見えた。今、名牌カードは何かの介入により、処理能力の限界にまで過負荷がかかっている。磨稟の名牌カードもやはり同じ状態だった。


(私の名牌カードなんて、重いアプリを起動させればすぐエラーが起きるのはいつものことだけど。でも劉璋の五星カードがオーバーヒートするはずないわ)


 スペックを簡単に比較すると、イェリエルのカードは5年以上経った旧型のガラケー、劉璋の五星カードは高性能のスマートフォンに当たる。よっぽどのことでない限り、五星カードがオーバーヒートすることはない。

 五星カードでも処理しきれない高処理量の何かが強制的に実行されない限り―――。


「あ―――」


 高性能のスマートフォン機器に例えられる五星カードすら軽々と超えてしまうものがある。それはつまり、オーバースペック(OverSpec)。五星カードがオーバーヒートを起こす高処理量の資料でも、いとも簡単に処理できる性能だ。

 五星よりもう一段階上。

 王を象徴する金縁―――つまり六星カードである。


(なら、ハッキングアプリ<_TYPE B.I.S_>の正体は……!)


 イェリエルは天月が起動させたハッキングアプリの正体に気づいた。

 六星カードの圧倒的な性能を利用し、高処理量の情報を強制的に転送、周りの名牌カードを強制的にオーバーヒートさせる。


Break the Imperial seal.

―――その名の通り、「玉璽潰し」だ。


 玉璽の記憶を制御する道具はすなわち「名牌カード」だ。

 一般生徒のイェリエルの場合、名牌カードがストップしても特に打撃はない。でも体に玉璽の記憶が憑依した玉璽代理人の場合は話が違ってくる。突然魂を体から吸いとられるのと同じ衝撃を受ける。

 玉璽代理人は名牌カードがフリーズした衝撃で、立っていることもままならない。

 玉璽代理人の力の象徴である「名牌技」は、その効力を発揮できない。

 それこそ「皇帝」にこそ可能な必殺技なのだ。


「……生徒会長さん。どうしてこんなアプリをもってるの?」


 これまでに出回っているアプリとはタイプが違う。六星専用、ただ最高級名牌カードのためだけに存在するハッキングアプリ―――いってみれば天月専用だ。


「あなた、もしかして『DRAGON』と知り合い……」


 天月はそれ以上言うなというように、人差し指を口元に当てた。茶目っ気いっぱいの顔だ。

 その姿を見た瞬間イェリエルは妙な幻を見た。


 男は皇帝のローブを身にまとっていた。その傍らを守るかのように、金色の何かが見える。蛇のように長い体をしたそれは、古くから皇帝を守護したと伝わる伝説の神物だった。

 それは―――


 金色のきらびやかな幻を見たイェリエルは、慌てて目をこすった。

 それは言葉通り刹那の幻想。どうしてそんな姿が自分に見えたのか彼女自身もわからない。

 そして悟った。

 後漢の最後の皇帝「献帝」の玉璽代理人。

 生徒会長、天月太郎。

 益州牧の劉璋が組んでおいた戦略はこの無能な皇帝によって徹底的に壊された。この皇帝は無能でありながらも―――

(本当に不合理的ね)


 これ以上壁の形を維持できないほどノイズがひどくなった。やがて、壁が完全に崩れ落ちた。劉璋所有の益州の壁は、もはやイェリエルを阻むことはできない。


「刑罰終了だ」


 壁が完全に壊れると天月は名牌カードを元の位置にしまった。


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